30、氷の檻
氷の扉が閉まる音が遠くに響いた。重厚な音が、どこか別世界に迷い込んだような錯覚を与える。
白い息を吐くレティシアの前に、静かに立つエリアス。氷の光に反射するその姿は、まるでこの城に囚われた王のように、冷たく、そして神秘的にさえ見えた。
近づくエリアス。足音はほとんど響かないのに、その気配は息苦しいほど強く迫る。氷の床を滑るような歩みのたびに、冷気が彼の周囲を舞う。
レティシアは震える声で問いかけた。
「……どうして、こんなことを……?」
声はか細く、それでも必死に彼の瞳を見つめ返す。冷たい空間の中で、ただひとつ熱を帯びたその双眸に、視線を奪われるように。
エリアスは口元にほのかに笑みを浮かべる。だが、その笑みはどこか狂気めいていた。
「レティシア……お前を、取り戻すためだ」
一歩、また一歩と近づくエリアス。氷の壁に反射する光が、彼の頬を淡く照らす。けれど、その瞳の底に潜む暗い炎に、レティシアの背筋が凍る。
「……取り戻す……って……?」
声は震え、胸の奥に張り詰めた恐怖を隠しきれない。エリアスはわずかに目を細め、冷たい空気の中で甘く低く囁く。
「レティシア……いや、アリア。思い出せ。俺たちは___夫婦だった」
その言葉は甘く、けれど鋭い刃のように胸を切り裂く。レティシアの心がざわめき、遠い記憶を呼び覚ますように胸を締めつける。
「殿下との婚約……あれを知ったときは、確かにショックを受けた。だが……少しの浮気くらい、許してやる」
「……浮気……?」
愕然とするレティシア。エリアスの瞳に映る執着に、思わず後ずさろうとするも、背後には氷の壁しかなかった。
「俺たちは愛し合っていたはずだ……そうだろう? アリア……」
その低い声に、空間の温度がさらに下がったように思えた。レティシアの唇がかすかに震える。
___愛し合っていた……。
確かに、そうだった。けれど……今、目の前にいるのは、かつての優しさではなく、狂気そのもの。
「……そんなのは……愛じゃないわ」
声を振り絞るレティシア。けれどエリアスの微笑みは消えず、むしろ静かに確信を深めるように目を細める。
「……とにかく、お前はここから出られない」
その声は冷たく、決して揺らがない。
「……永遠にな」
その言葉に、レティシアの全身から血の気が引く。氷に閉ざされた世界に、出口はない。
エリアスは顔をほんのわずかに傾け、彼女を見下ろす。その瞳は、すべてを奪い尽くす決意を秘めていた。
「今ごろ、お前は行方不明ということで捜索されているはずだ。……俺までいなくなれば、すぐに疑われる」
小さく息を吐くと、彼はまるで当たり前のことを告げるように言った。
「だから……とりあえず俺は屋敷に戻る。だが安心しろ。夜には必ず戻る」
その声は穏やかですらあった。まるでそれが当然のことだと言わんばかりに。
「身の回りのことは、口の固い使用人が世話をする。何も心配はいらない……」
言葉を囁くようにして、エリアスはそっとレティシアの頬に手を伸ばす。氷よりも冷たい指先が、かすかに彼女の肌をかすめた。
その瞬間、レティシアの身体は反射的に震えた。冷たさと、そこに潜む執念の熱に。
エリアスの瞳は微かに細まり、その蒼い光が氷の壁に反射する。指先が彼女の頬をなぞる動きは、まるで大切なものを愛おしむように、ゆっくりと――それでも確かに支配を刻むように。
「俺が戻るまで……ゆっくりと過ごしてくれ」
最後のその言葉は、甘やかすような響きを帯びていた。
「……愛している、アリア」
その言葉と共に、指先は頬に残る温度を惜しむように、そっと離れていった。氷の扉が閉じるとき、レティシアの頬には冷たさと彼の気配だけが残されていた。
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