41、終焉と旅立ち
魔導書が静かに光を鎮めると、氷の城の空気も、ほんの少しだけ変わったように感じられた。
まるで、長い冬の終わりを告げるかのように。
もう迷いはなかった。
自分の足で、帰るべき場所へ帰ろう___そう、心から思えた。
そんなレティシアの想いを汲み取るように、エリアスが口を開いた。
「……レティシア、屋敷まで送ろう」
その声は優しく、けれどどこか遠くを見ているような響きを帯びていた。
別れの覚悟を含んだその響きに、レティシアはほんのわずかに胸が締めつけられる。
けれど、すぐに笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「……ありがとう、エリアス様」
それは、すべての感情を込めた言葉だった。
感謝も、別れも、そして前に進む決意も。
エリアスは黙って手を上げ、魔力を編み始める。
足元に淡い光の陣が浮かび上がり、空間がわずかに揺らぐ。
次の瞬間、視界が一瞬の光に包まれ──
レティシアが目を開けると、そこはクラウゼ公爵家の屋敷の門前だった。
夜の空気はひんやりとしていたが、あたたかい光が屋敷の窓から漏れている。
その中に、ひときわ目を引く金髪の青年の姿があった。
「……リオン様……?」
彼の名を呼んだ瞬間、リオンがこちらに駆け寄ってきた。
「レティシア……!」
その声は、どこまでも切実だった。
レティシアは思わず立ち止まり、その場に立ち尽くす。
リオンは彼女の目の前まで来ると、背後に立つエリアスの存在に気づき、視線を向けた。
「……エリアス大公……」
その声には、感情が静かに押し殺されている。
エリアスはわずかに首を傾け、静かに言葉を返した。
「……殿下。彼女には、心配するようなことは何もしておりません。
……どうか、彼女を――よろしくお願いします」
リオンは目を見開いた。
「……もちろんそのつもりだ」
その一言は、凛としてまっすぐだった。
エリアスは小さく息を吐き、レティシアのほうへ最後に一度だけ視線を送った。
その目にはもう、未練も痛みもなかった。
ただ、赦しと、感謝のような静かな感情が宿っている。
「では、失礼します」
そう言ってエリアスは、夜の空気に溶けるようにしてその場を去っていった。
残されたのは、レティシアとリオンだけ。
しんとした空気の中で、リオンが一歩、また一歩と近づいてくる。
そしてそのまま、レティシアを強く、ぎゅっと抱きしめた。
「……本当に……心配したんだ」
彼の声が、震えていた。
「でも……戻ってきてくれて……ありがとう」
レティシアは、彼の胸にそっと額を預ける。
「……ごめんなさい、心配かけちゃって」
小さく笑って、囁くように言った。
「……リオン様、大好きです」
その言葉に、リオンの体がぴくりと反応した。
そして――ぽろり、と、一粒の涙が、彼の頬を伝って落ちた。
「……ごめん……」
かすれた声で、リオンが言う。
「君のことは……信じていた。信じていたけど……それでも、やっぱり不安だったんだ。
彼は、君の前世の夫だって……それを聞いて、怖くなった。
でも……君は、僕のもとに……戻ってきてくれた……」
レティシアはそっと、彼の背に手を回し、柔らかく微笑んだ。
「私はリオン様のそばにいたい......これからも、ずっと」
その言葉を聞いた瞬間、リオンは息を呑む。
彼の瞳が揺れ、溢れそうな想いを抱えたまま、じっとレティシアを見つめ返す。
「……僕も……君のことが、心から、愛しい」
震える声でそう告げた直後――
リオンはもう、抑えきれなかった。
「……ごめん、もう我慢できない」
次の瞬間、彼はぐいとレティシアの腰を引き寄せ、唇を重ねた。
それは一瞬、戸惑うほどに強くて、そして切ないほどに熱を帯びていた。
レティシアの目が見開かれたのも束の間、すぐにその温もりに身を委ねる。
心の奥で灯った感情が、優しく、けれど確かな熱を持って彼女を包み込んだ。
夜風がそっと吹き抜ける中、ふたりはただ、お互いの存在を確かめるように深く口づけを交わす。
唇が離れたとき、ふたりは息を呑んだまま、ただ見つめ合った。
言葉にならない想いが、沈黙の中で交わされる。
──そして。
「……ありがとう。戻ってきてくれて……本当に……」
リオンの声は震え、頬を一筋、涙が伝う。
レティシアは微笑みながら、そっと彼の頬に手を添えた。
「……待っててくれて、ありがとう」
優しい言葉が、夜の空気に溶けていく。
それだけで、ふたりの間に流れる空気が、柔らかくあたたかいものに変わった。
「……だから、これからも隣にいさせてください」
リオンはもう一度、彼女を抱きしめる。
今度は、すべてを預けるように、静かに、深く。
夜の空気はひんやりしていたが、不思議と寒くはなかった。
ふたりの心の中に灯ったものが、ずっとあたたかく、そこに在り続けていた。
まるで___これが、新しい運命の始まりだと告げるように。
それはまさしく、ふたりの物語の、新しい幕開けだった。
次回、最終話