第3話
翌日、六時半に目を覚ます。少し肌寒いがすぐに起きる。手を洗って軽く顔を濯ぐ。うがいをしてパンを出す。そのまま食べることができるクリームパンとカップスープを準備する。カップスープを飲んだ時に安心する。寒いからか心まで凍ったような気がしていたが少し溶けていく感じがある。ゴミを片付けてシャワーを浴びようとするが、少し胃がもたれている。昨日もそこまでたくさん食べたわけではないけれど。少しベッドに座る。音楽をかけながら少しお腹を摩る。
服を脱いでシャワーを浴びながら体が冷たいままなのを感じる。皮膚の表面は温まっている。体も中は温まっている。しかし、体の中の空洞が埋まらないような気がしているし、心から温まっていないように感じてしまう。心が満たされていないからだろうか。この空洞を本当に医者や薬が埋めてくれるものだろうか…。
体を拭いて少し体の火照りを冷まして肌着を着る。肌気が体に少し吸い付いた。汗をかいている。掻いている気がしない。体は確実に温まっている。それでもまだ少し肌寒い。これは明らかに体の不調ではない。心の不調というものだろう。…、これからこの調子が続くのだろうか。
大学病院へ行くためにバスへ乗り込む。都会ということもあって何回もバスを確認する。路線を確認すると合っているのが分かって安心する。リュックを開いて財布を開き、金額も確認する。小銭は足りている。しかし、小銭を触っているその手が少し震えている。…部屋の外へ出るとこの震えが出てくる。人が怖いわけではない。ではどうしてだろうか。何も調子が悪くないのにこのようなことになるなんて。…やはり体がおかしいのか。バスの中は閉鎖的な空間で空気がよどんでいる。そのように思うのは自分の調子が悪いからだと分かっている。急に心が苦しくなる。閉鎖的な空間にいるからだろうか。今すぐにでも逃げだしたいような衝動に駆られる。しかし、本当に降ろしてもらうほど勇気は出ない。
「よお、元気にしていたか?」
後ろから声をかけてきたのは碓井だ。思わず口が開くのを止められない。驚きすぎるとすべての声を忘れてしまう。できれば普通に声をかけてほしい。今の心理状態ではどんなことにも過敏に反応してしまう。どうして碓井がいるのだろうか。…、すごく落ち着いた色の服を着ている。以前とは違ってシンプルな装いである。黒のシャツと紺のパンツである。
「まあ、病院に行くのだから元気とは言い難いけど。」
「確かにな。会うかなと思っていたけどバスで本当に会うとは思っていなかった。俺もこの病院に用があるからさ。少し顔色が悪いな。」
病院に行く理由を聞いた方がいいのだろうか、聞かないほうがいいのだろうか。碓井は少し笑っているし、何も考えていないように見えるけど、以前俺を見てくれた時には本気で心配してくれていた。病気が心配というよりも自分の周りの人を助けたいという思いだろう。しかし、本当に表情が読めない。
「そんなに気を使わなくてもいいぞ。」
「いや、そういうわけじゃなくて…。」
「ハハハ、焦ってる焦ってる。」
彼は少し笑った後、バスの中から景色を見ている。なんともないこの景色が少し心を動かす。以前はこんな風に景色を見ていなかった。どちらかと言えば何かをずっとやっていた。そんな感じだった。何かを得ようとして頑張って頑張って頑張って頑張った。結局何も得られなかった。そうだと思う。本当に何も得ようとしていなかったのだから。ただ、闇雲に進んで勝手に俺が疲れて絶望して壊れただけ。自業自得だ。一流と言われる人たちはそこからまた頑張るのだと思う。全ての人が一流になれるわけではないかもしれないけど、それでも頑張る先に何があるというのを追い求めている。
彼は外を見ながらまだ何もしゃべらない。彼の横顔は何かを後悔しているように見える。辛いのは俺だけじゃないと分かっているけれど、それでも彼の横顔を見ると心臓が掴まれたように苦しくなる。
「あそこには母がいるんだ。」
「母親…。病気?」
