第1話
唐突に体が動かなくなった。その感じは本当の唐突で体に何かが乗っかっているような重さ。そして、頭が重くてその頭には石が詰まったように何も頭の思考が動いてくれない。世界が高速に流転しているかのように頭がふらつく。今まで見ている世界が180度変わる。それと同時に目の前の見え方も変わってしまう。その変化は自分にとって良いものだろうか。
頭のふらつきと重みを意志で押さえつけながら外へ出る。頭の中は真っ暗なのに太陽の光を浴びると不思議なほど眩しい。今まで暗い部屋にいたわけでもないが、まるで自分の体光を拒絶する。そして体が硬直してしまう。悪いことをしていないはずなのに警察に緊張してしまうように周りの他人の目線が気になる。掌には多くの汗をかいており気持ち悪い。昨日まではそのようなことはなかった。一体、俺の体はどうしたのだろうか。…、自販機で水を購入しようとする。少しくらい水を含めば気持ちも落ち着くかもしれない。財布を持つ左手が震えている。右手も震えてうまくお金を掴むことができない。掴んでも指は白く震えている。手の震えで掴んでいる小銭が地面に落ちる。今は春だ。寒くなんてない。そう体に教え込ませる。
地面に少し座っていると震えが徐々に収まってくる。額に何かを感じて触ってみる。汗だ。汗が流れている。今まで気がつかなかったが、背中からも大量の汗が流れている。すでに下着も濡れているほどの汗である。この症状は病気なのだろうか。今までにこのような病気になったことがない。しかし、頭の他に倦怠感があるだけで他には何もおかしいところはない。地面に汗が滴る。頭からゲリラ豪雨が降ったみたいな汗で内心焦っている。焦っているからまた汗をかいてしまう。悪循環だ。とりあえず、シャワーを浴びよう。それから買い出しに行こう。地面に落ちた小銭を震える手で掴む。何とか立ち上がり自販機にお金を入れる。スポーツ飲料を選ぶ。自販機から音がしてペットボトルが出ているのが見える。屈んでペットボトルを取ろうとするが、足元がおぼつかないのか地面に手をつく。自販機の蓋を開けてペットボトルを取りだす。ゆっくりと立ち上がろうとするが、地面が揺れているかのように眩暈がする。後ろから脇を掴まれた。
「急に立ち上がるな。ふらつきも収まっていないだろう?」
その男は俺よりも背が一回り大きい。そして、腕の筋力は思ったよりも強い。痩せているからそこまで力があるとは思えなかった。髪は長髪で肩まで垂れさがっている。髪の色は赤色。何をしている人だろうか。雰囲気から見ても俺とあまり年が変わらないように見える。裾と太ももが破れているジーパンとバンドの黒のTシャツを着ている。半袖で外を歩くほど暑い日だろうか。そのまま肩で右側を抱えられて近くにあるベンチに腰を下ろされた。彼は心配そうな顔をして覗き込んでいる。思っている以上にまつ毛長いな。目が少し大きいため、その目はまつ毛によってさらに大きく見える。
「大丈夫か?薬は飲んでいるのか?」
彼の声色は少し高い。でも、すごく聞きやすい声。どうしても音楽を長い時間聴く俺は声のトーンや大きさなどに過敏になる。彼の声はおそらく俺の好きなアーティストに似ているのかもしれない。でも、そのアーティストを思い出すほど体に余裕がない。足で体を起こす。手を握り返す。震えは止まっている。頭のふらつきもだいぶ収まっている。これであれば歩くことは問題ない。しかし、目の前の景色が若干暗いように見えている。オレンジが少しくすんでいるような感じである。その若干のくすみは俺の感情の何かを表しているように見えてならない。
「おい、話を聞いているのか?」
彼の表情は鬼気迫るものである。本当に俺を心配しているように見える。肌の白い彼が叫ぶその声には焦りも含まれている。彼の目の奥には何が見えている、俺はどのように映っている…。彼は俺の両肩を掴んで俺に話しかけてくる。
「返事をしろ。」
「…、ああ、大丈夫だ。」
自分でも驚くほどの低い声が出た。彼を威圧しているわけではない。そこまで低い声が出るほどに気道が狭くなっているように感じた。声が出しにくいというよりも何かが詰まっているというのが正しいだろう。喉を触ってみるが腫れていることはない。息が少ししにくい。上を向いてみると気道が開いたのか少し呼吸が楽になる。その先にある空はどこまで青く吸い込まれていくようだ。ペットボトルを掴みキャップを外そうとするが、水滴で手が滑りうまく開けることができない。
「貸してみろ。」
