第2話
彼はそのまま去っていく。周りには人が誰もいなくなった。ビルやアパートなど大きな建物の中に住んでいる。いなくなったわけではなくてみんな姿が見えないだけで生活している。その空っぽになった街を少しぼーっと眺めていた。今の気分は悪くない。碓井が助けてくれたように人間味を持ちうる人も存在している。
一旦、家に帰ってシャワーを浴びる。暖かい水が体を温めていく。すでに前のような震えや痙攣は起きていない。本当にさっきの症状は何だったのか。異変に気が付いたのは良かったが、…今は何ともない。小さい子供でもないのにこのような体調の変化は本当に困るな。シャワーから上がり、そのまま体を拭く。…特になんともない。これなら買い物くらいは行けるか。とりあえず、服を着て少し休もう。
スーパーに行って買い物を済ませて家に帰る。体は何ともなっていない。もう大丈夫なのだろうか。少し不安だ。それにしても体にズシッと何かが体に乗ってきたように体が重くなっている。そのせいか、あまりお腹も減っていない。とりあえず、やかんを取り出して水を入れて火にかける。ぐつぐつとお湯が沸いている。カップ麺の蓋を開く。ぺりぺりと無機質な音が響く。そこにお湯を注ぐ。カップ麺をそっと持ち、そのままテーブルにもっていく。三分待つ間にBOSEのスピーカーの電源を入れる。日本語の音声が聞こえてiPhoneにつながる。AppleMusicを開く。
AIなのか何か分からないけど、好きそうな音楽を選んでくれている。少し流してみる。「この春さえいつか終わるんだ」と歌詞が表示される。…いい曲だと思う。季節は流れてこの瞬間はいつしか過去に変わる。その時に俺はこの過去を好きになれるだろうか。音楽を聴きながらカップ麺のうどんをすすった。
二日経ち症状は変わらなかった。夜が眠ることができなくなったくらい。寝るのは明け方が多くなっている。お腹が痛くなったり、喉が痛くなったりしたが、AIの病気の検索では精神的なものであるというのが大半を占めている。その中に時々大病があるけど、大病に至るような痛みはない。それこそ、意識を失うような痛みがあれば病院に行っている。Googleの検索エンジンで病院を検索する。都会のためたくさんの病院がある。そこで彼の言葉を思い出す。内科に行った方がいいと。…確かにそうかもしれない。まずは何かないかを調べた方がいいだろう。最寄りの病院を検索する。
近くにあった内科へ行く。平日であったせいか患者は数人でみんな具合が良くなさそうだ。体調が悪くなさそうな人は定期的に通院が必要な人だろう。煉瓦造りの少し変わった病院である。ドアは自動ドアになっている。新しく改装したのだろうか。そんな余裕はなさそうだけど。
「こんにちは。」
受付の女性が話しかけてくる。まずは靴を下駄箱に入れて鞄から財布を取り出す。…今は手が震えていない。保険証を取り出して受付に出す。彼女はその落ち着きのない出し方に違和感を覚えたらしい。
「当院は初めてですか?」
「はい、そうです。」
「今日はどういった症状で受診されますか?」
三日前に起きた出来事を簡単に説明する。そして、受付の女性はメモをしながら、問診票を渡してくる。質問からすれば俺が病状から何を診断してほしいか選ぶことができるらしい。流石にそれでは病院に来た意味がない。
「今日は手の震えはありますか?」
もう一度手を握りなおしてみる。
「…いえ、大丈夫そうです。」
「ゆっくりで構わないので、問診票をお書きください。もし、再度震えがきて書くことが難しいようであればお声がけください。」
「わかりました。」
いつもこの際にもう一度書くのなら聞くなよ。だが、おそらくあまりにも病状が違う時のために聞いているのだろう。耳が痛いと言ってこられても時間の無駄だし。それこそ紹介されたのであれば別。震えを心配しながら問診票を記入し終えた。受付に問診票を持っていく。
「ありがとうございます。では、念のためお熱を測りますので、脇の下に入れてもらって取りに行きますのでお待ちください。」