「ああ。前も言ったと思うけど心の病気だ。母の過去については話せないけどね。」
会って二回くらいの人に話せるような内容ではないのだろう。しかし、彼がそこまで苦しむほどに大変なことだったのだろうか。いや、彼のことは何も知らないし。何を思いあがっているのだろう。
「そういえばさ、何も話をしていないな。」
「今更?」
「そうじゃなくてさ、高校時代どうだったとかさ。そういうこと。」
「そうだな。俺はバスケ部だった。万年補欠だったけど。」
「へえ、意外だね。あまり背は高くないでしょ。」
「一六〇センチくらいだからかなり低い部類に入るな。背の低い人もそれなりに活躍はできるけど、俺は足もそこまで速くなかったし、技術もそれなりだったからさ。」
「バスケは授業でやってからしていないな。面白いのか?」
「点数が多く入る競技だからすごく見せ場が多い。」
「…確かにそうだな。」
「やっぱ得点を決めた時には自分が輝いて見えているからうれしくてさ。」
「なんかわかる気がするな。自分がスポットに当たる時の気持ちが分かる。」
「碓氷は何をしていたんだ?」
「ボクシング。もうやめてしまったけど。」
「ボクシング、すごいな。見るのは好きだけどやるのは難しいから。」
「まあ、そうだな。一応、インターハイにも出ているから。三位決定戦で負けちゃったけどな。」
「すごい。本当に強いな。どうして辞めた?」
「足を怪我した。アキレス腱を痛めてから元の動きができなくなった。そこから何も駄目になって。本来なら動けるはずだけど動けない。スポーツ選手にはよくある現象みたいだけど。」
体の機能は正常なのに思ったように動かなくなるというのは聞いたことがある。彼もアキレス腱を怪我したことで本来の動きを取り戻すことができなかったのだろう。
「そうなんだ。残念だね。俺よりも頑張ってきたのに。」
「ありがとう。でもさ、ボクシングは精一杯やった。悔いはあるけど、もう選手に戻るほどの熱はない。」
彼は本気で取り組んでいたのだな。だからこそ、多少の悔いがあっても自分の気持ちに整理がついている。体の調子が風が吹いたように軽くなるのを感じた。いつの間にか不調が収まっている。なんだろうな…。こんな体になったのに人が恋しいなんておかしいな。どちらかといえば人とつながっていたいと欲しているのだろうか。変な体だ。人との関係を求めているのに外に出れば汗も出るし、緊張もするし、震えもある。ちぐはぐだ。後ろから碓井が俺の頭をなでる。碓井の手を掴んで下ろす。
「どうした?何かおかしいか?」
「いや、」
「別におかしくないと思うぞ。それこそさ、自分の心に正直になってもいいんだよ。匠はさ、別に何も悪くない。体の調子も悪いのも仕方ない。だけど、自分の意志を持って進むのだけは忘れるな。」
彼の目が俺の心臓を見透かされているような感覚に陥る。本当に俺のことを心配していることが分かる。母親の経験から来た裏付けかな。しかし、それにしてはかなり彼の感情が籠っている。そのことだけは確かだ。外を見ると烏が飛んでいる。烏は旋回して上へ上へと上がっていく。黒い体が死神のように見える。そして、別のところへ飛んでいく。俺もいつかあそこまで行くことができるのだろうか。
「わかった。覚えておくよ。」
「…まあ、そこまで覚えておく必要もないけど。」
碓井は少し頬を赤くしながら窓の方を向いた。彼も照れることがあるのだな。ドクッと何かがなった。胸を摩る。何もない。脈拍を手首で手を抑える。ドクドクと血流が脈打つのが分かる。まだ生きているし、脈が乱れているわけではない。それでも何か不安な感じがするのはどうしてだろうか。病気という物と無縁で生活してきたからだろうか。…関係ないか。それこそ気の持ちようだ。
