1、冷めた恋心
王宮の大広間。シャンデリアがきらめき、貴族たちの華やかな笑い声が夜の帳に溶けていく。
レティシア・クラウゼ――名門クラウゼ公爵家の令嬢である彼女は、その華やかな渦の中心にいた。
艶やかな紫の髪は完璧に巻かれ、同じく紫色の瞳には自信に満ちた光が宿っている。
金糸を織り込んだドレスは、彼女自身の魔力によって汚れ一つなく保たれていた。水の魔法___装飾や香りの調整に至るまで、すべてを完璧に整えるための当然の力だ。
この国では魔法使いが減り、魔力は貴重な力となっている。レティシアは、その希少な水の魔法の使い手だった。
ゆえに、魔法が使えるだけで人は一目置かれ、ましてや貴族である彼女にとって、それは誇るべき力だった。
(この場で、私より目立つ者などいるはずがないわ)
侍女の名前は覚えなくていい。廊下ですれ違った平民の顔も記憶にない。貴族は貴族らしく、麗しく、傲然と。そう教えられて育った。
すべては当然。何もかもが、手の中にあると信じていた。
____たったひとつ、彼を除いて。
(エリアス・ノルベルト。あなたは、どうして私に振り向いてくれないの?)
誰もがその美貌と家柄に一目置く青年。王国随一の魔導士にして、若くして大公の座に就いた男。
整った氷のような顔立ちに、水色を帯びた滑らかな銀髪。感情を映さぬ薄氷の瞳。
その佇まいには隙がなく、冷ややかな威圧感と静謐な気品が常に付きまとっていた。
レティシアはそんな彼に、一目惚れをしたのだ。
「エリアス様、今宵の舞踏会もお美しいですね。ご一緒に一曲___」
「……ああ、また君か。退屈な話は結構だ」
冷たい声音が、容赦なく彼女を切り捨てる。
(……なによ。大公だからって、何様のつもり?)
内心そう毒づくものの、レティシアの笑顔は崩れない。
貴族令嬢たる者、簡単に諦めたりはしない。次こそ振り向かせてみせる___そう心に誓う。
__初めてエリアスを見た日のことを、レティシアは今でも鮮明に覚えている。
王宮での祝宴。あの日、彼がふと見せた横顔に、言葉も出ないほど心を奪われた。
まるで彫像のように整った顔立ち。その眼差しは誰にも向けられていないはずなのに、ただそこに在るだけで、周囲の空気を支配していた。
恋など知らなかった彼女が、初めての恋に落ちた瞬間だった。
けれど何度声をかけても、エリアスの態度は変わらなかった。冷たく、無関心で、まるでレティシアという存在が視界にすら入っていないかのように。
(……ふん。いつまでも私を無視できると思わないことね)
唇を引き結び、レティシアは踵を返す。
きらびやかな笑い声が満ちる大広間から、まるでくだらない雑音を避けるようにして、静かに立ち去った。
静寂に包まれた王宮の中庭。夜風に揺れる花々の香りが、レティシアの胸に微かな違和感を残す。
___なぜか今日は、いつもより空気が澄んでいるように感じる。
苛立ちを抑えきれず、彼女は指先を軽く振った。すると、空気中の水分が集まり、小さな水の粒が空中にふわりと浮かび上がる。
感情が高ぶると、無意識に魔力が漏れる――昔から変わらない癖だ。
「……なに、かしら」
ふと、胸の奥がざわついた。
説明のできない感覚。なにかに呼ばれるような、見えない引力に引き寄せられる。
足が自然と動き出す。何かに導かれるように、中庭を離れ、王宮の奥へ。
辿り着いたのは、滅多に人の寄り付かない古い書庫。
重々しい扉を開けた瞬間、微かに空気が震えるのを感じた。
「ここ……?」
無数の書物が並ぶ棚の中、ひときわ存在感を放つ一冊の本があった。黒革の装丁に、古代文字のような紋章が刻まれている。
手を伸ばすと、その魔導書が微かに光を放った。
同時に、彼女の掌に、ぴたりと冷たい水気がにじみ出る。水の魔力が、何かに共鳴しているようだった。
触れた瞬間、頭に激しい痛みが走る。
「――っ……!」
視界が白く染まり、次の瞬間、記憶が洪水のように押し寄せてきた。
点滴の管。白い病室。もう動かない体。窓から差し込む穏やかな光。
____そして、その傍らに寄り添い、涙を浮かべながら微笑んでいた一人の男性。
優しい声。暖かな手。
死の間際まで、誰よりも彼女を愛し、傍にいてくれた「夫」の姿。
____あんなに優しい人……他にいない。
病と共に過ごした日々。
名前はアリア。三十代半ば、まだ若すぎると言われる年齢で、その生涯を静かに終えた彼女。
「……ああ、わたし……思い出した……」
膝から力が抜け、レティシアはその場に崩れ落ちる。
(……あなたは、いつも私の手を握っていてくれた)
「……カイル……」
レティシアの唇から、懐かしい名がこぼれた。
白い病室。点滴の管。日に日に弱っていく体。
それでも、彼は笑ってくれていた。
(最後まで、あたたかかった……。私は、あんなにも大切にされていたのに)
涙がぽろぽろと零れ落ちる。
(なのに……私は、エリアスに、何を期待していたの?)
鏡のように心に浮かぶ、今の自分。
舞踏会で彼に目を向けられたくて、褒められたくて。
でも___彼から返ってきたのは、冷たい沈黙ばかりだった。
(あれは恋じゃなかった。ただ、誰かに必要とされたくて、必死だっただけ……)
「……私、何をしていたのかしら……」
自嘲にも似た呟きが、乾いた空気に溶けた。
涙を止める術もなく、レティシアは顔を伏せた。
その瞳から溢れるものは、ただの悲しみではなく、己への悔いだった。
「……エリアスなんて、ただ顔がいいだけじゃない……」
胸の奥で何かが、音を立てて崩れていく。
これまで信じて疑わなかった“初恋”の感情は、たった今、跡形もなく消え去っていた。
そして──静かに、レティシアは目を閉じる。
心に残る微かな光を、そっと胸に抱きながら。
「……私は、もう間違えない」