15、その声は、誰を呼ぶのか
癒しの光が消えた後も、レティシアの手には、まだぬくもりのようなものが残っていた。
魔力の反応ではない。理屈では説明できない、けれど確かに“力を使った”という実感。
彼女はその手をじっと見つめながら、小さく息を吐いた。
「……なんだったの、今の……」
問いは宙に消える。答えなど分からない。
ただ、心の奥が淡くざわめいていた。
そんな時だった。
「……う、……ん……」
かすかなうめき声とともに、レティシアの膝の上で、エリアスが微かに身じろぎをした。
「……エリアス様……!」
彼女は思わず身を乗り出す。ゆっくりと、重たげに彼の瞼が開かれていく。
「っ……」
その銀の瞳が現れたと同時に、彼の顔がわずかにしかめられた。
「……頭が……痛い……」
眉間にしわを寄せ、額に手をあてるエリアス。
レティシアはそっと身を乗り出し、彼を支えようと手を伸ばす。
その時だった。彼の視線がふいに、彼女の顔にぴたりと止まる。
「……あなたは……」
呟かれた言葉に、レティシアは小さく目を見開く。
その銀の瞳には、確かに戸惑いと___それに混じる、言葉にできないような懐かしさが滲んでいた。
(どうして……そんな目で私を?)
レティシアが不思議に思うよりも先に、エリアスの胸の奥で、かすかな記憶の気配が揺れた。
彼女の顔は知っている。だが今、その瞳の奥に___微笑みの輪郭に__どうしようもなく“誰か”の姿が重なって見えた。
(……似ている。誰に……?)
白く淡い光の中、涙を浮かべながら微笑んでいた影が、ふと脳裏をよぎる。
その人は、名を呼びかけていた。
自分を___「カイル」と。
『カイル……あなたのことが、世界でいちばん大切なの。だから……だから、私のことなんて、忘れていいの。あなたが生きて、笑ってくれるなら、それで___』
鼓膜の奥で誰かの声が響いた気がして、エリアスはゆっくりと口を開いた。
「……アリア……」
その一言に、レティシアははっと息を呑む。
今、彼が口にしたその名は___
自分の、前世の名前だった。
「……今、なんと……?」
声が震えるのを抑えきれなかった。けれどその問いに、エリアスはすぐに答えようとしなかった。
まるで、自分の口から出たその言葉に戸惑っているかのように、視線を伏せ、眉をひそめる。
「……なぜ……あの名前を……」
レティシアは知らず、唇を噛んでいた。
偶然? そんなはずない。けれど、認めてしまえば、何かが崩れてしまうようで___
アリア。誰にも教えていない、前世の自分の名前。それを___この人は、なぜ。
「……気のせい……よね」
口にした瞬間、その言葉が自分自身への言い訳のように思えて、レティシアは唇を噛んだ。
(偶然。たまたま、そう聞こえただけ)
けれど、そう思いたいのに____どうしてだろう。胸の奥が、妙に熱を帯びていく。
癒しの魔法を使った直後のせいだろうか、それとも___
「……レティシア嬢」
彼が静かに名を呼んだ。
その声音には、これまでとはどこか違う___
懐かしさと、優しさと、名残のようなものが混ざっていた。
レティシアは、そっと目を伏せた。
「……ええ、ここにいます。エリアス様」
震えないように、落ち着いた声を装った。でも、その胸の奥では何かが大きく動いていた。
「……君を見ていると、不思議なんだ」
エリアスの目がまっすぐにこちらを見つめる。
その銀の瞳は、まだ完全には記憶を取り戻していない。それでも、確かに何かを探しているようだった。
「懐かしい誰かに……重なる気がする。ずっと昔に……大切だった誰かに」
___ああ、やっぱり。
その言葉に、レティシアは痛いほど胸を締めつけられた。
(それは、私も……)
あの日。王宮の庭園で、偶然会ったとき___
体がふらついて、エリアス様がそっと支えてくれた。その腕に触れた瞬間、
心の奥に、誰かの姿がよぎった。
“彼”じゃない。目の前にいたのは、エリアス様で間違いない。
それでも___ほんの一瞬、彼の中に、前世の夫・カイルの面影が重なったのだ。
強くて、優しくて、悲しいほどに愛おしかった人。
その感覚を、私はずっと心の奥に仕舞い込んでいた。
きっと気のせいだと思い込んで、忘れようとしていた。
だけど、本当は___
あの瞬間の彼の眼差しも、腕のぬくもりも、全部、知っていた。覚えていた。
忘れられるはずがなかった。
「……アリア……」
その名を呼ばれた瞬間、凍った記憶が音を立てて軋み出す。
否応なく胸の奥が揺れて、誤魔化しきれない想いが押し寄せる。
(やっぱり……あのとき、感じたのは___気のせいなんかじゃ……)
でも、認めてしまうのが、怖かった。
言葉にしてしまえば、戻れない気がした。
この人と私の関係が、決定的に変わってしまう。そんな予感が、確かにあった。
だから私は、気づかないふりをして、ただ静かに目を伏せる。
胸の中では、癒しの魔力の余韻と、過去からの想いが、静かに絡み合っていた。
___まるで、ほどけることのない運命の糸のように。
レティシアは小さく息をつき、背を向ける。足元に広がる石畳の感触が、ひやりと肌を刺した。
(……落ち着いて。今は、状況を確かめるのが先)
頭では分かっている。けれど、胸の奥はまだざわついたままだ。
あの名を呼ばれた瞬間、過去と今が交錯して、心の深いところが軋んだ。
目の前の彼が、エリアスという現実の人物であると同時に、自分が心のどこかでずっと求め続けていた存在と、重なってしまった。
(だめ……こんなの、気のせいよ。偶然。たまたま)
自分にそう言い聞かせながら、彼女は石壁に手をつき、通路の奥へとゆっくりと歩き出す。
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