泉の影像
雨音に燐の擦れる音が飛ぶ。泉は潮に鼻を向けた。濡れた空気が薄らと鼻孔に触れて、煙草の豊かな香りが際立った。盲特有の敏感さで泉は煙草の匂いを顔で嗅ぐ、その甘みを秘めた牛の大地の神饌と感じる不思議な香り、彼女等の冴えた鼻には紙巻きは適さなかったので、潮は葉巻のみを燻らしている。潮も鼻が利いた。兄妹は供に目が見えなかった。
生まれて一度も泉はものを見た事が無いし、これからも見る事はあるまい。泉は不平を零さなかったが、潮は時折悲しそうな顔を見せる事があった。太陽がどんなものだか見たいというような事を言ったらしい、だが、彼は首を振ってそれを否定した。眉をひそめて歯を噛んで静かに二度首を振ると、詮索無用と突き付けられているようでそれ以上問うに問えない、だから本当に言ったかどうかはわからないが、返ってその首振りが強烈にものを見たがっているのの証立てのように思われた。
泉はどこにいても長い背を緩く弧に、黙って眼前の風を聴く格好で座っている。顔立ちが良く、筋の通った鼻に白い頬が小さな唇で支えられている様の、無垢な真金の佇まいは、人の香りがしなかった。泉は自分の容貌にひどく無関心ではあったが、ただ潮が泉の様に綺麗なのだと言う事には興味を示した。確かに潮は手弱女めいた顔貌で盲の弱さも手伝って、女達の好気にしばしば絡めとられてしまうことはあったが、深い仲になった事などは一度としてなく、それもまた何も女の情がなかったとか潮の男性が機能しないとか言うのではなくて、ただ潮自身がしきりに暗闇の世界にこもりきり、何か手探りで体内に造形をし続けていたからに過ぎない。縮めて言えば、女の誘惑が用を為さなかったのであった。泉が十七の時に潮が一人の女性に手を引かれて返って来たことがあった。泉は相変わらず座って顔を向けていたが、潮は何も喋らず女も問わず、ただ二三時間過ごして帰って行った。泉にとってはそれだけでも何だか特別な事の様に思われて、それとなく潮に問いを向けてみたが彼は困った様に笑って、答えを避けた、弁明を求められているような気がしたのである、でも彼は弁明という器用さは持ち合わせていなかった。
兄妹は母親と三人でこの家で暮らしていたが、それも先週で終わった。母は過労で死んだ、恐らく。葬儀も何も業者任せで、何か賑やかな会場に兄妹は目を閉じて佇んでいる事しか出来なかったし、しなかった。結局、母は寡黙で仲の良い兄妹と深く古い家と財産を残す為に生きた様に思えた。母はただ糧であった。唐突の母の死が纏まった金に変わり、それで潮は手術を受けるということに決められた、潮の盲目は治療によって治る類いのものなのだと言う事だった。施療を誰が決めたのかわからないが、誰か親戚の者等であろう。微かに匂った雨の匂いが嵐の予兆だった夏の戸口を、泉はすぐさま想起する。何か恐ろしいものが近づいているような気がしてならなかった。潮は目を開くだろう、そして潮に見られてしまうのだろう。火を飲んだ様に肚が熱くなった。彼女は潮から一歩だけ退いて生活する事に決めた。自分は目が見えないのだという事にようやく気がついた。泉は胸に湧いてくる不思議な感覚と顔を突き合わせ、髪を梳いてみたりした。細い長い毛が櫛を滑らせる、エナメル質の感覚は心地よいものではあったが、すぐに櫛は歯は全て折られて捨てられた。鏡の無い鏡台に泉はじっと座った。潮が困惑するたびに泉は言い知れぬ後悔と安心を感じた。
ある夜、潮は泉の布団の上にまたがった。泉は気がついたが、動かなかった。潮の弱い手が泉の頬に触れ、髪や鼻に触れ、耳朶に触れた。泉は動かなかった。細い風のような手はそれから細胞を手繰って泉の皮膚の上をくまなく通り抜けた。肩、鎖骨、腋、爪、乳首、肋骨、背骨、臍、陰毛、肛門、膝、踝、足指の股……泉はまったく動かずにただその手を皮膚で握り返した。潮はそれだけするとしばらく佇み、また向うに引き返した。明け方からしとしとと足萎えの雨が垂れて来た。
中程まで葉巻を灰に変え、潮は泉の傍らで座っていた。今日にも誰かが潮の目を開けに来るのだろう事は何となくわかっていた、予見の様にさえ思えた。潮は大きく煙を吸う、火が鳴る、そして強く吐き出した。雨音が煙で揺れた。
突然、水底の激流に似たものが泉の耳に流れ込んで来た、それがすぐに人のうめき声に変わる、潮が無言で叫んでいるのであった。泉は慌てて手を伸ばしたが、届かない。鼻面にタンパク質の生きた水晶を焼き殺す匂いがした。潮は声を上げずにのたうち回っていた。泉も声が上げられなかった。恐怖が喉を締め付けた。が、いつかそれは身体に溶込み、歓喜となって乳房の下に溢れかえった。ひどい臭いが立ちのぼってくるが、泉はそれを浄化させる事が出来た。眼球が供儀の祭壇で天に帰っている。彼女は急いで潮の肩を担ぎ、よろよろと雨戸を開けて外へ転び出る。驟雨が彼の燃えた目を鎮める。
「兄さん、兄さん、私は目が見えないからわかるんです。眼が丸いのは現実の為じゃなくて、ただ視る為じゃなくて、映す為にあるんだと」
潮は泉の姿をじっと見た。