バスがそのまま進んでいく。いろんな人を乗せて降していく。なんかその感じが漫画のイメージに覚えている。その漫画は個人的には不幸な漫画に覚えるけど、ある意味救いであるのかもしれないと思い始めた。自分ではどうにもならないような状況でどこまで前を向けるのかと言われればかなり厳しいかもしれない。碓井がいなければどうにかなっていたのかもしれないな。言うのは恥ずかしいけど、いつかはお礼の言葉を言うべきだろう。少し疲れた。まだ時間があるから少し寝ようか。
「匠、大丈夫か?」
目を開けて周りを見ると乗客は皆降りている。先ほどの寝たはずだけどもう降りる時間になっていた。昨日もなかなか眠ることができなかったから。でも、それは言い訳か。ちゃんとしていないといけないな。涎が出ていたのでハンカチで拭く。少し手がひんやりしている。震えは来ていないけど少し危ない状態かもしれない。
「大丈夫ですか?」
車掌さんも心配そうに俺のことを見ている。碓井も心配そうに見ている。
「今日、病院に行く予定ですから、大丈夫ではないでしょうけど、先程はそこまで体調悪くなさそうだったのですが。」
急な展開で驚いているだけなのだが。なんかすごく心配されているけど、そうではないのだよな。手も震えていない。ただ、頭が重いな。寝て起きたからかな。無理して立ち上がると立ち眩みがしてふらつく。手摺棒を持とうとするが、眩暈で焦点が定まらない。気が付いたら手摺棒は少し先にある。碓井が俺を支えてくれる。今まではこんなことになることはなかったのだけど。
「大丈夫です。急に起きたから少し頭が重いだけです。」
「急に降りなくてもいいから。」
「ええ、ありがとうございます。匠、鞄は持ったか?」
鞄を持ったが思った以上に重さを感じる。体調が悪くなったのだろうか。額を触ると汗が出ている。バスの中は快適なはずなのに、汗をかいているというのは体調が悪くなっているのかもしれない。碓井の方に寄りかからないようにした。バスを降りるのに二人で降りるのはむしろ危ない。手摺を掴んで立ってみると何とか立てた。これならば大丈夫かな。ゆっくりと歩いていく。
「匠、本当に大丈夫か?足元、気をつけろよ。」
後ろから碓井の声が聞こえる。思った以上に立ち眩みがひどい。脳が直接縦揺れしているような感じ。目の前は見ているし、今は焦点も合っている。ただ、地面も揺れているような感覚もある。手摺を持ちながらゆっくりと降りる。妙にその手摺の鉄から体温が全て奪われるような感触。気持ち悪いな。その感触が手に残り心がざわりと動く。無機質な手摺が先ほどの車掌さんの表情と似ている。
隣には碓井がぴったりとついている。分かっている。あの様子の俺を見れば心配だと思うことは。しかし、彼がいるとなんか落ち着かない。…どうして隣にいるのだろうかという感覚に陥る。彼がいるのは当然なことなんだけど。大学病院なだけあってすごく人が多い。今までは人に酔うなんてことはなかったけど、今はかなり気持ちが悪い。吐くという感触とは違い、完全に人が多いから気持ちが悪いということである。熱気とかが関係あるのかな。でもライブとか違うから、人の熱に当てられるという感覚。
「こんにちは。紹介状はお持ちですか?」
「はい。えっと…。」
「急がなくてもいいですよ。」
後ろの碓井を見ながら受付の女の人が話しかけてくる。ある意味、顔がいい人は得だなと思う。今までの経験で優しくしているのは顔のいい人が多い。しょうがないこと。男だってかわいい女性には優しいだろうし。その優しい顔が表情や顔を形成していくのだろうと思う。まあ、体調がよさそうなのは碓井だし、病人には何も思わない。よほどの病人でなければ。
後ろには病院の多くの経理担当者がパソコンをパチパチと叩いている。…こういうのが気になるのが病気なのだろうか。あ、後ろの人がこけそうになっている。笑っているけど、結構危なかったよな。
「はい。お願いいたします。」
「ありがとうございます。今日は何科を受診されますか?」
「内科でお願いいたします。」
「紹介状はお預かりします。内科は一階の奥にあります。このロビーを南に出ていただいて、受付がありますのでこのファイルをお渡しください。」
「わかりました。」
