理想の奴隷となりました
飛んでいってしまったボールの方角、とは別の方向。歩道に面した陰気に茂る草むらで、土に汚れる妙子の背中が見えた。歩み寄っても気付かず、ひたすらに球の行方を探す姿は健気で、とても笑顔で見れる代物ではない。
「妙子さん……」
「ふえ? へあ!? そ、そそそ、奏真さん? なんでこんなところに……」
「なんでって、僕もボール探しだよ」
「そうじゃなくって、ええと……」
「妙子さん。君はなぜ、このサークルにいるんだい? ボール探しにこき使われて、辞めたいとは思わないのかい」
問われて面と向かう妙子だが、酷な質問を前にして、ボール探しに勤しんでいた屈み姿より縮んで見える。
「私、こんな見た目です。暗い自分を変えたくて、それでこのサークルに入りました。けどやっぱり、それくらいでは変えられなくて、おまけに辞めたいなんて言えない始末です。ほんと私って、駄目なやつです……」
妙子は自信なげに項垂れるが、それはたった一言、それだけで解放されるはず。
「勇気を持とうよ、妙子さん。ただ一言辞めたいと、それを伝えれば――」
「それができたら、私の何処かに勇気があるのだったら、きっと今ごろ、球拾いなんてしてません。自分を変えるということは、とても難しいことなんです」
「自分を、変える……」
「奏真さんは変えられますか? 変える必要なんかないかもしれないけれど、悪人になれって訳でもないけれど、今の自分を百八十度、変えることはできますか?」
「それは――」
できない、できる訳がない。僕は希魅の願いの下に生まれたのだから、自分を変えることをしてはいけない。変わることも逃れることも、ましてや希魅の下を去るなどと、そんなことは許されない。
「奏真さんでも変えられないなら、私には到底無理です。どうか気にしないで、陽の目の当たらぬボール拾い、私にはきっとお似合いです」
こんなことは止めさせるべきだ、それが人間の優しさだ。しかし希魅は球拾いを望んでいて、果たして一体、どうすれば――
「奏真ぁ、遅いよぉ」
「え……」
振り返る先には希魅が佇み、次第に強張る視線の矛先は、僕の背後に向いている。
「奏真、まさか……この女と話したりはしてないでしょうね」
「え……いや、それは――」
「そんなの絶対、許さないから。私のいないところで、他の女と話すなんて、そんなの絶対に許さないから」
「希魅、ちょっと話を――」
「奏真は私の創造物でしょ! 私だけのもので、口答えは許さない! なんでも我儘を聞くんだよね? だったら、この女を殴りなさい!」
怒る希魅は地面に向けて、握るラケットを叩き付ける。息を大きく荒げて、興奮に我を忘れている。なんとか、なんとかして穏便に、宥めすかせてあげないと。
「の、希魅……それはいくらなんでも……」
「言うことを、聞けぇえええ! 私に逆らうなんて、そんなの全然、優しくない!」
これだ、これが僕の感じた違和感の正体。希魅は僕に優しさを求め、しかし希魅の行いは、人の優しさとは反するもの。ならば希魅は優しくない? そんなことを思ってはいけない。希魅の先輩を共に嘲笑うことが、妙子をここで殴ることが、それが優しさとなり得るのか。理想から生まれた癖にどっちつかずで、理想を体現していない僕。しかし僕にはもう一つ、我儘を聞くという理想がある。
「もういい、殺してよ。このラケットで、妙子を殴り殺しなさいよ。どうせ奏真は身元不明、人を殺したって構わない。ほら早く、ここで妙子を殺しなさい!」
「う、うう……」
このまま希魅の要望を断れば、僕は希魅への優しさと我儘、二つの理想を失うことに。しかし妙子をここで殺せば、世にいう優しさは失うが、我儘を聞くという部分は守られる。理想ではなくなるが、理想に近い者では居続けられる。だけど希魅の願いで生まれた、希魅の所有物である僕は、そんな僕の作り物の心は、健気な女の子を傷付けることを拒んでいる。
駄目だと、ただ一言。それを伝えれば終わりのはず。だけれどその一言が、どんなに高い壁なことか。自分を変えるということは、かくも難しいことなんだ。
「できないって言うの? だったらもう、奏真は私の彼氏じゃない。また創ればいいんだから。あんたは存在しない人間で、だったら殺しても構わない。今ここで、死んでしまえぇえええ!」
希魅は激情のままに、ラケットを振りかぶった。だけれど僕は、反撃も逃げることもせず、希魅の殺意を受け入れる。死んでしまえというのなら、僕はそれで構わない。そんな我儘ならば、僕の心は受け入れられる。
そしてラケットが振り下ろされ、鮮血が宙に舞い散った。