温度計を脇の下に入れる。少し汗をかいているように感じるが、拭き取る時間はない。そのままじっと待つ。受付の女性が歩いてきて話しかけてくる。
「では、温度計をもらいます。…36.3ですね。平熱はこれくらいですか?」
あんまり計ったことがないが、このくらいだろう。彼女は体温計を消毒していた。仕方のないことだけど、見えないところでやってほしいな。
「はい、そうだと思います。」
「わかりました。このまま少し待合でお待ちください。」
リュックを置き長椅子に座る。先ほどまで余裕がなかったけど深呼吸をすれば少し落ちつく。マスクを上に上げながら順番を待つ。どうしてもマスクをしていると徐々に下がっていくのは割とうっとうしい。体をそのまま背もたれに預ける。今日も体がしんどい。内科にしては珍しく多くの観葉植物が置いてある。最近では少しの間だけでも緑を見た方がいいとも言われている。それで置いているのか。病院は白を基調にして作られることが多い。その白い空間が嫌だった。死んだら白いところに追いやられるとイメージが備えられている。基本的に漫画や小説、映画でよくある精神と現実の狭間で描かれる生死のイメージは白が多いからである。偏見だろうな。
「東条さん、診察室へお入り下さい。」
少し年配の看護師の女性が呼ぶ。咄嗟に立ち上がる。何かが足に引っかかったような気がした。しかし、何も引っかかっていない。少し椅子の方を見ていた。
「どうかされましたか?」
看護師は眼鏡をかけて少し緩やかな服を着ている。前はそんなことに気が付いていた。本当にどうしたのだろうか。歩いて看護師の後をついていく。案内されたところにはよくある回るパイプ椅子とパソコン、そしてベッドが置いてある。後ろには看護師が付いている。普通は前にいるはずだけど後ろにいるのか。妙な気分だ。入ってきたのは女性の医者。歳は三十代くらいか。かなり若い医者だな。
「えっと、東条さん。今日はどうされましたか?」
もう一度、病状を説明する。
「…、手の震え以外に吐き気や頭痛はありますか?」
「頭痛は少しあります。」
「わかりました。少しお待ちください。」
彼女は先に石が入っているように槌を取り出す。
「では、楽にしてくださいね。」
彼女は前かがみになり右足の膝の少し上を叩く。右足が何もしていないのに上がった。そして、足をそのまま動かしていく。俺の表情を見ているが何かあるのだろうか。
「すみません、少し目を見ますね。」
彼女は手指消毒を行い軽くペーパータオルで拭いて目に少し光を当てる。
「大丈夫そうですね。」
「…何がでしょうか?」
「はい。震えに関しては様々な病気が考えられますが、最初に疑うのは脳への障害を疑います。東条さんは特に最近頭を打ったなどの外傷はありませんね?」
「ありません。」
「わかりました。診断に関して言えば今すぐに死ぬようなものではありません。」
「そうですか。」
では、この震えはどうして起こるのだろうか。
「しかし、本来震えに関しては脳が関係していることも十分考えられます。当院には脳を調べるような医療機械を置いていませんので別の病院を受診していただくことになります。三通ほど紹介状を書いておきます。内科的には今のところ病名はつきません。統合失調症と今でも言いますが、そこまで行きつくほどの検査を行っていませんので当院では紹介のみとなります。少し大きな病院で検査を行ってください。一度にそれぞれ検査を行ってくれますし、横の科とのつながりが取れていますので無駄な時間が省けるでしょう。眩暈が少しあるということですので、軽めのお薬を三日ほど出します。薬は眩暈の薬になりますが、本当に軽いものです。数日中に絶対に検査を受けてください。」
「わかりました。」
「薬を服用してさらに激しい眠気や眩暈が悪化する場合には飲まないでください。ではお大事に。その際には一旦、検査している病院で薬を処方していただいてください。」
薬をもらって、内科の受診を終えた。一旦、家に帰る。