この中に紹介状が入っているのは分かっている。しかし、この紹介状の中身を聞いているわけではない。受付では紹介状があるかどうか確認したのみ。それだけで分かるのかな。そもそも紹介状は医者が読むものか。白く長い廊下を渡っていく。渡っていく間に何人もの急患が運ばれている。俺もああいう風になるのだろうかと思ってしまう。酸素マスクをつけられてそのまま看護師とともに走っていく。ふと考える。あそこまでして生きるような気力が俺にあるのだろうかと。いろんな人が生還している中で病気と戦おうという意志がある人は打ち勝つ。しかし、今の俺にはそのような気力は全くない。本当に死ぬのを待つだけになるような気がする。
「見るな。匠。」
碓井に頭を掴まれて無理やり体の方向を変えられた。首が急に曲げられたせいで背中まで痛みが走る。ただ、首が凝っていたのか大きな音が耳元でなった。何か嵌ったような感触もある。少し首筋が楽になった。
「痛いな。」
「すまん。だが、今の匠は少し心が過敏になっている。勝手に入ってきた情報はシャットアウトできないだろうが、それ以外の負の情報はなるべく入れないほうがいい。今も病気と闘うことができるかどうか考えただろう?」
「どうしてそれを?」
思わず口を押えた。周りを見渡してみるが、口には出していないような気がしている。看護師も俺の方を見て少し心配そうに見ている。碓井が俺の肩を叩いた。
「大丈夫だ。匠は何もしゃべっていない。前も言ったと思うが、母が同様なことを言っていたからそう思っただけだ。」
彼の母はかなり重篤な症状だったのだろうか。…重篤な状態かどうかわかりにくい病気がうつ病というものか。再度歩き始める。その様子を見て看護師も歩き始めるが、俺の方を見たわけではないようだ。他の女性を見ている。すぐに駆け寄って背中をさすっている。大丈夫だろうか…。…不思議な物だ。先ほどのまで少し気分が悪かったのに今はけろっとしている。やはり気持ちの持ちようなのかな。
「行くぞ。匠。」
「いや、お前は別のところだろう?」
「匠、お前のバスでの様子を見てどこか行くほど俺は腐っていないぞ。俺の方は急ぎでもないからさ。」
彼はそう言って俺の後ろを歩いている。前を歩くような人はいないよな。少し歩いていると雰囲気が変わる。木目を基調にした色が壁全体に広がっている。廊下の端には室内で管理ができる木や草が置いてある。リラックス効果があるようにしているのだろう。どうしても病院に来るのはストレスになる人もいる。でも、安心している。病院であれば何か対応してくれるからだ。いつも調子が悪くなる人は病院に来れば安心するというのはこういうことだ。
「少し病院の雰囲気が変わったな。」
「そうだな。」
「今時はこんな病院もあるのか…。昔はこんな感じではなかった。どちらかといえば無機質な感じでそれこそ監獄のように流れ作業で行っているような病院が多かった気がするが。」
「そうなのか?よくわからないけど。」
「どうしても精神患者というのは難しいらしい。人によって言葉の捉え方も違うだろう?掲示板でいろいろ書いていてもその掲示されている物で傷つく人もいる。」
掲示板で傷つくような人はあまり聞いたことがないな。例外として担当の医師が変わるとか医師の退職などは書くのだろうが。あんまり想像がつかないな。碓井は俺の方を見ていた。
「よくわからないって顔をしているな。」
「ああ、そうだな。特に問題ないと思ってしまう。」
碓井はスマホを取り出した。そしてLINEを開く。特定の悪口が書き込まれているサイトをアクセスしている。このようなサイトもそういえば掲示板か。特定の何かというわけではない。見ている物が自分にとって害になればそれは全て有害なものになるか。その掲示板にあるのは何でもないコミュニティに参加の紙。確かにそうか。精神的におかしくて集団生活を送れないような人であればこのようなコミュニティにも参加できない。そう考えれば劣等感を抱くことは考えられる。
