17、あの瞳に、覚えがある
どこか優しくて、懐かしさすら帯びた魔力が、左腕に静かに染み込んでいった。
それは痛みを和らげるだけでなく、冷えきった胸の奥まで、そっと灯をともすようなぬくもりだった。
(……不思議だな。まるで、昔どこかで___)
言葉にはならない記憶の欠片が、胸の底で泡のように浮かんでは消えていく。
レティシアが周囲を確認するために離れていったあと、エリアスは静かに目を閉じた。
通路に残る魔力の余韻と、彼女の残り香が、まだすぐそばにある気がした。
(君は……誰だ?)
そう疑問が浮かぶこと自体、おかしい。鬱陶しい存在のはずだった。
それがある日を境に彼女の態度が変わった時、妙に胸に引っかかった。
何かが変わり始めていた。決定的になったのは、あの庭園でふと支えたとき。
(あのとき……レティシア嬢の表情が、確かに揺れた)
ほんの一瞬。けれど、彼女の表情がわずかに揺れたのを、エリアスは見逃さなかった。
それは驚きというより、懐かしさ___あるいは、恐れにも似た感情だったように思う。
(あれからずっと、気になっていた)
それが何なのか。どうして自分が、彼女にこれほど気にかかるのか。
理屈では説明のつかない感覚が、確かに胸の奥に残り続けていた。
そして先ほど、崩落の中で彼女を庇ったとき、思わず名前を呼んだあの瞬間__
彼女の目に、一瞬だけ浮かんだあの感情。
(……やはり、気のせいじゃない)
あの目の奥にも、何かがあった。偶然なんかじゃない。
そう思った瞬間、通路の奥で気配が動いた。足音と、揺れる光。
そのとき____
「――レティシア!!」
鋭く、焦燥をはらんだ声が石壁に反響する。
(……リオン殿下か)
声の主を悟った瞬間、エリアスは自然と表情を引き締めた。
この胸を騒がせていた感情を、いつもの静けさの奥へと押し戻す。
松明の灯りに照らされて、数人の騎士を従えた一団が姿を現した。
その先頭、真っ先に駆けてきたのは___金髪の青年。第二王子、リオン・ヴァルトハイムだった。
「無事でよかった......! 遅くなってすまない......!」
彼は迷いなくレティシアに駆け寄り、肩を抱き、真っ先にその無事を確かめている。
レティシアの肩を掴み、まるで彼女以外が目に入っていないようなその様子に、エリアスは一歩、背筋を伸ばす。
(……そういうことか)
レティシアはリオンを見上げかけて、しかしすぐにエリアスへと視線を向け直す。
「だ、大丈夫です。私は……それより、エリアス様が」
その声に、リオンがこちらを見る。表情が変わった。
「こっちだ! エリアス大公の手当を!」
声が響くと同時に、数人の騎士たちが駆け寄ってくる。彼らは迷いなくエリアスの身体を支えながら誘導していく。
その様子を見ながら、レティシアはようやく小さく息を吐く。
肩に力が入っていたのだろう。安堵の色が、彼女の表情にふわりと浮かんでいた。
「……本当によかった。遅れてしまって、ごめんね」
エリアスは黙ってその光景を見ていた。
リオンがレティシアの瞳をまっすぐに見つめ、彼女が少しだけ恥ずかしそうに目を逸らす。
やがて、レティシアが小さく笑い、リオンもそれに柔らかく笑みを返した。
(......王子として、ではないな)
そのやり取りには、王族としての威厳や責務の色はなかった。
あれは、ひとりの青年が、大切な人を心から案じて発したものだ。
そして、レティシアもまた___その言葉を、真正面から受け取っていた。
胸の奥に、ひどく冷たい風が吹いたような気がした。
エリアスは目を細め、その感情を静かに胸の底へと押し込んだ。
けれど、それは簡単なことではなかった。
(何故だ?こんなにも……)
抑えたはずの感情が、何度も胸の内でうずまく。
彼女の笑顔に、あのまなざしに、どうしようもなく心が反応する。
目を逸らせば楽なのに、それができない。
(あの揺れは……何だ? 君は、一体……)
思考が、過去と現在の狭間をさまよう。
懐かしさのような、切なさのような、言葉にできない感情だけが、じわじわと心を侵してくる。
リオンとレティシアの距離は、確かに近い。
今の彼には、きっと届いている。想いも、言葉も。
けれど、自分の想いは___まだ、どこにも届いていない。
(けれど____)
エリアスは、ひとつだけ確かだと感じていた。
この感情は、ただの勘違いでも偶然でもない。
彼女と自分の間には、何かがある。
そしてそれは、まだ___始まったばかりなのだ。
それでも、あの瞬間の感情だけは、確かに胸に焼きついていた。
懐かしさ。愛しさ。まだ名前を持たない、切実な何か___。
次回も引き続きエリアス視点!