表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/43

32、愛の残響

 エリアスの冷たい指がレティシアの顎を掴み、氷のような空気が肌を刺す。唇が近づいた瞬間、レティシアは必死に声を絞り出した。


 「……これ以上は……やめて。お願い、やめて……!」


 だがエリアスの瞳は狂気に濁り、優しさのかけらも見えなかった。レティシアは瞳を閉じ、決意を込めて吐き捨てるように言い放つ。


 「……やめないなら……私、舌を噛み切って死んでやるわ……!」


 その言葉が冷たい空気を切り裂いた。氷の部屋に響いたのは、自分の命を賭けてでも抵抗しようとする決意だった。


 エリアスの瞳が大きく揺れた。狂気に支配された瞳の奥に、一瞬だけ恐怖の色が浮かぶ。硬直するように顔が引きつり、震える声で呟く。


 「……それだけは……やめてくれ……。お前だけは……失いたくないんだ……。頼む……もう、ひとりに……しないでくれ……」


 その声に、レティシアの心臓が痛みを覚えた。目の前の男は、狂気に取り憑かれている。それでも、かつての優しさの残響が、確かにそこにあった。


 エリアスの瞳から涙がこぼれ落ちる。頬を濡らすその雫は、氷の世界で唯一の熱を持つもののように思えた。


 レティシアは目を逸らそうとした。なのに、その悲痛な姿が脳裏に焼きついて、胸が痛くてたまらなかった。無意識のうちに、そっと震えるエリアスの頭に手を伸ばしていた。


 (……どうして、こんなこと……)


 自分の行動にすぐさま後悔が押し寄せる。こんなふうに触れてしまったら、もう二度と引き返せなくなるかもしれない。なのに、あの涙を見てしまった瞬間、どうしても無視できなかった。


 触れた指先に、どこか懐かしさを覚える。それが、かつてのカイルの面影を呼び覚ます。心の奥に封じ込めたはずの記憶が、強引にこじ開けられるように蘇っていく。


 (……カイルじゃないのに……どうして……)


 レティシアは必死に理性を取り戻そうとする。けれど、彼の弱さに触れてしまった自分を、嫌悪しきれなかった。どうしてこんなにも胸が痛むのか、自分でも分からない。ただ、彼の背負う孤独を、どうしても放っておけない気がしてしまう。


 エリアスはその感触に微かに目を細め、安堵するように息を吐く。だがすぐにまた怯えたように囁いた。


 「……触れない。だから……今夜は……そばにいさせてほしい。お前に何もしない……ただ……そばに……」


 レティシアは息を呑んだ。彼の言葉は、悲しいほど弱々しく響いた。理性は「拒むべきだ」と叫んでいるのに、心はすでに揺らいでいた。

 エリアスの中にかつてのカイルの影を感じてしまった自分に、抗うことができなかった。


 「………わかったわ」


 短い言葉を落とすと、エリアスの表情がわずかにほころぶ。氷のように冷たい空間で、ふたりはただ同じ寝台を分け合った。


 夜は長かった。エリアスは触れようとしなかった。ただ隣に座り、レティシアの寝息を確かめるように時折目を伏せていた。


 レティシアは眠れずにいた。背中に感じる彼の存在が、かつての夫と重なってしまう。目を閉じれば、あの夜に見た優しい微笑みがよみがえる。けれど、それはすでに失った幻だと、理性は知っていた。


 (……どうして……私は……)


 混乱する心を押さえつけるように、胸元をぎゅっと握りしめる。けれど、胸に残る温度が、どうしようもなく懐かしかった。


 そして夜が明けるころ、エリアスは立ち上がり、静かに告げる。


 「……屋敷に戻る。また会いに来るよ」


 その背中は、どこか寂しげだった。レティシアは黙って見送ることしかできなかった。


 氷の部屋に残されたレティシアは、胸に残る温度をそっと確かめる。あれは幻なのか、それともかつての愛の残響か。答えは出ないまま、窓の向こうで朝日が氷を溶かすように光を放っていた。

次回、リオン視点!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