「分かった?」
「ああ、分かった。スマホとかを見ればよく分かる。こういった誹謗中傷を見ていれば心が病むのも分かる。」
そのサイトは誹謗中傷が様々な角度で乗っている。犯罪者の住所や本名も掲載されている。明らかに犯罪であるが、管理者が消しても消してもどんどん増えてくるので対処が追いつかない。しかも上げる側はそこまで難しくない。他のサイトでも掲載ができる。しかし、管理者は別にいるため、それなりの時間を要する上に記事を見て適切に対応する必要がある。どうしても適切な投稿をしている利用者を守る必要もあるため消すことに慎重になる。
しかし、かなり暇な人しかこんなことはしない。それかストレスの発散がこの場でしかないか。本当に見れば見るほど凄い量の書き込みがあるな。企業名で掲示板を立てているものもある。明らかに内部事情がばれるような気がする。管理者もそこまで注意できないか。ここら辺はモラルだろうから。
「気分が悪い時にそんなものを見るなよ。どうしても人間は一人で生きていけないけど、見たくないものを見る必要はない。なんでも今は残る時代になったからな。ちゃんと消しても永遠に残る世の中だからな。あんまり不用意にいろんなものに登録する必要はない。」
碓井の言う通りだが…。受付が近づいてくる。女性が受付をしている。彼女の服は看護師の服装ではない。この内科だけは変えているのか…。碓井の方を見たが彼は周りのよく見ている。最初の受付でもらったファイルを出す。彼女は受け取って中身を確認する。
「東条さんですね。」
「はい。」
「お手数ですが、この問診票に記入をお願いいたします。」
手渡された問診票は簡単なものだ。他の重大な疾患があったかどうかを調べるだけのものだ。碓井が時計を見た。彼も面会時間もあるだろうに。
「すまないが、そろそろ行く。多分、俺の方が早く終わるけど、終わったら連絡くれよ。一緒に帰ろうぜ。」
「わかったよ。」
問診票に住所や身分を記入する。大学生というのもなんとなく書いていいものか迷う。かくしかないのだけど。他に漏れがないか確認する。大丈夫そうだな。その問診票を持っていこうとするが、何かが見ているような感覚がある。後ろを向いたが、誰も後ろにいなかった。のせいだろうか。
「どうかしました?」
「いえ、何でもありません。お願いいたします。」
受付の女性は問診票を受け取ってその場で確認している。彼女は鉛筆でチェックしながら髪を上げる。彼女は少し鼻が低いけどシャープにとがっていて綺麗だ。痩せてはいないけど適度にふくよかで女性らしい。彼女を少し見ていると彼女は俺の方を見た。
「どうかしました?」
「もう、座っても大丈夫ですか?」
「ああ、すみません。番号89でお待ち下さい。番号は隣にディスプレイがあると思いますが、そこに表示されます。お手洗いなどで受付から離れている時に確認してください。」
「わかりました。」
本当は待ち時間を聞きたかったけど、大学病院で待ち時間を聞くのは意味がないだろう。これだけ大きい病院であれば待つのが普通だ。しかし、持ってきているのは本だけど今は読む気になれない。周りを見てみるが多くの人が下を向いている。なんというか暗い印象の方が多い気がする。少し深呼吸する。ハンカチを出して少し汗を拭く。最近汗をよくかく。鞄から水を出そうとする。鞄にペットボトルが入っていない。入れていたような気がしているが気のせいだったのかな。
あたりを見回すと少し先に自販機が見えた。リュックを背負って自販機の方へ行く。歩いていくといろんなジュースやお茶、水などもある。刺激物であるエナジードリンクは売っていない。リュックから財布を出して小銭を入れようとしたが、小銭が下に落ちる。手は震えていない。
「大丈夫ですか?」
「ええ。」
小銭を拾った看護師はすごく手が綺麗な女性。小柄で俺よりも背がかなり低い。俺に小銭を渡してくれる。
「先ほど男の人と立ち止まっていた方ですよね?」
「はい。そうですが…。」
