2、魔導書と王子
胸の奥に残っていた、あの人への想いは___もう、幻だった。
エリアスに惹かれていたのは、誰かを想いたいという寂しさの穴を埋めたかっただけなのかもしれない。
空虚を埋めるための幻想。それにすがっていた自分の浅はかさが、今はただ、苦しかった。
前世での名前はアリア。三十代半ば、病に侵され、静かにその生涯を終えた。
___その最期の時まで、たった一人、変わらず傍にいてくれたのは、夫だったカイル。
優しさで包み込むように寄り添い続けてくれた彼の存在が、どれほど支えになっていたか。
今なら、痛いほどにわかる。
それなのに、今の私は_______。
高位貴族の家に生まれたというだけで、誰かを見下し、感謝もせずに踏みつけてきた。
あの頃の“私”がこの姿を見たら、きっと、悲しんだに違いない。
もう、戻れない。
過去にも、そして____あの頃の自分にも。
ぼんやりと手元の魔導書に視線を落とす。まだ震える指先に、その表紙の感触が残っている。
何かが、変わってしまった。
もう、元には戻れない。
そんな確信だけが胸の中にあった。
「.......その本、どこで手に入れたの?」
背後から、静かながらも緊張を含んだ声が響く。
はっとして振り返ると、金色の髪に碧い瞳を湛えた少年____リオン・ヴァルトハイム第二王子が、驚いたように、しかしどこか探るような眼差しでこちらを見ていた。
整った顔立ちに。芯のある眼差し。どこか熱を秘めたその雰囲気は、彼が火の魔法に適性を持つ、数少ない魔法使いであることを思わせた。
まるで炎のように、静かに、だが確実に相手を射抜く視線。
「……リオン殿下?」
その名を呼んだ瞬間、自分の声がかすれていることに気づく。感情の余波が、まだ体の奥に渦巻いていた。
「その本、どこで手に入れたのかと聞いたんだ」
リオンはゆっくりと歩み寄りながら、視線を魔導書に向ける。
ただの興味ではない_____その眼差しには、明らかな警戒が滲んでいた。
「.......この書庫の奥で見つけました」
「.......その魔導書は本来、王宮で厳重に保管されていたものなんだけど」
低く抑えた声が、淡い緊張を含んで重く響く。
その瞳は真っ直ぐにレティシアを射抜いていた。
____そんなに貴重なものだったとは。もしかして何か疑われてる?
何かに導かれるように、この書庫に入って、見つけただけなのに。
リオンは続ける。
「もう一度聞く。君は____それを、本当に“ただ見つけただけ”なのか?」
リオンの声音は静かだが、明らかに探るような鋭さを含んでいた。
その碧い瞳がレティシアを貫くように見つめる。言葉の裏にある何かを見逃すまいとしているのが、痛いほど伝わってきた。
レティシアは口を開きかけて、けれど、すぐに閉じた。
脳裏をよぎるのは、白く滲む病室と、最期まで自分を愛してくれたあの人の笑顔。
そして、手の中にある____この魔導書。
「……申し訳ありません。上手く説明できません。でも、気づいたらそこにあって……手が、勝手に動いていたんです」
前世の記憶の余韻がまだ胸に残るまま、ぼんやりと返したレティシアだったが_____次の瞬間。
手の中の魔導書が、かすかに脈打つように震えた。
「……!」
二人の視線が、その魔導書に集中する。
ゆっくりとページが開かれ、黒のインクで記された文字が浮かび上がる。規則的に並んだ図形、構文。見たことのない構造式。だが、どこか「わかる」と思える感覚がレティシアに芽生えていた。
闇の気配。けれど、それはただ冷たく暗いだけではない。静かで、深くて、寄り添うような____どこか優しさすら感じさせるものだった。
「反応してる……? まさか、こんな……」
呆然と呟いたリオンが、慎重に手を伸ばしかけた瞬間。
ぱたり、と音を立てて、魔導書は自ら閉じた。
まるで、再び深い眠りに落ちるように。
「............」
沈黙が落ちた。
目の前で起きた出来事が、現実のものとは思えなかった。まるで夢の続きのような____けれど、魔導書に触れたときの震えや、その奥から湧き上がってきた“理解できる”という確信は、確かに彼女自身のものだった。
思考が追いつかないまま、レティシアは唇を噛んだ。
さっきまで胸を満たしていた前世の記憶。その余韻が、まだ心の奥で静かに渦を巻いている。だけど今、目の前で起きたことは、過去ではなく_____今の自分に起きた現実だった。
(……どうして。どうして私にだけ、反応を……?)
戸惑いと、どこか恐ろしさすら感じながら、レティシアはそっと魔導書を見下ろす。
そのとき、リオンが静かに口を開いた。
「.........この魔導書は、本来なら王宮で厳重に保管されているはずのものだ。50年前から、ずっと反応がなくて……誰もページを開くことさえできなかったんだ」
「……そんなものが、どうしてわたしに……?」
わからない。けれど、偶然だとは思えなかった。
胸の奥で、何かが静かに、けれど確かに目覚めるような感覚____これは、運命のようなものだと、レティシアは本能で悟っていた。
リオンが顔を上げ、まっすぐにレティシアを見つめる。
「きみ……本当に、何者?」
その瞳には、好奇心や警戒だけではない、揺るぎない真剣な色が宿っていた。
レティシアは目を伏せ、そっと魔導書を抱き寄せた。
この出会いが、すべてを変える――そんな直感があった。