35、離れても、想いは
氷の城に閉じ込められて、どれほどの日が経ったのか。
昼間は無表情な使用人たちに世話をされ、夜になればエリアスが戻ってくる。
その繰り返しに、心が蝕まれていく。
外には出られない。
このままでは、気が狂ってしまいそうだった。
氷の壁に囲まれた部屋で、レティシアは膝を抱えて座る。
思い出すのは、あの夜___
エリアスに無理やり唇を奪われそうになったとき、死んでやると舌を噛み切ろうとした瞬間のこと。
「……それだけは……やめてくれ……。お前だけは……失いたくないんだ……。頼む……もう、ひとりに……しないでくれ……」
彼が震える声でそう言った。
あれがずっと、胸にこびりついて離れない。
エリアスはそれ以来、無理に触れてくることはない。
けれど、夜になると必ず同じベッドに潜り込んでくる。
リオン様の婚約者である身で、こんなことは許されない。
けれど――
拒めない自分もいるのだ。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
助けて……リオン様……
会いたい……あなたに会いたい……。
そんなふうに考えていたときだった。
不意に、部屋の扉が開く。
こんな時間に?
食事の時間でもお風呂でもない。
まさか、エリアス様……?
血の気が引く。
けれど、そこに立っていたのは___リオンだった。
リオン様……?
信じられない光景に、レティシアの胸が激しく波打った。
長く閉ざされていた心の扉が、一気に開くような感覚。
リオンはためらいなく駆け寄り、震える腕でレティシアを強く抱きしめた。
「……ここにいたんだね……。無事でよかった……」
その温もりが、レティシアの胸をいっぱいにして、涙が溢れそうになった。
やっと……やっと……リオン様に会えた……。
リオンはレティシアを抱きしめたまま、震える声を漏らす。
「……本当によかった……。君に何かあったら、僕……耐えられないところだった……」
その言葉は、まるで彼の胸の鼓動そのものが溢れ出たかのように響いた。
レティシアの胸に深く刻まれ、その真剣な想いに触れた瞬間、彼女の頬を涙が静かに伝った。
「……ごめんなさい……ご心配をおかけして……」
震える声で詫びるレティシアに、リオンはそっと首を横に振った。
「……違うよ。謝ることじゃない」
彼の瞳は優しさに満ちていて、彼女を責めるどころか全てを受け止めていることが伝わった。
「……ねぇ、こんなことをしたのは……エリアス大公……だよね?」
リオンの声は慎重で、でもどうしても知りたいという気持ちが滲んでいた。
レティシアは小さく頷き、声はかすかに震えた。
「……はい」
リオンは一瞬息を呑み、言葉を続けるのに迷いながらも、恐る恐る問いかけた。
「……もしかして……その……エリアス大公に……」
レティシアは俯きながらも、しっかりと答えた。
「リオン様が心配するようなことは……何もありませんでした」
「……そうか……」
リオンは安堵の吐息を洩らす。
けれど、抱きしめる腕の力は逆に強くなり、彼の胸に響く不安が伝わってきた。
「……レティシア、ここから出よう。……一緒に帰ろう」
その言葉に、レティシアは思わず頷こうとした。
「はい……」
しかし、言葉が喉の奥で詰まってしまう。
心の中で叫ぶ声があった。
……本当に、このまま帰っていいのだろうか……。
エリアス様を置いていって……あのままで、本当にいいのか……。
……そう言って背を向ければ、きっともう二度と振り返れない気がした。
リオン様の手を取れば、私の心は楽になる。
けれど、エリアス様の孤独は、ずっと私を呪い続ける気がして。
誰も救えなかった“過去”。
誰かを見捨てようとする“今”。
……どちらが、より罪深いのか。
もう、私にはわからなかった。
しばらくの沈黙が、二人の間を重く覆う。
不安に揺れる瞳でリオンがレティシアを見つめる。
その視線は痛いほどに胸を突き刺し、彼女の心を締め付けた。
___でも、エリアス様を見捨てることはできない。
彼の中に確かに感じる、かつてのカイルの面影。
彼の執着の奥に隠れた、助けを求める叫びが聞こえるようで……
その叫びを、見て見ぬふりはできなかった。
「……すみません……リオン様。……私……一緒に帰れません」
「……なんで……!」
リオンの声は震えていた。困惑と悲しみがないまぜになり、言葉を絞り出すように吐き出す。
彼の目が、必死に何かを訴えかけるように揺れている。レティシアを手放したくない、その思いが痛いほど伝わってくる。
けれど同時に、レティシアが自分の気持ちに背を向けるのではないかという恐怖も、その瞳に宿っていた。
レティシアは必死に心を決めて、震える唇で言葉を紡いだ。
「……エリアス様を……このままにしておけないのです。彼を説得しなければ、また同じことを繰り返してしまう。……前世で……彼は私の夫だった。……あの人を、どうしても……助けたい……」
言葉を聞いたリオンの瞳には、戸惑いと悲しみが溢れていた。
その瞬間、私の胸を締めつけるような衝動が走る。
……エリアス様を助けたい。けれど、私の心は……誰よりもリオン様に向いている。
今、この瞬間に伝えなければ。
伝えなければ……この人に、私の想いが届かない気がして。
どうしても、どうしても――誤解させたくなかった。
涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、震える声で言葉を絞り出した。
「……でも……私の心は……リオン様です。……だから、必ず……必ず戻ってきます。どうか……信じてください……」
そう言った瞬間、リオン様の瞳が大きく揺れた。
泣きそうなくらい、切なく、嬉しそうに……その姿に、私の胸も熱くなる。
リオン様は言葉にならない何かを必死に押し込めるように、一度ゆっくり目を閉じてから、静かに頷いた。
「……わかった。……信じるよ、レティシア」
その声には揺らぎと強さが同居していて、私の胸に真っ直ぐ届く。
そして、彼は胸元からペンダントを外し、そっと私の首にかける。
「これは……危険を感じた時、僕に知らせることができるものだ。……君を必ず迎えにいくから。絶対に……」
彼の手の温もりが伝わり、震える指に私はそっと触れ返す。
言葉にはできない約束と覚悟が、その小さなペンダントに込められていることを感じて、涙がこらえきれず頬を伝った。
「……ありがとう、リオン様……」
名残惜しさが絡み合う空気の中、リオン様はもう一度私を強く抱きしめてから、静かに城を後にした。
その背中に、私は必ず戻ると心で誓いながら見送った。
次回、最終章!