こういう風に言われると気持ち悪いな。たとえ綺麗な女性でもなんか怖くなる。少し体を引いてしまう。看護師なので俺の体調が悪いのが顔に出ていたのだろうか。しかし、それならばもう少し早く声をかけているような気がするけど。
「碓井君だよね。さっきいたの?」
…急に馴れ馴れしいな。あんまりに馴れ馴れしい女の人は好きじゃない。その女の人は看護師でありながらもばっちりと化粧をしている。看護師や介護職などの職種は化粧をしない印象だった。まあ、人それぞれか。でも規則をある程度守らない人は嫌いだ。
「そうですが…。どうかしましたか?」
「いやね。彼はよくこの病院に来るのだけどあんまりしゃべったのを見たことなかったから気になっていたのよね。」
…そういったところじゃないか。彼が看護師とかにしゃべるような人でなくなったのは。彼は顔が整っているし雰囲気もある。女性が放っておかないのはよくわかる。ただ、少し彼があんまりぐいぐい来ると引いてしまう。彼も病院で話かけられると嫌だろうな。
「でね、彼のことをもう少し知りたいなと思って。」
まじまじと彼女の顔を見た。…何を考えているのだろうか。彼と仲良くなりたいのであれば彼に話しかけないと全く意味がない。碓井も困ることだろう。顔を少し赤らめていることから彼女が彼に好意を寄せているのが分かる。
「すみません。俺も最近知り合ったばかりなので。」
そのまま通り過ぎようとしたが彼女に腕を掴まれた。彼女は彼女の顔は笑顔だが目は笑っていない。そこまで必死になる女性も今時珍しい。肉食系女子とかって昔は言われていたけど、好意を寄せていればそれなりに可愛いと思うのだろう。ただ、化粧とか自分から行かずに周りからとかいうところですでに心が冷めている。それこそ、顔が綺麗なのに残念な女性という立ち位置だ。
「ちょっと待ってよ。少しは協力してよ。接点がこの病院しかないのだから。あなたくらいしか頼ることができる人はいないの。」
…自己中心的だな。俺がどうにかして彼との関係が悪化して問題にでもなったら責任を取ってくれるのだろうか。おそらくこの女性は全く責任を取らないはず。ため息が出る。体調が悪いのが原因で病院に来ているのに別の要因で体調が悪くなりそうだ。しかし、この女性をどのように対処したらいいのだろうか。
「そうは言われましても…。」
「私もね、あなたにこんなことを頼みたくはないのよ。誰にも頼ることができないから。」
正直、そんなことは知らない。それでも彼女は自分の欲望に素直だろう。自分のことしか考えていなければこのような行動をとりようがないからだ。普通の人間であれば理性で押さえるはず。しかし、彼女は解放しているような気がする。
「個人情報なんで教えることはできません。」
「…、そう。あなたもそちら側の人間なのね。」
彼女はナース服を正す。妙に冷たくなった顔を俺の方に向けて笑顔になる。その笑顔は心の中からのものではなく作り物の笑顔である。すぐに演技できるのだな。女というのは怖いな。
「何の話です?」
「別にいいわ。分からないのであれば。あなたは内科に来たのでしょう?」
「はい。そうですが…。」
「いずれわかるわ。今の生活を続けていればどうなるのか。私もそれに気が付いて止めたのよ。」
彼女は振り返ることなくそのまま立ち去った。彼女に言ったことは何か胸に残っている。何か特別なことを言ったわけではないけど引っかかっている。呆然としていたが、ふと思い返して受付の方に戻っていく。歩きながら足に何か引っかかった感触がまた残っている。
ディスプレイを見る。もらった番号を見るが89はない。少しため息を吐きながらスマホを開く。LINEニュースを見ながらメッセージを開いていく。お知らせメッセージが多く全て既読にする。ニュースも事件や芸能界のニュースばかり。すぐに閉じる。Safariを開き、ネット小説を読んでいく。読んでいる作品は主人公が苦しむものが多いが、主人公が徐々に道を切り開いていく感じがすごく好きだ。