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物理と遺伝子の結界から

作者: 塚越広治

世界がいろいろな個性を大切にしながら生きるようになるといいですね。



「さぁ、みんな。タカオ先生の登場だよ」

 TV番組司会者の挨拶にあわせて、白衣で大きな丸眼鏡というスタイルの隆夫が登場して、スタジオの子供たちの歓声を浴びた。伝統ある物理学の継承者という権威付けを図っているつもりだが、このスタイルは古くささも漂っている。隆夫は丸眼鏡に指先を当てながら、陽気な声を張り上げて聞いた。

「みんなは、銀河旅行とかワープ航法って、聞いたことはあるかな?」

「ファンタジーの絵本で読んだわ」

「そうだね。でも昔は、空間を曲げるとか、別のフィールドを作るとか、科学的な説明が考えられていたんだ」

「バカみたい」

「どうして?」

「この宇宙に、空間を曲げたり、フィールドを作るのに必要なエネルギーは無いもの」

 別の子も同意して叫んだ。

「光速が越えられないのに、銀河旅行なんてできるはずないよ」

 昔なら、夢を膨らませた話題に、この時代の子供たちは、否定的であり現実的だった。物理学はニュートンやアインシュタインを経て、量子力学の世界へ入り、究極の進展を見せたが、その限界を迎えている。科学技術もまた長足の進歩を遂げたが、核融合エンジンに続く、人類を乗せて太陽系を飛び出す航法システム現実化する気配はない。歴史上、常識を打ち破って新たな分野を切り開いた情熱と天才は、この時代には皆無なのである。

 隆夫が指示棒を振ると数式が光ってスタジオの中に浮かび上がった。

「では、そのエネルギーについて質問だよ。これが誰の式か知ってるかな?」

 子どもたちは当然だといわんばかりに声をそろえて答えた。

「あいんしゅたいん」

「では、この式は何を意味してるのかな?」

「質量とエネルギーが等価だということ」

 子どもたちは、隆夫が続いて書き上げていくフーリエ変換の式を興味深げに、頷きながら眺めていた。この時代、21世紀の知能の尺度で言うと、子どもたちの平均的知能指数を示す曲線は130付近にピークがあり、その幅は非常に狭い。つまり、賢くはなったが一部の天才もいなくなった。何より奇異なのは、正規分布を示すはずの線は、ある数値から左側がほぼ垂直に落ちてゼロになっていることである。

 遺伝病の排除を目的に、劣性遺伝子排除法が登場したのは21世紀末だった。その後、怠惰や攻撃性といった性格的な事まで、社会から劣性と定義づけられた特徴を生む遺伝子まで染色体から排除され、子どもたちは生を受ける時期から治療と称する遺伝子の改造を受けていた。遺伝子改造を数世代を重ねた今の子どもたちを見れば、ほかの子と競い合う覇気や性格的な個性は無くなったが、善良で仲がいい。人々は平等な理想郷に近づいたと称して、劣性遺伝子排除法の効用を信じていた。


 番組の収録を終えて帰宅した隆夫は、書斎に入るや否や、怒りを込めてメイドを呼んだ。

「アンナ。祐介を書斎に入れるなと言ってあるだろう」

 数式が書斎の空間に浮かんで溢れそうだった。サーバー内にある数多くの書籍を開きっぱなしにしているのである。そればかりではなく壁や床が落書きで埋まっていた。悪戯の主は、書斎に入ってきた父親をちらりと振り返っただけで、今も床に向かって、落書きを続けていた。この子に文句を言えば、自分を受け入れなかった父親に対してパニックを起こして、奇声を上げ、意味もなく駆け回り、壁を叩く。隆夫は怒鳴りつけたい思いを抑えた。

「祐介ちゃんを叱らないでやってください。悪気はないんです」

 顔を見せたメイドのアンナが祐介をかばった。母を亡くした祐介を幼い頃から守り育てた女性で、祐介を本当の孫のように扱ってくれていた。


 隆夫の妻は閉鎖的なコミュニティの出身者だった。彼女は結婚の直前に、自分も含めて祖父母の頃から、遺伝子治療と称する遺伝子の改良を受けていないと告白した。人類の古い遺伝子をそのまま持っていたと言うことである。もちろん、この時代では違法である。しかし、隆夫は彼女を愛して結ばれた。生まれたのが祐介である。出産で亡くなった妻には目立った障害はなかったが、息子に顕れた障害は、古い遺伝子に起因した欠陥と考えて間違いがない。隆夫は、息子の障害、そして息子の存在そのものが、妻が残した負の遺産だと考えていた。

 この時、タイミング良く電話のベルが鳴った。通話を言い訳にするように、隆夫は祐介にもアンナにも声をかけずに、手を振って追い払った。アンナに手を引かれて部屋を出て行く祐介の姿に、隆夫は父親として息子に向き合ってやれない罪悪感を感じていた。ただ、祐介は叱られているにもかかわらず、機嫌のいい笑顔を浮かべていた。人として、言葉や表情でコミュニケーションをとることができないのである。


