18、遠い日の名前を、君に
引き続きエリアス視点です。
静かな部屋に、魔石灯のやわらかな光が灯っている。
傷の手当を受けたあと、エリアスは王城の客間に運ばれ、今は一人、寝台の上に身を横たえていた。
痛みはそれほどないが、まだ体の奥には重さが残っている。
それでも、まぶたを閉じると___すぐに、意識が闇に沈んでいった。
***
やわらかな潮の香りがする。風が髪を撫でる。
光が揺れている。
空も、海も、果てしない青に染まっていた。
(ここは……)
見覚えのある風景。けれど、現実では思い出せない場所。
足元に広がる砂浜の上に、誰かがいた。
長い髪を風に揺らし、白いワンピースのような服を着た少女。
その背中に、見覚えがあった。
「……アリア?」
自然と、名を呼んでいた。
その瞬間、彼女が振り返る。
笑っていた。懐かしくて、優しくて、心を締めつけるような笑顔で。
___間違いない。これは夢だ。
だが、夢だとしても、この人を忘れてはいけない気がした。
「カイル……遅かったね」
小さく呟かれたその声は、どこか寂しげで、けれどやわらかかった。
「君は……本当に、アリア……?」
問いかける声は震えていた。
「覚えてないの? ……でも、大丈夫。思い出すよ、きっと」
彼女の声が、風に溶ける。
「あなたに忘れられても、私は、忘れてなかったよ」
エリアスの胸の奥で、何かが静かに崩れた。
その瞳。声。笑顔。
すべてが、レティシアと重なっていく。
「……レティシア、嬢……いや、君は……」
そこで、夢が崩れた。
***
「……アリア……!」
はっと目を開けたとき、天井の彫刻が視界に広がっていた。
エリアスはしばらく動けず、荒く息を吐く。
胸が苦しい。けれど、それ以上に、確信だけが胸に残っていた。
(……全部、思い出した)
夢の中で見た笑顔。声。あの瞳。
そして、胸に残る痛みの理由も。断片的な記憶だったものが、一つに繋がり、すべてが鮮明に蘇っていく。
「……ああ、やはり……君はアリアだ。レティシア.......、いや、アリア......!」
口の中で小さく呟く。震える声だった。
レティシアに触れたとき、確かに感じていた。懐かしさも、痛みも___すべてが、あの頃のままだ。
手のひらを見つめる。
(……あのとき、アリアを看取った直後、俺は危うく魔力の暴走を起こしかけた。周囲を巻き込むほどの力を。あの魔導書は、そんな俺を止めるために、力を貸してくれたんだ……)
(その代わりに、俺の想いを閉じ込めて、長い眠りについた。ずっと……半世紀近くも)
けれど今、魔導書は再び反応を見せた。
(……きっと、俺を諌めるだけじゃなく。根元にいるレティシアに、助けを求めていたんだ……)
(アリアに___助けを)
荒く息を吐く。胸が苦しいほどに、確信だけが残っていた。
あの日と同じ想いが、血の底から湧き上がってくる。
(……もう二度と、見失わない。二度と)
静かに目を閉じ、強く噛みしめるように、手を握りしめた。
***
同じ夜。
遠く離れた王宮の一室でも、誰かが静かに目を覚ましていた。
夜気に包まれた部屋。
窓の外では、木々が静かに揺れていた。
レティシアは身じろぎもせず、ただシーツの上に座っていた。
眠ろうとしていたはずなのに、まぶたの奥が妙に冴えている。
胸の奥に、薄いざわめきのようなものが残っていた。
(さっきの夢……)
すぐに忘れてしまいそうな、けれど忘れたくない光景。
潮の香りが、まるで現実のように濃く感じられた。
海風が頬を撫でて、遠い記憶を連れてくる。
あの浜辺には誰かがいた。
懐かしくて、温かくて。
___カイル。
レティシアは、ふと名前を呼びそうになって息を呑む。
(夢に出てきたのは……間違いなく、カイルだった)
前世の記憶の奥に、ずっと沈んでいた人。
自分が病に倒れる前、一緒に海を見に行った、ただ一人のひと。
あの声も、瞳も。胸の奥が、それを忘れていなかった。
けれど。
(どうして……エリアス様が、あんなふうに……)
夢の中で、彼は自分を「アリア」と呼んだ。
その声は確かに、エリアスのものだった。
けれど、彼はカイルではない。
同じはずがない。そう思っているのに、重なるような錯覚が、心に波を立てる。
「あなたは、誰……?」
ぽつりとこぼれた言葉は、自分自身への問いのようでもあった。
カイルの記憶と、エリアスの姿。
すれ違うように重なる幻が、胸に残って離れない。
___もしかしたら。
見たくないふりをしていた何かが、今、目の前にあるのかもしれない。
けれど、まだ心の輪郭はぼんやりとしていて、どうしたらいいのか分からないままだ。
怖くて、でも知りたくて。
夢と現実が溶け合うような、そんな夜だった。
静かにベッドへ身を横たえる。
まだ胸の鼓動は早いまま。
窓の外には、遠く満ちていく月が浮かんでいた。
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