3、違和感
レティシアは静かに息を吐き、重たい沈黙の中で胸に手を当てる。
鼓動は、まだ落ち着いていなかった。
_____何が起きたのか、説明がつかない。
でも、あの魔導書が自分にだけ反応したという事実は、何よりも重い。
「……今日は、もう戻りましょう。私も、少し……頭を冷やしたいです」
そう告げるレティシアに、リオンは少し驚いたように目を細め、そしてうなずいた。
「………わかった。けど、また話そう。君自身のことも……ね。とりあえずこの魔導書は、僕が預かるよ」
レティシアは小さく頷き、差し出された手に迷いなく魔導書を渡し、書庫を後にする。
書庫の扉が重く閉じられた瞬間、胸の奥に残る熱がようやく落ち着いていくのを感じた。
***
舞踏会の喧騒は、まだ続いていた。
だがレティシアの足取りは軽く、どこか宙を歩いているような気分だった。
前世の記憶と、魔導書の反応。それらが、彼女の内側を静かに、けれど確かに塗り替えていた。
王宮の書庫を出たあと、彼女はひとり、庭園の小径へと足を向けていた。
夜風に揺れる草花の香りが、心を穏やかに撫でていく。
月明かりに照らされた石畳の道を、音もなくドレスの裾がすべっていく。
____過去の想いも、あの人への感情も、すべてが幻だった。
そんな冷静な実感が、彼女の歩みに迷いを与えない。
ふと視線を向けると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
薄氷の瞳。整いすぎた顔立ち。気品に満ちた立ち姿。
エリアス・ノルベルト。
レティシアの胸に、かつてのような高鳴りは____なかった。
(……あんな男、今となってはもう、どうでもいいわ)
彼女はまっすぐにエリアスを見つめると、わずかに口元を上げて言った。
「エリアス様、今宵はごきげんよう」
そのまま、すれ違いざまに軽く会釈をし、視線も向けずに歩み去る。
エリアスは、声をかけなかった。
ただ、すれ違ったレティシアの背中を振り返りもしない姿に、何かが引っかかる。
言いようのないざらつきが、胸に残る。
____あのいつも鬱陶しく媚びてくるレティシアが、どうした?
気を引こうと過剰に笑い、服の裾を掴み、こちらの機嫌を窺ってばかりいた女が___今の彼女は、別人のようだった。
軽く挨拶をするだけで、まるで通りすがりの貴族の一人のように振る舞い、何の感情も残さずに立ち去っていった。
妙だった。あまりにも、妙だ。
(……まるで俺に興味がないみたいじゃないか)
不快感が胸を刺す。
それはほんの小さな棘のようなものだったが、ひどく気になって仕方がなかった。
自分を見つけた瞬間、真っ先に顔を綻ばせて駆け寄ってくるはずの女が、どうして……あんな目をしていた?
____冷静で、何も期待していない目。
(……あんな女、興味はなかったはずだ)
それなのに、どうしてこんなにも気になる。
エリアスは足を一歩、そしてまた一歩と、ゆっくりと踏み出した。
まるでその場に長く留まってはいけないとでも言うように、視線を逸らして踵を返す。
夜の庭園には風が吹き抜け、草の香りと花の甘い匂いが微かに漂う。
砂利を踏みしめる足音が、静けさの中に細く長く伸びていく。
だがその背には、妙なざわめきがまとわりつくように残っていた。
彼女が変わった____
ただそれだけのことが、どうしてこうも胸に引っかかるのか。
その理由を突き止めるように歩を進めながらも、エリアス自身、まだその問いに答えを出せずにいた。