11、忘れていた記憶
馬車の車輪が石畳を刻む音が、静かな夕暮れの空気に溶けていく。
窓の外には薄く霞んだ景色が流れ、レティシアの心もそのように揺れていた。
「今日、リオン様と話したこと……」
彼女は静かに呟く。
あの優しい手のぬくもり。名前で呼んでほしいと言われた時の、不思議なほど温かな胸の高鳴り。
(......こんな気持ち、ずっと忘れていた気がする)
貴族は、気高く、優雅に、そして傲然と___そうあるべきだと教えられて、私は育った。
だからこそ、気づかなかったのだ。
ずっと自分の心が、誰にも触れさせないように、冷たく固く閉ざされていたことに。
けれど今___
その扉が、かすかに軋む音を立てながら、ゆっくりと開き始めている。
不器用で、臆病で、それでも誰かに手を伸ばしたいと思っている。
そんな私が、確かにここにいる。
(.....ただ)
思い出すのは、あの庭園での再会。
エリアスと鉢合わせた瞬間___ほんの一瞬、彼の顔に重なったのは、前世の夫・カイルの面影だった。
(あれは……なぜ?)
王宮の一室で言葉を交わした時も、胸の奥に得体の知れないざわめきが走った。
懐かしさとも違う、けれどどこか“知っている”という感覚。
偶然? ____いや、違う。だけど、わからない。
答えの見えない問いが、胸の奥で静かに澱のように沈んでいく。
思考がその先へ進む前に、馬車が静かに屋敷の門をくぐった。
扉が開かれ、マリーが控えていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
いつものように丁寧な一礼。けれど、マリーの瞳がどこかやわらかく見えるのは、気のせいではないだろう。
「……ただいま、マリー」
わずかに微笑んで答えると、マリーが驚いたように目を見開いた。
その反応に、レティシアの胸の奥が少しだけ温かくなる。
「お疲れでしょう。温かいお茶をお淹れしますね」
「ありがとう。でも、今日は少し休むわ。……なんだか、疲れてしまったから」
「……かしこまりました」
レティシアは静かに自室に戻り、ドレスを脱ぎ、髪をほどいた。
窓の外にはすっかり夜の帳が下りている。
今日の出来事を思い出そうとすると、胸がざわついた。けれどそれ以上に、心がとても、重たかった。
ベッドに身を預け、瞼を閉じる。
柔らかなシーツの感触と、遠くで風が木々を揺らす音。
(今日は......疲れた)
そして、そのまま静かに_____眠りの深みへと落ちていった。
優しい風が吹いていた。
白く薄いカーテンがゆるやかに揺れている。窓の向こうには、遠くに海の輝きが見えた。
「アリア、起きて。朝だよ」
静かな声に、彼女は瞼を開けた。
窓辺に立つその人____カイルが、柔らかな光を背に、微笑んでいた。
「……もう少しだけ」
そう呟いて枕に顔を埋めると、クスッと笑う声が返ってくる。
「じゃあ、コーヒー冷めちゃうよ」
その言葉に、アリアは不意に顔を上げる。
ベッドサイドには、小さな木のトレイ。そこには温かいコーヒーと、彼女の好きなチーズトーストが乗っていた。
「……また、作ってくれたの?」
「君が朝に弱いの、知ってるからね」
照れくさそうに肩をすくめる彼の仕草に、アリアは小さく笑った。
ただの朝の光景。ただのやさしい朝。
けれど、それがどれほどかけがえのない時間だったか、今ならわかる。
「……カイル」
名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに振り返る。
「なに?」
「ありがとう」
その言葉の意味を彼は尋ねなかった。ただ、いつものように静かに笑って____アリアの隣に腰を下ろした。
***
時間が飛ぶ。
いつの間にか、二人は海にいた。
夜明け前の浜辺。薄紫の空が水平線を染め、波打ち際を歩く二人の足元を、穏やかな潮がさらっていく。
「寒くない?」
カイルがアリアの肩に、自分のコートをそっと掛ける。
アリアは首を横に振りながら、そっと手を伸ばす。彼の指先に、自分の指を絡めた。
「カイル。私、ここに来られてよかった」
「……僕も。君と一緒に、こうしていられることが、嬉しいよ」
ふたりは波音の中、ただ静かに歩き続ける。
何も特別なことは言わなくても、そこには確かに愛があった。
穏やかで、あたたかくて、永遠に続いてほしいと願った時間____
そして____
「……っ」
微かな嗚咽とともに、レティシアは目を開いた。
頬を伝う涙に気づいたとき、胸がぎゅっと締めつけられる。
(どうして……どうして、こんな夢を……)
夢の中で聞いた名前。アリア。カイル。
知らないはずの名に、なぜか心が深く揺れた。
「お嬢様……!」
驚いたように駆け寄ってくる声。
マリーがベッドの脇にしゃがみ込み、心配そうにレティシアを見つめている。
「……大丈夫ですか?」
その瞳が心から心配そうで、思わずレティシアはうつむいた。
だが、次の瞬間、マリーの手が温かく自分の手を包み込んでくれる。
「もし何か……辛いことがあったなら、わたくしに話してください。ほんの少しでも……楽になれるかもしれませんから」
レティシアは目を伏せる。けれど、その手の温もりに___心がじんわりと、またあたたかくなるのを感じた。
「……ありがとう、マリー」
それだけ言うのが精一杯だった。けれどマリーは、ふわりと笑って「お茶をご用意しますね」と部屋を出て行った。
(優しさって、こんなに……あたたかかったんだ)
夢で感じたもの。目覚めて触れたもの。
それは、かつて忘れかけていた「人のぬくもり」だった。
夢を見てから数日が経った。
あの温かな手。穏やかな海風。静かに揺れる水面に映る彼の笑顔。
目覚めた朝、濡れた頬に気づいた時、レティシアは初めて「恋しかった」と思った。
彼が誰なのか、名前も声も曖昧なままだったが、心に深く刻まれた感情だけは確かに残っていた。
そしてその数日後。王宮から、再び召喚の文が届く。