26、「レティシア」
夕暮れの街角、影が長く伸びる中で、エリアスは護衛の視線の隙間を見逃さなかった。
素早く、そして力強くレティシアの腕を掴む。
冷たく固いその手の感触に、レティシアは思わず顔を上げる。
そのまま、誰も気づかない狭い路地裏へと引き込んだ。
風がひゅうと吹き抜け、周囲の喧騒が遠ざかる中、エリアスの瞳は揺れていた。
震える声で、重く絞り出すように言った。
「……婚約したと聞いた」
その声には、怒りだけではなく、深い悲しみと戸惑いがにじんでいた。
レティシアは一瞬たじろいだが、すぐに目を逸らさずに応えた。
「ええ……リオン様と婚約しました」
その言葉を口にすると、エリアスの目がかすかに細められた。無言の視線は氷のように冷たく、けれど底に隠された熱に、レティシアの胸がざわめく。
言葉が続くのを待つように、しばらくの沈黙が二人の間に横たわった。街の喧騒も、風の音も遠のいて、ただ彼の視線だけが重くのしかかる。
「……何故だ?」
低く、抑え込まれた声だった。
「お前は……アリアだろう?」
その問いは、まるで心の奥を切り裂くようだった。レティシアの瞳が揺れる。息が浅くなるのを感じながら、視線をそらさずに答えを探していた。
喉の奥で言葉が詰まる。エリアスの声に、確かにカイルの面影を感じていた。胸の奥で震えていた確信が、ゆっくりと形を持ち始める。
「……やっぱり、カイルだったのね」
震える声でそう告げると、胸が痛むほどざわめいた。
確信しながらも、心のどこかで信じるのが怖かった。
エリアス様の中に、確かにカイルの気配を感じていた。
けれど、目の前の彼が、かつて私の夫だったカイルと同じだなんて、どうしても思えなかった。
だって、彼はいつも私に冷たくて___。
私を見ても笑わず、声をかけても目を背けるばかりだった。
だからきっと、これは私の思い違いだと、必死に自分に言い聞かせていた。
でも今、はっきりとこの瞳を見てしまった。
あの頃と同じ痛みと熱を宿している彼の瞳を。
それを見た瞬間、もう嘘はつけなかった。
でも__あなたはカイルであると同時に、エリアス様でもある。
そして、そのエリアス様は私を遠ざけてきた。
レティシアが言葉を探している間、エリアスは目を伏せて震えていた。その肩はわずかに揺れ、強い感情を抑えようとしているのがわかった。
やがて彼は、頭を上げる。冷たい瞳に、痛切な激情が滲む。次の瞬間、声を荒げて叫んだ。
「気づいていたなら、何故………!」
その叫びは、鋭く張り詰めた空気を震わせた。怒りだけではない。どうしようもない悲しみと、誰にも渡したくないという執着の色が混じっていた。
レティシアは息を呑む。エリアスの瞳に、かつて愛した夫カイルの面影を見てしまったから。
でも、目の前にいるのはやっぱりエリアス様で……。
胸が締めつけられる。だからこそ、確かめるように、はっきりと告げる。
「……そうね、私はアリアよ。……でもエリアス様、あなたは私のことが嫌いだったはずでは?」
だって、彼は私にいつも冷たかったのだから。
エリアスは目を伏せる。吐き捨てるような声が、空気を震わせた。
「ああ、そうだ……。確かに俺は、お前のことを煩わしく思っていた。鬱陶しいとさえ、思っていた。だが……!」
言葉が震えて止まる。やがて、目を上げた彼の瞳に、鋭い光が宿る。
「だがお前は……アリアだろう? 俺が手放すはずのない、俺だけの.........!」
その声には、怒りと悲しみ、どうしようもない執着が滲んでいた。
レティシアの心臓が痛むほど跳ね上がる。けれど、視線は逸らさなかった。
___その通り。私は確かにアリアだった。
あの頃の想いも、あなたと交わした言葉も、全部、私の中にある。
でも今を生きているのは、アリアじゃない。
この世界で、私として息をしているのは___レティシアなの。
だから、迷いのない声で告げる。
「……私はレティシアよ」
その一言に、エリアスの表情が一瞬、苦しげに歪む。
まるで心の奥を暴かれたかのように。彼の肩が小さく揺れた。
その瞬間、背後から足音が近づいてきた。護衛たちの気配が、二人の世界に鋭く割り込むようだった。
「レティシア様!」
鋭い声に、ふたりは同時に振り向く。
駆け寄ってきた護衛は、レティシアを見つけると安堵したように言葉をかける。
「レティシア様、こちらにいらっしゃっいましたか!エリアス大公とご一緒だったんですね」
「……ええ」
レティシアは短く頷いたが、その声はどこか曖昧だった。
護衛はその様子に気づき、静かに促す。
「もう夕暮れです。お戻りになりましょう」
レティシアは小さく頷くと、護衛に導かれるように路地を離れた。
夕暮れの街に溶け込むように、その背はゆっくりと遠ざかっていく。
夕暮れの街を歩くたびに、胸の奥に静かな痛みが広がった。
私の中には、確かにアリアだった頃の想いが残っている。カイルを愛していた気持ちも、あの優しさも。
でも……あの人はもうカイルではなく、エリアス様。
そして私はアリアではなく、レティシアとして生きている。
私を守りたいと言ってくれたリオン様の言葉は、私をこの世界に繋ぎとめる確かな光だった。
優しさや安らぎだけじゃない。リオン様となら、私自身の居場所を見つけられる。
だから___私が選ぶのは、リオン様。
それが、今を生きるレティシアの決意。
***
残された路地裏に、エリアスはひとり立ち尽くしていた。
人々の気配が遠ざかり、夕焼けが静かにその身を包む。
朱に染まる光が、彼の横顔を赤く照らしていた。
「お前は......俺のものだ」
「必ず......取り戻す」
絞り出すように呟いた声は、誰に届くこともなく、夕闇の中に溶けていく。
ただその瞳だけが、決意と狂気を孕んで、なおも消える背中を見つめていた。
次回、新章です!




