9、自分でもわからない
冷えた空気と共に近づく気配に、思考が追いつかない。
先ほどまでの温かな余韻が、急速に遠ざかっていくようだった。
(どうして……今、ここに)
レティシアは反射的に立ち上がろうとしたが、その動きを押しとどめるようにエリアスが静かに手を上げた。
「無理に構えなくていい」
淡々とした声音。だが、そこには妙に柔らかな響きがあった。
そして、視線をリオンへと移す。
「リオン殿下。突然の入室となり、大変失礼いたしました」
一礼の所作に曇りはなく、礼儀を欠くことはない。
けれどその姿に、どこか張り詰めたものが重なるのを、 声の端に___焦りにも似た切迫が滲んでいた。
温かな空気を残していたはずの部屋が、知らぬ間にひやりと冷えている。
さっきまで心を包んでいた“何か”が、かき消されていく____そんな錯覚さえ覚えた。
再び胸の奥で、何かが音もなく揺れた。
リオンは少しだけ目を細めて彼を見つめた。
「何かあった?」
エリアスは一瞬だけ逡巡したのち、低く言葉を落とす。
「____“闇の魔導書”が、反応を示したと報告を受けました」
部屋の空気が、さらに一段、凍りつく。
「それを聞いて、私はすぐに……」
エリアスの声がわずかに揺れた。
その瞬間だった。
胸の奥が、ぞくりと冷えたような感覚に包まれる。
まるで、心の中に直接触れられたような____そんな奇妙な悪寒。
(なに……これ?)
レティシアは思わず肩をすくめそうになった。
彼の言葉に、怖さを感じたわけじゃない。怒鳴られたわけでも、責められたわけでもない。
なのに、なぜか身体の奥から、震えるような反応が湧き上がってくる。
理由はわからない。ただ、彼の声が、どこか遠くの記憶を___水底に沈んだ“何か”をかすかに揺らしたような。
(……なんで、こんなふうに……)
エリアスに対する警戒でも、怒りでもない。
もっと、名のないもの。目を逸らしたくなるほどの、得体の知れないざらつき。
理由もなく。説明もできず。
でも確かに、彼が近づくたび、何かが胸の奥で軋むように鳴る。
自分でもわからない“恐れ”に、レティシアは言葉を失っていた。
レティシアの肩がわずかに震え、指先がかすかに震えながら椅子の肘掛けを握りしめる。
息が浅くなり、目がちらりと揺れる。遠くを見つめるような視線が、どこか落ち着かない。
その様子を見て、リオンは静かに息を呑んだ。
「……レティシア、大丈夫?」
静かな声が彼女の耳に届く。すぐ傍に、リオンがいた。
彼の手が、さりげなく椅子の背に触れている。
その仕草だけで、不思議と胸の奥が落ち着いた。
ほんのそれだけの仕草が、不思議と胸の奥を静めてくれる。
(……どうして、こんなにも安心するんだろう)
その穏やかな声も、まなざしも、今の自分にはとても……あたたかい。
リオンは、そんな彼女の微細な変化を見逃さなかった。
そして、小さく呟く。
「……彼女が怯えている」
ただ、それだけ。
リオンの言葉は穏やかだったが、そこには確かな棘が潜んでいた。
その一言は部屋の空気を鋭く貫いた。
エリアスはわずかに眉を動かし、視線をレティシアに戻す。
「……失礼しました。私の態度が、彼女を怯えさせたのであれば、謝罪します」
そう口にしながらも、エリアスの胸中では言いようのない焦燥が渦を巻いていた。
(……こんなつもりじゃなかった)
魔導書が反応したという知らせに、気づけば駆けるようにここへ来ていた。
レティシアの姿を見たとき、言葉より先に感情が先走っていた。
そして____殿下が、彼女の隣に立っていたこと。
ごく自然な仕草で彼女に寄り添う姿が、妙に目に焼きついて離れなかった。
(……そんなに、親しかったか?)
その光景が、どうしてこんなにも胸に引っかかるのか。
割り切れない思いが、じわじわと胸の奥を蝕んでいく。
殿下が彼女を気遣うのは、自然なことだ。
だが、それを見ている自分の内側で波打つ感情の正体が、自分でも分からない。
(違う。別に……嫉妬しているわけじゃない)
そう思おうとした。
だが、その否定が必要だと感じる時点で、もう答えは見えているようなものだった。
胸の奥に広がっていくこのざらつき___
それはまるで、忘れかけていた何かが、静かに軋みを上げているような感覚だった。
言葉にならない。けれど、確かにある。
彼女と殿下の間に生まれた“何か”を見て、無意識が拒絶に近い警鐘を鳴らしている。
(……そんなはずはない)
理性が、そう否定する。
だが、肌の下でうずくこの感覚だけは、消えてくれなかった。
彼女が笑ったときの空気。
怯えたときに向けた視線。
そのすべてに、殿下が自然に溶け込んでいる。
(……俺は、何をしている?)
この場所に来たのは、魔導書のためだ。
ただ、それだけだったはずなのに____
気づけば視線も、思考も、彼女に縛られていた。