 電話はプロデューサーからだった。忙しい男で、いきなり用件から切り出した。

「椎名先生。お子様がおいでとか。次の番組の冒頭でお二人を取り上げたいんですが」

 プロデューサーの言葉に、隆夫は息子の姿を思い浮かべ、躊躇しながら言い訳の言葉を探した。

「取材は断る。プライベートは大事にしたい」

「でも、先生。視聴率が低下してるんです。テコ入れをしておかないと、打ち切りもあり得るんです」

「では、番組冒頭で10分だけ、家族紹介という形で、我が家の映像を使う」

「30分では?」

「いや、10分。それにインタビューの受け答えは私がする」

「では、それで手を打ちましょう」

 そんな言葉でプロデューサーは通話を打ち切った。取材など断れるなら断るべきだとわかっている。しかし、社会とのコミュニケーションがとれない息子が、将来、一人で生活するために多額の金銭がいる。隆夫にとってTVの出演料は大学の講師として得られる収入よりずっと実入りがいい。番組が打ちきりになりそうだと言われれば、息子のためにも協力せざるを得ないのである。

「取材の10分間だけは温和しくしていてくれよ」

 隆夫は息子の顔を思い浮かべ、世話をしてくれるアンナに祈るようにそう思った


   3

 取材当日、からりと空がきれいに晴れ上がっていた。父親の心配をよそに、祐介は朝から機嫌が良く、落ち着いていた。つきそうアンナの目から見れば、普段はあまりかまってもらえない父親に付き添ってもらっているせいである。

 隆夫はやって来た取材クルーを書斎に招き入れた。父と子は仲良くソファに並んで座り、テーブルを挟んでレポーターが向き合った。部屋の隅のテレビカメラの死角に、アンナがそっとたたずんでいる姿が見え、隆夫は励まされるようだった。

 取材はこの部屋のみで、受け答えは隆夫がする。そんな約束をいきなり破ったレポーターは、祐介にマイクを向けた。

「学校には通ってないようだけど、いつもお父さんから勉強を習っているの?」

 祐介は向けられたマイクにも興味を示さず首を傾げたため、レポーターはわかりやすい表現を付け加えた。

「お父さんと祐介君は一心同体で分けられないと言うことかな」

 そんなレポーターの言葉ではなく、祐介はレポーターが言葉と同時に、合わせた手をさっと開いて見せた動作に想像を刺激されて小さく呟いた。

「1と自分以外には分けられない……」

 隆夫があわてて中に入って、時間稼ぎのための長い説明を始めた。

「この子の個性を大事に育ててやりたいので、2歳の頃から自宅で勉強させてるんです」

 事実はやや違う。保育士に感情の起伏が激しいとか、他の子どもたちと仲良くできないとかいう指摘を受けた。精神的な障害など見たこともない保育士が気づかなかったのを幸い、隆夫は祐介を自宅で教育させることを決心したのである。そんな事実は伏せたまま、祐介が生まれた直後に母を亡くしたことや、今日までの父と子の生活を、いたずらに丁寧に長々と話した。そんな説明を続ける父親の傍らで、祐介は熱心に何かを呟き続けていた。

「919、929、937、941、947……」

 レポーターは首を傾げたが、隆夫は息子の呟きを理解した。素数を順に呟き続けている。普通の子どもがする行為ではない。

「祐介!」

 隆夫は息子を短いが鋭い言葉で叱って、顎を軽くしゃくって視線で時計を指し示した。30分だけは温和しくしていろと指示してある。祐介は時計に顔を向けた。ただ、その視点は時計そのものではなく、一方方向に回転を続ける秒針に釘付けになっていた。

 隆夫はお喋りを封じるように祐介を引き寄せた。父親に抱かれることが心地よいらしく、祐介は素数を忘れたのか、興味が別のものに移したのか、黙りこくった。返事のない祐介に、レポーターはマイクを隆夫に向けた。

「椎名先生が物理に興味出てきたのは、いまの祐介君と同じ年頃でしょうか」

「最初は歴史の変化に興味があったんです。ただ、この数百年、変わらずに引き継がれている物理に興味が移ったんですね」

「法則を引き継いでるだけ。それは、時が止まってるのと同じ?」

「いいえ、止まっているのではなくて、宗教が神の教えを大切にするように、正しい法則を次の世代に伝えていることです」

「祐介くんもその継承者というわけですね」

 隆夫は机の上にあったマーカーを右手でつまみ上げ、左の手の平に落として見せた。

「ニュートンはリンゴが落ちるのをみて重力を悟ったそうです」

「変わらない大切な物と言うことでしょうか」

 レポーターの言葉に、隆夫は人差し指をぐるりと回して部屋の中の空間を示して言った。

「この三次元空間で、私や祐介が経験する重力による現象は、時や場所が変わっても、その影響を受けます」

 レポーターは隆夫の言葉ではなく、祐介の挙動に興味を引かれた。祐介は父親の指先と、それが指し示した空間の行き止まりになる壁や天井を、目だけせわしなく動かして眺めていたのである。隆夫は言葉を続けた。