彼は強引にペットボトルを掴んでキャップを外した。簡単にペットボトルのキャップが外れる。かなり力を入れたつもりだと思ったけど。俺の方を見ている。少し眉間にしわを作りながら訝しげに見ている。
「君はもしかして何もわかっていないのかい?」
何を分かっていないというのだろうか…。とにかく体を休ませること。病気の時にはそれがいいと思っている。彼の心配している表情を見ていればそこまで大変なことではないように考えられる。もし、本当に危険で彼が何の病気か分かっていればすぐでも救急車を呼んでいるはずである。
「何の話?」
「失礼。」
彼は俺の体を触っている。触り方は医者ではない。でも何か慣れているような気がする。彼の手は柔らかそうに思っていたがかなり固い。運動をしていた人の手である。彼の手の甲は少し怪我をしている。いや、生傷ではないものの少し古い傷があるようだ。よく見れば彼のまつ毛は長く、鼻も高い。目も大きいし、顔も整っているため女性にはモテるだろう。彼は俺の目線を気にせずに集中して体を触っている。そういえば、どうして彼に触ることを許しているのだろうか。別に触られるのが嫌いというわけではないが、そもそも初対面の相手にされることではない。それこそ、エステのようなところに行かないとこんなことにはなりえない。彼は頭に手を乗せて抑える。言葉にならないほどの激痛が走る。
「かなり痛そうだな。」
咄嗟に彼の手を振り払った。頭を押さえてもらった部分に針を刺したような痛みがある。彼はその痛みの原因を知っている。そうでなければ迷いなくその部分を押して俺の反応を見ることはない。ただ、彼はどうしてそのようなことを知っているのだろうか。医者であれば医者だと名乗るはず。一般的にドラマのような通りすがりの医師が病気を治すことはほとんどない。基本的には救急車に運ばれるものだ。今までに救急車に運ばれたことはないけれど。
「痛いな!」
「そう怒るなよ。前に教えてもらったからやっただけだから。」
彼はそう言いながら手を振った。彼の腕は長い。普通の人よりも少し長いようだ。見てわかるくらいだからかなり長いのではないだろうか。その彼は俺の方を見ながら考えている。その表情は迷っているようにも見える。体の症状についてだろうか。俺自身も分かっていないことだし聞いてみたい。聞いても多分、そう簡単には信じない。彼は医者ではないし、知らない人だ。だけど、心配してくれているのは確かだと思う。そうでなければこの暑い日にわざわざ時間を取ってまで俺の側にいる必要がない。
「…何かわかっているのか?」
「…正直に言えばいいのか悩んでいる。すぐ死ぬような病気ではないがな。」
一体何の病気だろうか。ポケットから人工知能の病気検索を開こうとする。しかし、そのためにスマホを触ろうとするが、僅かに手が震えている。少し深呼吸をしながらもう一度スマホを握りなおす。その手は止まることなく細かな震えが続いている。その震えはまるで俺の心を表しているみたいだ。手を止めようとしても止めることができない。両手でスマホを触った。右手は震えているが、左手は震えていない。年齢を入力し、答えを入力していく。彼はスマホで検索しているのを見ている。じっと。
検索が終わり診断結果を出すと、『うつ病』の文字が。
「うつ病と画面に出てきたか?」
「どうしてそれを?」
「母親がそうだったからな。」
彼は少し悲しそうに話す。…、うつ病になっていた同級生は知っている。うつ病になった彼は高校を転校している。何かあったわけではないようだけど彼は心を病んでしまったらしい。彼と話したわけではないのでよくわからないが、担任の先生に聞けばかなり大変だったと聞いている。うつ病はいくつかのタイプに分かれるというのもあるが、病気の表情が多くありすぎて難しい。人によって体調管理の考え方も違ってくるらしい。そのように聞いた。ただ、そのうつ病という病気が自分に襲い掛かるなど全く思っていなかった。病気というのは知らないままに人間の体を蝕んでいくことも多い。特に若い人は細胞分裂が活発でその傾向が強いと聞く。
気が付けば手の震えがまた始まっている。これがおそらくパニック障害の軽度なものなのだろうか。彼はどこかに行く気配を見せない。流石に俺の状態が良くないと思っているのだろうか。しかし、赤の他人だけど。
「とりあえず、病院に行こう。」
「いや、少し休んだらよくなったし。」