帰ると信じられないほどの疲労が溜まっているのが分かる。病院に行っただけなのに。スピーカーの電源を入れて音楽をかけながらベッドへ横になる。体が鉛のように重くなっている。どんなに休んでも体が癒えることがない。怪我をしているわけではないが、ともかく疲れやすい。昨日も買い物に行っただけなのにかなり疲れた。iPhoneを取って病院を検索する。近くの大学病院まではバスで一時間。今は午後二時。すでに受付は終了している。急にやることがなくなったな。音楽を変えてオルゴールの音源にする。少しずつ体に入ってくる音に身を任せながらベッドの上で横になる。
ぼーっとしていたな…。いくら休んでも力が湧いてこない。体の中から元気が湧いてこない。拳に力を入れてもそこに自分がいないのではないかという不安だけが残っている。拳の痛みもない。そこには赤くなった掌に爪の後が残っている。二の腕を掴んでみる。そしてかなりつねってみる。痛みが脳に届いている。生きているのだろうな。いや、そもそも生きているというのはどのような意味だろうか。目で見ている世界は全て過去の中で本当に俺が現世に残っている証明はどのように行うのだろう。死んだら証明になるだろうけど、俺自身が自覚できないから意味がない。痛みのような感覚や苦しいなどの感情も自分自身しか自覚できないものである。それこそ、映画であったように液体の中で育てられているということも考えられる。
何を考えているのだろうか。答えが出ないことに。自分の体調は分かっても時計を見ればすでに五時を回っている通りでお腹が空いているはずだ。朝は体調悪くて食べていないし、カップ麵だけではお腹は膨れない。あくまでも補助的な食べ物である。そういえば肉を買っているな。冷蔵庫を開ける。一キロか。焼いて冷凍しておけばいいか。肉を取り出してキッチンへ向かう。狭いキッチンで肉を取り出してステンレスの台所に置く。台所の電気をつけてフライパンをガスコンロに置く。ガスコンロに火をつけて油を引いた。パチパチという油に吸い込まれそうになる。ビニール袋から出し、そのまま入れる。肉を入れると中火にする。その間に塩コショウを取ってくる。肉が徐々に焼いている肉の中のビチビチという音が聞こえる気がする。
焼いた肉を盛り付けて七割ほどを別のタッパーに入れる。音楽が急に止まった。慌ててスピーカーの電源を落とした。iPhoneを開くと「うっすー」と表示されている。こんな名前で登録していたかな。
「もしもし。」
『ああ、匠、元気かい?』
「まあまあ…だよ。」
『電話に出ただけでも充分元気だよ。』
彼の母親はそれほど良くなかったのだろうか。うつ病がひどくなるほど日常生活が困難になっていく。当然だ。そうでなければ病気と言われない。
『そういえば病院は行ったかい?』
「ああ、行ったよ。明日、大きな病院に行って検査に行くことになった。紹介状ももらった。」
『そうか。いい医者に当たったな。もらった紹介状を忘れないように。高い初診料を取られるから。一人では行けそうか?』
「大丈夫だと思う。今日も特に大きな震えとかも起きなかったしね。」
『そうか…。ともかく明日病院に行けよ。いろんな検査があるだろうけど、疲れても病院だから大丈夫だ。』
「わかっているよ。」
『じゃあな、お休み。』
「お休み。」
iPhoneの画面が待ち受けに変わる。本当にタイミングよく電話をくれるな。もしかしてエスパーか何かだろうか。いや、そんなことはないか。本人はそのような感じがしなかったし。iPhoneを置くとメッセージが入った。…SNSか。開かずに画面を下にしておく。今はご飯が食べたい。焼いた肉を持ってきて、以前冷凍していたご飯を温めるか。今日はこのくらいで大丈夫だろう。電子レンジにタッパーのままご飯を突っ込み温める。…洗濯物が残っているけど明日でいいか。今日はもう五時半を回っているし。テレビを点けてお笑いを見る。芸人がバカ騒ぎをやっているが、なぜか笑うことができなかった。