29、氷の影
華やかな婚約パーティーは、最後まで夢のような時間だった。リオンの腕の中で交わした甘い言葉や、夜の庭園で感じた温もり___すべてが胸の奥に刻み込まれ、帰りの馬車の中でもレティシアの頬はほのかに紅く染まっていた。
「……まだドキドキしてる……落ち着かなくちゃ……」
馬車の揺れに合わせてそっと目を閉じ、深呼吸をする。けれど胸に広がる甘い記憶の余韻は消えず、むしろ心をかき乱すように熱を帯びていた。そんなとき、ふいに脳裏をかすめたのはエリアスの視線。まるで全てを見透かすような、あの冷たい青い瞳___。
(エリアス様......でも、カイルを裏切っているようで......)
そんな思いが心を締めつける。けど___
(でも……私は今、レティシアとして生きている。リオン様に惹かれている気持ちに......もう嘘はつけない)
震える指先をきゅっと握りしめる。自分に言い聞かせるように、確かめるように。
___この選択は、きっと間違っていないはずだと。
けれど、その決意を胸に刻んだ瞬間だった。
―――ドンッ!
馬車が急に大きく揺れ、車体がぎしりと軋む。揺れに思わず身体を支えようとした次の瞬間、馬車の扉が乱暴に開かれた。夜風とは違う、ひどく冷たい空気が一瞬で車内に吹き込む。氷のように冷たい気配に、レティシアは息を詰めた。
「……誰?」
呟いた瞬間、ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。何かが口元に押し当てられ、息をするより早く、視界が暗く落ちていった。
誰かが入ってきた――その一瞬の記憶を最後に、意識が急激に遠のいていく。倒れるように瞼を閉じ、冷たい空気と花のような香りだけが肌に残された。
***
―――次に目を覚ましたとき、レティシアは思わず息を呑んだ。
そこはまるで氷の城のような空間。淡い光を帯びた氷の壁が、冷たくも美しい輝きを放っている。天井から吊り下がる氷柱はまるで宝石のように光を屈折させ、青白い光が床にゆらゆらと揺れていた。
音もなく澄んだ空気が広がり、氷が奏でるかすかなきらめきが耳を打つ。その不思議な音色はまるで遠い記憶の囁きのようで、胸の奥をくすぐるように響いてくる。
けれど、不思議なことに寒さは感じなかった。むしろ、氷に覆われたこの空間全体が、やわらかなぬくもりを含んでいるように思えた。まるで、誰かの想いがこの場所を満たしているかのように。
「……ここは……?」
声を出すと、天井に反射した光が震えるように煌めいた。その眩しさに目を細めた次の瞬間――背筋にひやりとした気配が走った。
氷の静寂を割るように、足音が一歩ずつ近づいてくる。その音はやわらかでありながら、胸の奥にまで響くように重い。
心臓が強く脈打ち、呼吸が乱れる。緊張と恐怖に細い肩が震え、思わず唇を噛んだ。
「……だ、誰……?」
氷の光を浴びながら、ゆっくりとその姿が現れる。青い瞳が氷の輝きと同じ冷たさを帯び、けれどその奥に隠された激情を感じさせる。
エリアス様___否、前世の夫、カイルの面影を宿すその男が、確かにそこにいた。
胸の奥が恐怖に震え、冷たい空気に喉がひりつく。レティシアはただ、その瞳を見つめるしかなかった。凍りつくような空気の中、彼の視線だけが熱を孕んでいるように思えたのだ。
「……目が覚めたようだな、レティシア」
その声が響いた瞬間、氷の城の空気すら震えたように感じられた。足音と共に近づく気配に、レティシアは息を呑み、身体を強ばらせる。
それでも___その瞳に映る自分を、ただ確かめるように見つめ返すしかできなかった。
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