彼は首を横に振っている。そして、真剣な表情をしている。母親が病気だったから苦しみを分かっているのだろうか。いや、彼が病気になっていると聞いていないしな。彼の耳を見れば真っ赤になっている。彼も見ず知らずの人を助けるのは緊張しているのかもしれない。しかし、彼は優しい人である。自分の緊張を押し切ってまで人を助けるのだから。
「今のうつ病と判断されるには情報がない。基本的に震えは脳が原因で起こることが多いけど、まずは内科に行って異常を調べてもらう。内科で脳に異常があるところが予見されればそこから脳神経外科に足を運ぶ。その後、精神科に行ったり、内科で治療を受けたりするようになる。その上、うつ病の薬は二週間後から効き始める薬もある。出来るだけ早い方がいい。」
流石に親がうつ病になったということだけあって非常に詳しい。彼の話は理路整然としていて嘘はないようだ。それに真剣な表情を見れば本気で心配してくれている。人の気持ちが分からない俺でもそれくらいのことは分かる。しかし、どうしてそこまで気にしてくれるのだろうか。少し体を前かがみにする。胃の底から何かが来るような違和感がある。今日、朝ごはんも食べていないから吐くものなどないはずだ。ヒールの甲高い音が耳に入ってくる。
「どうかしましたか?」
「彼は少し気分が良くないみたいで。」
「どうします?救急車呼びますか?」
「いえ、そこまでではないと思います。先ほどよりはよくなっているみたいですので。」
「そうですか…。じゃあ、お気をつけて。」
「はい。ご心配いただいてありがとうございます。」
女の人の歩く甲高いヒールの音が耳の奥にねばりつく。その音で胃の中が混乱したように胃が蠢く。触ってみても胃が少し動いただけで何かがあるわけではないのだろう。胃を抑えると胃は落ちつく。気道が少し苦しい気がするのは気のせいではないけど、詰まるような感触もない。何かが邪魔しているような、何かがあるようなそんなもの。喉を触っても違和感があるわけでもない。
少しすると落ち着いてくる。時間を見れば家を出てから二十分経過している。体調が悪くなって長く感じるけどそこまで時間が経っていないことに驚く。ここまで体調が悪くなったのは初めてだからだろうか。胃の違和感も徐々に落ち着いてくる。気が付けば手の震えも収まっている。手を開けたり閉じたりしても何もない。スマホを持つこともできる。ちゃんとフリック入力もできる。
「少し収まったみたいだな。」
「ああ、そのようだ。心配してくれてすまない。君の名前は?」
「うすいあきら。君は。」
「東条匠。」
「立てるか?」
彼は手を出す。その手を握って立ってみる。震えは完全になくなっている。汗も引いている。寒いから着替えないといけないが、もう心配するような体調ではないようだ。彼も俺の様子を見て頷いている。しかし、彼の表情は未だに硬い。
「俺としては早く病院に行くことを勧める。母の話は嘘ではないから。それに相当汗をかいている。体が異常信号を出していると思うぞ。」
思わず手についている汗を服で拭く。
「汗についてはすまない。自分の体のことだからわかっているよ。君の表情は必死だったから。言わなくても伝わっている。」
彼には申し訳ないことをした。彼は徐にスマホを取り出す。
「君は大学生?」
「ああ。君も?」
「うん。君もこの辺だと帝福大学だよな?」
「じゃあ、同級生になるのか?もしかして先輩?」
「はは、違うよ。今年入学だから。あまりよい出会いと言えないけどこの縁はなんとなく大事にした方がいいと思っているから。」
俺と彼はスマホを横に振る。今ではあまりやっているような人たちを見かけないが、急に友達登録をしようと思ってもなかなか難しい。どうやってQRコードを出すのだったけ。そう思いながら振ると彼の名前が出てきた。「うっすー」と表示されている。そのアカウントはそのままだと思ったけどそのアカウント名に反してアイコン画面は海の背景画面。しかもどこかで撮ったような写真。その写真は古そうで何かしらの思いがあるような気がする。
「…うっすーって呼ばれているのか?」
「高校の時は。呼びやすいみたいでな。」
それ以外に話すことはない。初対面で何かすることもないだろうし。そういえば字はどうだっけ。
「ああ、貸して字は入力するから。匠は斥のような字が入っているやつか?」
「そうだ。東条は東に二条城の条。」
うまく指が動かないため、彼にiPhoneを渡す。うすいは簡単にiPhoneを操作して俺に手渡した。碓井昭。こういった字を書くのか。
「今は大丈夫みたいだな…。ちゃんと病院へ行けよ。それこそ何かあってからじゃ遅いから。あともう少しで学校が始まるからその時にまた連絡する。じゃあな。」