36、最愛の名を呼んで
最終章です。
夜の帳が城を覆い尽くし、氷の城の廊下は冷たく静まり返っていた。
けれど不思議と、肌に刺すような寒さはない。
まるで時間さえ凍りついたかのように、無機質な空気が漂うだけだった。
レティシアは自室の椅子に腰かけ、窓の外に広がる白銀の世界を見つめていた。
氷でできた窓枠には、月明かりが淡く反射し、まるで夢幻の光景のように煌めいている。
どこまでも透き通った氷の壁。静けさが支配する部屋。
その美しさの中に潜む、底知れぬ孤独に、彼女の胸はかすかに軋んだ。
この部屋に満ちるのは、ただ寂しさだけ。
冷たさに似た空虚さが、時折心を覆い尽くしそうになる。
それでも、レティシアは目を伏せ、心を奮い立たせるように深く息を吐いた。
リオン様のことを思う。
あの温かな瞳、微笑みを向けてくれる声。
本当は、あの腕の中に帰りたかった。
あの優しさに包まれて、全てを忘れてしまいたかった。
……どんなに弱い自分でも、彼なら許してくれる。そんな気がしてしまうほどに。
けれど、レティシアはゆっくりと目を閉じ、首を振った。
___でも、それはできない。
胸の奥に、忘れがたい光景がよみがえる。
前世のアリアとして、病に伏し、もう戻れない旅路を歩き始める前夜。
苦しむ体を支えてくれた、夫のカイルの瞳。
その瞳は、最後まで深い愛で満ちていた。
……弱くて泣いてばかりだった私を、カイルはずっと優しく支えてくれた。
最期のときまで、そっと手を握り、微笑んでいてくれた。
私にとって、最愛の夫だった。
だからこそ、今のエリアスの狂気を目にしても、心のどこかで信じてしまう。
あの優しかったカイルが、理由もなく壊れてしまうはずがない。
きっと……何か理由がある。
私の知らない、彼だけの苦しみと絶望が。
前世で旅立った後の彼のことは、何も知らない。
私を残し、彼がどんな痛みを抱えたのかも。
でも、それを知りたい。
そして受け止めたい。
前に進むために。
私自身が後悔しないために。
リオン様の隣に立ちたいなら。
彼のそばで胸を張って笑える自分でいたいなら。
この想いから目を逸らすわけにはいかない。
エリアス様を見捨てることは、きっと私の心を蝕むだろう。
それは、リオン様への想いをも裏切ることになる。
私が私でいられなくなってしまう。
だから、レティシアは目を開く。
氷の月光に照らされた自分の瞳を、窓に映して確かめる。
___私は決めたの。
エリアス様と向き合う。
カイルの想いと向き合って、受け止めて。
そして必ず……自信を持って、リオン様の元へ帰るのだ、と。
その決意が、静かに胸に根を下ろす。
氷の城に満ちる無機質な冷たさの中で、レティシアの心だけが、確かに熱を宿していた。
ふと、扉の向こうから足音が近づいてくる。
ゆっくりと重く響くその音に、レティシアは小さく息を呑んだ。
扉が軋む音と共に、エリアスが部屋へ戻ってくる。
彼の鋭い瞳が部屋の空気を舐めるように探り、低く呟いた。
「……ここに誰か来たな。使用人じゃない……誰かが」
レティシアはまっすぐにエリアスを見据えた。
彼の声には苛立ちと、怯えに似たものが滲んでいる。
「俺を裏切るのか? また……ひとりにするのか?」
一瞬の沈黙の後、彼の声は震え、さらに小さく、切実に続く。
「なぁ、アリア……愛していると言ってくれ……」
その言葉には、過去の痛みと絶望が絡みついていて、まるで彼の心が粉々に砕けそうなほどに、必死で掴もうとしている響きがあった。
部屋の空気が一瞬、凍りつくように静まる。
けれど、レティシアは揺らぐことなく、冷静に、確かな足取りで彼の前へと歩み寄った。
その瞳は悲しみと哀願を越え、深い理解と覚悟を湛えていた。
「……エリアス様。いえ……今はカイルと呼びましょうか」
その一言に、彼の目がかすかに揺れた。疑念と恐れ、そして一瞬の希望が交錯するように。
「少し……話をしましょう」
その声は穏やかで、揺るがぬ意志を帯びていた。
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