表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

理想は理想のままが理想的

希魅のラケットが頭を打ち、割れた額から流れる血は、視界を紅色に染め上げた。だけれど僕は生きていて、気付けば一歩さがっていて、あれほどの決意をしておいて、僕は慄き退いてしまったのか。その答えはすぐ近くにあり、背に感じる温かみを知った時、僕の決意は本物だったのだと理解した。


「た、妙子さん……」

「あ、あわわわ……」


 腰に巻かれる細腕は、僕の足を一歩退かせて、直撃の殴打をすんでのところで掠らせた。ぶつかってきても飛ばされてしまうような、そんな華奢な妙子の腕が、僕の身体を全力で引いたのだ。


「このぉおおお! 陰気な不細工がぁあああ!」

「わ、わわわ……私が気に入らないのなら、この私を殴ってください!」

「く、ぐぅぅぅぅ」


 希魅はラケットを握り締め、食いしばる歯から唸りが漏れるが、しかし手は出せない。妙子は戸籍のある人間で、殺せば即座に身元は割れる。だから希魅からは手が出せなくて、でもそんな事情を妙子は知らない。


 つまり妙子は、殴られた僕を見ておきながら、ともすれば命を脅かす殺意を前に、それを知って僕の前に立ったのだ。身を呈して両手を広げる、そんな妙子は今まさに、自分を変えてみせたのだ。


「もう、いいわ! 醜い傷が付いたあんたなんか、その屑とよろしくやればいいのよ! 私はもっと完璧で、私に絶対服従の、そんな彼氏を創るんだから!」


 捨て台詞を吐き、ラケットを怒りに任せて放り投げると、希魅は、僕の元カノは、僕の下から去って行った。


「はわぁぁぁ……」


 腰が抜けてしまったのか、妙子はその場に崩れて朧げに宙を見つめている。


「有難う、妙子さん」

「ふえ? あわわ……どどど、どういたましてごぜぇます」

「妙子さんは勇敢ですね」

「ただ必死だっただけで……今はこの通り、全然だらしなくって――」


「いえ、妙子さんは、ちゃんと勇気を持ってました。それは人一倍大きなもので、ここぞという時に発揮できる、素晴らしい優しさの持ち主でした」

「奏真さん?」

「僕はあなたを尊敬します。希魅には振られてしまいましたが、そんな僕は前向きに、自分を変えようと思います。妙子さんを見習って」


「はぁ……私を見習う……って――! 私なんか全然駄目で! 駄目の駄目の駄目駄目で! 私なんか真似しても、全然いいことなんて一つもなくって――」

「そんなことは――」

「だから私も、誰かの模範になれるよう、精一杯頑張ってみようと思います。有難うございます、奏真さん。お陰で私は、変わることができました」


 夕暮れに染まる妙なる笑みは、それはそれは美しくて、僕を僕たらしめていた狭い世界を、あっさりと覆した。僕は今ここに、新たな産声を上げたのだ。



 その後の僕はというと、役所に赴いて、素直に身柄を打ち明けた。初めは悪戯だと一笑に付されたが、調べる内に真実と分かり、僕は凡そ二十の身なりで、異例の無国籍者として知られることになる。


 出生も経歴もまったく不明で、そして僕自身も分からないのだから、記憶喪失的な扱いを受ける。しかし高等学校以上の教養はあり、あまりにも特異な事柄から、異例に特例を重ねていき、行政の監視下のもと、限定的な自由を手に入れることができたのだった。


 しかし、そんな素性の知れない人間を、雇ってくれるような企業はなく、ほとほと途方に暮れてしまうが、それでも僕にはただ一人、案じてくれる人がこの世にいる。


「奏真さん、お顔の傷は大丈夫ですか?」

「だいぶ跡になっちゃったけどね、でももう、痛みはないよ。それにこの傷のお陰で、ちやほやされることもなくなった」

「奏真さんは強いですね。ですが私も、サークルを辞めることができました。けれど構内でのいじめがひどくて、結局大学を辞めて逃げ出しました」

「いじめはね、立ち向かうだけが勇気じゃないよ。逃げることだって立派な勇気だ」

「ですね、今では私もそう思います。ですがこれから私たちは、一体どうしたら良いのでしょうか」


 後ろ向きだった妙子、今は途方に暮れて下向きに。けれども前には進んでいる。あとは首を上げるだけ。


「大丈夫。美という理想は失ったけど、僕にはまだ、やれることが残ってる」

「それは――」



『次のニュースはスポーツです。ボクシングフェザー級、王座決定戦にて、奏真選手がチャンピオンとなりました! 彼は凡そ二十歳の頃に、無国籍で騒がれた青年でした。大変に生き辛かった中、非行少年の更生を支えるジムの門を叩きます。そこで才能を発揮して、見事この度チャンピオンの座に輝きました――』


 スポーツ万能で喧嘩が強い、それが僕に残る僕の個性。優しさを求められれば喧嘩などしない。しかしスポーツであるなら話は別だ。無法な者でも受け入れる、厳しくも心優しいトレーナーにも巡り合えた。


 醜いと言われた傷痕も、それが拳を交える格闘技となれば、見方はがらりと一変し、雄々しくかっこいいと騒がれる。その内にファンも増えていき、人気が出ればスポンサーも。そうして恵まれた環境を得て、チャンピオンの座へとのし上がった。


 チャンピオンになる少し前、それでいて世間を賑わせはじめた頃合い、一度だけ希魅に会うことがあった。その時の希魅はぼろぼろにやつれており、どうやら彼氏から得た金を使い、共に薬に手を出してしまったそう。そして再び男を捨てて、三度彼氏を願うものの、仏ならぬ精霊の顔も三度までだったようで、魔術書はうんともすんとも言わなくなったそうだ。


 こうして改めて希魅を見て、願いから生まれた僕には、やはり何処かに恋心が残っており、見ていてとても辛かった。しかし縒りを戻す気はもうなくて、必死に縋りつく希魅を前に、幾らかの金を差し出すと、すぐにそれを掴み取り、足早にその場を去って行った。以降は希魅の姿を見ておらず、もしもが頭を過るも、深く調べることはしなかった。


 無国籍だった僕は自分は変えて、華々しい道を歩んでいる。しかし変わらぬことも一つあって、それが孤独な時からずっと寄り添い、支えてくれた大切な人。


「はわ、はわわわ……怪我はないですか? 奏真」

「大丈夫だよ、妙子。君の見せてくれた勇気が、僕に力を与えてくれる。それを想えば、相手の拳なんて怖くない」


 ふうと胸を撫で下ろし、安堵の笑みを浮かべる妙子。その優しさは世にあるべき、僕を気遣う真の優しさ。


「僕はあの時に生まれ変わり、君の理想になると決めた。理想として生まれるのではなく、理想を目指して努力する。この先ずっと、妙子と一緒に」

「理想を追い求め続ける奏真が、私の理想の彼氏であって、私の理想の夫です。それにね、奏真。もう二人じゃないですよ――」


 妙子は僕の手を取って、そっと膨らむお腹に導いた。そこには新たな命が芽吹いており、僕らの願いから君は生まれる。


「いったいどんな子に育つかな。だけれど一つ、理想があって――」

「私たちの理想は押し付けません。この子の理想が、二人の理想」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