32、愛の残響
エリアスの冷たい指がレティシアの顎を掴み、氷のような空気が肌を刺す。唇が近づいた瞬間、レティシアは必死に声を絞り出した。
「……これ以上は……やめて。お願い、やめて……!」
だがエリアスの瞳は狂気に濁り、優しさのかけらも見えなかった。レティシアは瞳を閉じ、決意を込めて吐き捨てるように言い放つ。
「……やめないなら……私、舌を噛み切って死んでやるわ……!」
その言葉が冷たい空気を切り裂いた。氷の部屋に響いたのは、自分の命を賭けてでも抵抗しようとする決意だった。
エリアスの瞳が大きく揺れた。狂気に支配された瞳の奥に、一瞬だけ恐怖の色が浮かぶ。硬直するように顔が引きつり、震える声で呟く。
「……それだけは……やめてくれ……。お前だけは……失いたくないんだ……。頼む……もう、ひとりに……しないでくれ……」
その声に、レティシアの心臓が痛みを覚えた。目の前の男は、狂気に取り憑かれている。それでも、かつての優しさの残響が、確かにそこにあった。
エリアスの瞳から涙がこぼれ落ちる。頬を濡らすその雫は、氷の世界で唯一の熱を持つもののように思えた。
レティシアは目を逸らそうとした。なのに、その悲痛な姿が脳裏に焼きついて、胸が痛くてたまらなかった。無意識のうちに、そっと震えるエリアスの頭に手を伸ばしていた。
(……どうして、こんなこと……)
自分の行動にすぐさま後悔が押し寄せる。こんなふうに触れてしまったら、もう二度と引き返せなくなるかもしれない。なのに、あの涙を見てしまった瞬間、どうしても無視できなかった。
触れた指先に、どこか懐かしさを覚える。それが、かつてのカイルの面影を呼び覚ます。心の奥に封じ込めたはずの記憶が、強引にこじ開けられるように蘇っていく。
(……カイルじゃないのに……どうして……)
レティシアは必死に理性を取り戻そうとする。けれど、彼の弱さに触れてしまった自分を、嫌悪しきれなかった。どうしてこんなにも胸が痛むのか、自分でも分からない。ただ、彼の背負う孤独を、どうしても放っておけない気がしてしまう。
エリアスはその感触に微かに目を細め、安堵するように息を吐く。だがすぐにまた怯えたように囁いた。
「……触れない。だから……今夜は……そばにいさせてほしい。お前に何もしない……ただ……そばに……」
レティシアは息を呑んだ。彼の言葉は、悲しいほど弱々しく響いた。理性は「拒むべきだ」と叫んでいるのに、心はすでに揺らいでいた。
エリアスの中にかつてのカイルの影を感じてしまった自分に、抗うことができなかった。
「………わかったわ」
短い言葉を落とすと、エリアスの表情がわずかにほころぶ。氷のように冷たい空間で、ふたりはただ同じ寝台を分け合った。
夜は長かった。エリアスは触れようとしなかった。ただ隣に座り、レティシアの寝息を確かめるように時折目を伏せていた。
レティシアは眠れずにいた。背中に感じる彼の存在が、かつての夫と重なってしまう。目を閉じれば、あの夜に見た優しい微笑みがよみがえる。けれど、それはすでに失った幻だと、理性は知っていた。
(……どうして……私は……)
混乱する心を押さえつけるように、胸元をぎゅっと握りしめる。けれど、胸に残る温度が、どうしようもなく懐かしかった。
そして夜が明けるころ、エリアスは立ち上がり、静かに告げる。
「……屋敷に戻る。また会いに来るよ」
その背中は、どこか寂しげだった。レティシアは黙って見送ることしかできなかった。
氷の部屋に残されたレティシアは、胸に残る温度をそっと確かめる。あれは幻なのか、それともかつての愛の残響か。答えは出ないまま、窓の向こうで朝日が氷を溶かすように光を放っていた。
次回、リオン視点!