10、あたたかい
(……俺が、彼女を怖がらせたのか)
思いもよらない事実に、息が詰まる。
責められたわけでもない。罵倒されたわけでもない。ただ、静かに、けれど確かに突きつけられた“事実”。
そのままその場に立ち尽くすこと数秒____いや、もっと長く感じられた。
レティシアの視線は、エリアスを避けるようにわずかに逸れていた。
その些細な仕草が、胸に突き刺さる。
(……もう、これ以上ここにいるべきじゃない)
エリアスは静かに息を吸い込み、乱れた内心を押し殺すように瞼を伏せた。
そして、感情を飲み込んだあとの声で、低く告げる。
「……今は失礼いたします。また改めて、話に伺います」
理知的で、冷静な大公としての言葉選び。
だが、その声には確かに残っていた。
わずかな熱と、拭いきれぬ名残惜しさが。
ゆっくりと一歩下がり、深く頭を下げる。
「.....では」
それだけを残して、エリアスは踵を返した。
背中には、どこかいつもの威厳とは違う、迷いの影が差していた。
扉へと向かう足取りは静かだが、その歩みはどこかぎこちない。
手を伸ばし、扉を開ける。
振り返ることはしなかった。
そして____
カチャリ、と扉が閉まる音だけが、静寂の室内に響いた。
リオンは、そっと彼女の横顔を見た。
レティシアはまだ言葉を発していなかった。
けれど、その肩はかすかに上下し、指先は今も肘掛けをぎゅっと握ったままだ。
「……息、浅いよ」
リオンは静かに椅子のそばにしゃがみ込む。
同じ目線になって、彼女の手を見つめた。
小さな震えが、そこにあった。
「大丈夫って言わなくていい。……でも、怖いって言ってもいいんだよ」
レティシアが、はっとしたように目を伏せた。
リオンはすぐに手を差し出したわけではない。
ただ、静かに傍にいることで、彼女が自分の気持ちと向き合える時間を作ってやりたかった。
「……わからないんです」
かすれた声が、ようやく唇から漏れる。
「エリアス様の声が……冷たいわけでも、怖いわけでもないのに。なのに、心が……ぎゅっとなるの。意味もなく、怖くなって……」
彼女はそこで、言葉を飲み込んだ。
理屈では説明できない“感覚”に、自分でも戸惑っている様子だった。
リオンは、そっとポケットから白い布を取り出す。
柔らかなハンカチ。彼女の手の上に、そっと重ねる。
「理由がなくても、怖いものはある。……それは悪いことじゃない」
驚いたように見つめる瞳に、リオンはやわらかく微笑んだ。
「たぶんね、怖いときに誰かがそばにいるだけで、少し楽になる。それで十分だよ」
彼の言葉に、レティシアは小さくまばたきした。
そして、ハンカチを握る指先が、ゆっくりと力を緩めていく。
(……よかった)
リオンは胸の奥で、そっと安堵を吐き出した。
彼女の震えがほんの少しでも止まってくれたことが、今はそれだけで嬉しかった。
外の空は、まだ曇り空のままだった。
けれど、部屋の中にはほんの少しだけ、あたたかな空気が戻りはじめていた。
少しの沈黙のあと、レティシアがぽつりと呟く。
「……最近、自分がどんなふうに人と接してきたのかを思い出すたびに、胸がざわつくの」
リオンは彼女の言葉を遮らず、ただじっと耳を傾けた。
「たぶん私は、ずっと人を見下してた。命令して、従うことを当然だと思って……でも、本当は拒まれるのが怖かっただけなのかもしれない。優しさの意味なんて、きっとわかっていなかった」
声が少しずつ震えてくる。
けれど、それは泣いているわけではなかった。
自分自身を知ろうとする、まっすぐな痛みだった。
「でも……今、リオン殿下と話していると……なんていうのかな……」
レティシアは、言葉を探すように小さく笑う。
「心が少しずつ、柔らかくなっていく気がするの」
リオンの表情が、少し驚いたように揺れた。
だが、それはすぐにやわらかな微笑みに変わる。
「それ、すごく嬉しいな」
レティシアは恥ずかしそうに視線を伏せる。
「変なことを言いました……ごめんなさい」
「ううん。全然変じゃないよ」
リオンは、ゆっくりと彼女のそばに腰を下ろし、今度ははっきりと手を差し出した。
「僕は、君が“今”どう感じているかを知りたい。過去のことも、変わりたいって思ってることも、全部」
その言葉に、レティシアの瞳がわずかに揺れる。
「だから……今日みたいに、怖かったら怖いって言ってくれるのが、僕は嬉しいんだ」
リオンの手を、レティシアはおそるおそる取った。
あたたかさが、じんわりと指先から広がる。
(……この手のぬくもり、こんなにも優しかったんだ)
ふと、リオンが少し照れたように笑った。
「ねえ、これからは“リオン”って呼んでくれないかな?」
レティシアは驚いたように目を見開いた。
「……でも、それは……」
「僕たちは、こうしてちゃんと心で話してるんだ。肩書きなんて、今は関係ないよ」
リオンの声は、どこまでも優しくてまっすぐだった。
レティシアは少し迷ったあと、恥ずかしそうに視線を伏せたまま、そっと口を開く。
「……リオン、様……?」
リオンはふっと目を細めて笑った。
「ふふ、それでいいよ。今は、ね」
その声が、心に優しく染みこんでくる。
レティシアは、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じていた。
しばらくの沈黙のあと、リオンは少しだけ顔をほころばせたまま、ゆっくりと声を落とした。
「ねえ、レティシア嬢」
急にあらたまった呼び方に、レティシアはきょとんとした表情を浮かべる。
「今度、王宮でアゼル兄……殿下の誕生パーティーが開かれるんだ。よかったら、僕のパートナーとして来てくれないかな?」
思わぬ誘いに、レティシアの胸が小さく跳ねた。
「パートナー……って……」
「無理にとは言わないよ。緊張するかもしれないけど……君と一緒に、ちゃんと向き合って歩きたいと思ったから」
リオンの声は穏やかだったけれど、どこか誓いのような静かな強さが宿っていた。
レティシアは小さく息を吸って、握られたままの手を見つめる。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい。よろしければ、ぜひ」
微笑み合うふたりの間に、また一歩、確かな距離が近づいた。