「我々にとって物理はこの空間を支配する教典なんです」

 祐介は周囲の人々にも、飛び交う会話にも興味を示さず、時計の秒針や父の手の平に落ちたマーカーや壁と天井に想像力を膨らませるよう、繰り返し呟いていた

「時・重力・空間、時・重力・空間、時・重力・空間……」

 祐介はふと父の手のマーカーを奪い取った。彼は突然に立ち上がり、壁と向き合って、周囲のことなど気にもとめずに、落書きを始めた。強引に押しとどめれば、パニックを起こしてわめき散らすに違いない。隆夫は笑ってごまかすしかない。

「取材が気に入らなくて、昨日から、ずっと拗ねてるんですよ」

 祐介はそんな言葉も耳に入らないようで、熱心に数式とも落書きともつかぬものを壁に描き続けた。やがて、マーカーの字が掠れたために祐介は不満気な表情を浮かべたが、アンナが気を利かせて、別の緑色のマーカーを与えた。落書きは緑色に変わって、壁に収まりきらず床に広がった。

 先ほどからの様子を思い起こせば、この子は普通の子どもではない。レポーターたち取材クルーの目が鋭くなり、映像は祐介と彼が描き出す数式を記録した。仲良く物理談義に興じる椎名親子を取材する予定だったが、目の前の光景はもっと取材価値がある。椎名先生に障害を抱えた息子がいた。椎名隆夫はこの社会を支える劣性遺伝子排除法を犯した大罪人だと言うことである。


 祐介が落書きを終えて、満足げに父親を振り返ったとき、取材クルーは姿を消していた。今頃は局に戻って、映像の編集とニュース原稿の作成に大忙しだろう。犯罪者椎名隆夫と、施設に収容され社会から隔離されるはずの祐介についての報道である。間もなく、役所や報道関係者からの通信で電話のベルは鳴り続けることになるに違いない。


   4

 最初の連絡は恩師からだった。恩師は興奮した面持ちで、挨拶も忘れて話し始めた。

「私にもよく理解できないんだが、祐介君の式の28行目が気になってね」

 隆夫は壁から数えて、床面にその28行目を見つけた。

「これが?」

「式の左端の数式の単位を整理すると、時間の次元を持っている。つまり、式の左端は時間を表しているんだ。当然、イコールで結ばれる各数式は、時間を表しているはずだが、一番右端は、時間の次元が消失して空間に変化してるんだ」

「どういうことでしょう?」

 教え子の質問に、恩師は物理の専門家として、荒唐無稽かもしれない言葉をためらった。隆夫の傍らにいた祐介が、自分の式を一言で評した。

「あのね。四次元から時間軸が消えると、三次元空間との扉が開くんだよ」

 恩師ばかりではなかった。ニュースでは、途中までしか放送されなかった式に、興味を示した科学者たちからのコンタクトが相次いで、電話のベルは鳴りっぱなしだった。

 祐介の式の検証が終わったのは、物理学者や数学者、天文学者に宗教家まで巻き込んで、量子コンピューターをフル回転させた数ヶ月後である。

 

 行き詰まった現状を打開する意欲や能力もなくなって、旧態然とした結界に閉じこもっていた社会から、祐介は穴を開けて飛び出した。もちろん、祐介の数式は新たな物理の基礎式に過ぎず、直接に社会を変革したわけではない。

 ただ、時が一方に流れ続ける三次元の時空連続体が、時の制限から解放されれば、速度、つまり単位時間あたりの移動距離の概念からも解放される。今まで速度によって不可能だとされた長大な銀河空間の移動が可能になると言うことであり、この数百年の間の人類が夢にも思わなかった銀河旅行の夢が膨らんだ。さらに、空想の産物にすぎなかった時間旅行さえ可能になるかもしれない。


 いくつかの大学が祐介に名誉博士号を与えた。この社会が祐介の能力を受け入れるということである。国家は遺伝子排除法の緩和に踏み切った。

 祐介自身は相変わらずマイペースだったが、自分が社会から注目されていることには気づいたらしい。リアルタイムの中継があると、いきなりマーカーを手にして壁に向き合う。全世界の学者はこれから生み出される可能性に、息を潜めて注目する。その後、祐介はくるっと振り返って笑顔を浮かべておしまい。祐介はがっかりする学者たちを眺めて楽しんでいた。ただ、そんな他愛のない悪戯も、アンナには自分に閉じこもっていた祐介がほかの人々とコミュニケーションを取り始めているようにみえてほほえましく見守っていた。


                        おしまい

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