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贄の王座と侍るもの  作者: 伊空 路地
第四章 砂漠に在りし忘られの想い
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91 “接吻魔”


 “それ”が来たのはまさしく一瞬の事だった。


 イパスメイアの港を離れ、寄り添うように進む三隻の船。それらの動きが、ずぅん、と重々しい衝撃とともに一斉に止まる。


 ごぉおー……、という唸るような、地鳴りのような、あるいは雷鳴のような響きが海の下から伝わってくる。ぐらぐらと船が不自然に揺れる。


 そして海面がぼこぼこと暴れ、その海面を叩き割って巨大な何かがいくつもいくつも海上へ姿を現す。それらは吸盤の無い蛸の触腕のような、巨人の指のような、あるいは竜の尾のような触手たちだ。


 三隻の船の前方、少し離れたところにひと際巨大な何かが海面を叩き割って現れる。それはちょうど、下顎の無い竜の頭のような姿をしていた。


 竜頭には目が無い。と思いきや、ばくり、と音を立てるように巨大な一つ目が開く。ぎょろぎょろと船を見渡す。


 そして、口の無い竜頭が、“接吻魔”が咆哮をあげた。

それはまさしく竜の咆哮であった。






 あまりに巨大でおぞましい“接吻魔”の姿と咆哮がサンの心胆を寒からしめる。それでも恐怖に飲み込まれるようなことが欠片も無いのは、右手人差し指に嵌められている指輪のお陰だ。それには魔力が通されており、既に彼女の主とつながっている。


 だがサンのように頼るものの無い船乗りたちは少し違った。現れた“接吻魔”の姿を前に、彼らが手に持つライフルやサーベルの何と頼りない事だろうか。それこそ、巨大な象を前に針一本で戦うような無謀さ。


 いや、もっと悪いのかもしれない。何せ、この相手には何としてもこちらを苦しめていたぶって殺すという邪悪な意思がある。


 誰もが動けない。奇妙な空白と共に、弱気が船乗りたちを支配しかける。


 その時、一発の銃弾がその空気を斬り裂いた。


 マーレイスだ。中央の船に乗り、その船首そばに居た彼一人が弱気に呑まれず、手のライフルで前方の竜頭を狙って撃ったのだ。


 巨大な目が、ぎょろりとマーレイスを見た。


「諸君!!!

我が英雄たる同胞たちよ!!!その手にあるのは何だ!!何のためにここまで来た!!

諸君らは……!なぶられるネズミとなるために、ここまで来たのかッ!!!」


 その声を聞いて、サンはもう一押しとばかりに巨大な火球を見せつけるように生み出し、竜頭に向かって放った。


 “接吻魔”は避けもしない。火球も大きかったが、竜頭は更に巨大である。直撃、爆発するもその表皮を僅かに炙ったに過ぎない。ぎょろりと、巨大な目がサンを見た。


 「立てよ諸君!!!

自らの運命は、自らの手で勝ち取らねばならないのだ!!

今だ!今こそが、英雄の力を見せつけるとき!!

その手にある刃と銃で、この化け物を……!!


打ち取って見せろォッ!!!」


 誰かが叫ぶ。どこからか、やみくもに放たれた銃弾が触手の一つに直撃し、血を滲ませた。


 叫ぶ。叫ぶ。誰かが、いや誰もが叫ぶ。恐怖を振り払わんと、敵に立ち向かわんと、闘志を奮い起こす。


 “ウォー・クライ”が響き渡る。それは、誰かが聞けばこう言ったかもしれない。

まるで“竜の咆哮”だ、と。






 巨大な触手が甲板を叩く。それはそこに居た誰かを叩き潰し、周囲に血と肉片を飛び散らせた。


 その触手に、次々と銃弾が撃ち込まれる。触手から血が噴き出し、堪らずと言った様子で海へ逃げ戻る。


 次の触手が再び船を叩こうと鎌首をもたげる。そこに、ちょうど正面にあった大砲が火を噴いた。触手は血を吹き出しながら海に叩き戻される。


 直後、やや小さめの触手が大砲の砲手を凄まじい勢いで突き飛ばす。砲手は回転しながら吹き飛び、甲板の反対の柵にぶつかってから、海へと落ちた。




 そんな凄惨な戦闘が三隻の船のそこかしこで起こる。無数の大小様々な触手と、それに立ち向かう船乗りたち。一見すると、一進一退の攻防をしている、とうに見えた。


 だが、サンにはよく分かる。これはただのお遊びだ、と。


 何せ、この触手たちを如何に傷つけようと、それは人体で言えば指先に過ぎないのだ。全ての指を落とされれば酷く生活しづらくなるだろうが、命に関わるかと言えばそんなことは無い。


 この化け物を殺すには触手などでなく、海の下にあるはずの胴体、あるいは少し離れたところから戦況を眺めている竜頭を攻撃する必要があるはずなのだ。


 そうして考えてみれば、もっと万全の体制で挑んだはずの軍艦たちが敗北したのも頷ける。魔法も大砲も海面下の本体部分に届かない。その上、“接吻魔”はその気になれば直接船を転覆させてしまえる。乗っている人間など無視してしまっても問題は無いのだ。


 正面、また誰かを叩き潰した触手に、準備していた”雷“の魔法を叩き込む。


「『――“雷竜の右爪”』!」


三本の雷が触手に直撃し、その肉を盛大に弾けさせる。先端を失った触手は海に逃げ戻り、切り取られた先端部分は甲板の上でびたびたと暴れる。


 マーレイスが暴れる触手を足で思いきり蹴り飛ばし、海へ落とした。


 「やはり貴女が居る分、ここが一番優勢のようだな。まぁ、無意味ですが。」


「無事ですか、マーレイスさん。何か問題は?」


「ありません。手筈通りにお願いします。」


「分かりました。……では精々、健闘して見せましょう。」


「ありがとうございます。……よっ!と!」


マーレイスが手近な触手をライフルで撃ち抜く。触手はびたびた暴れながら海へと戻っていく。


 贄の王は今この船には居ない。遠く魔境の書斎にでも居るはずだ。


 魔物はどういう手段か、“贄の王”の存在を感じ取って絶対に近づいてこない。ゆえに、贄の王が船に同乗すると“接吻魔”が現れないだろうということだ。贄の王は今サンの指輪越しに戦況を眺めて、戦闘を終わらせるタイミングを計っているのだ。


 つまりは、今行われている戦闘は全て茶番。船乗りたちに“自分たちが勝ち取った勝利”という思い違いをさせるための演出に過ぎないのだ。


 触手に叩き潰された者も、海に落ちて上がってこない者も、全ては演出のためだけの犠牲。サンとしては気分が悪いのだが、それでも飲み込めたのは本質的にガリアの民などには無関心だからだろうか。


 サンは博愛主義者では無い。むしろ自分の大切なものとそれ以外をはっきりと分けるタイプだ。

大切な主や自分のためならば、大切でない他人たちが死ぬことくらいは何でもない。気分の良い悪いはあるが、所詮それだけである。


 なので、サンはマーレイスと主の策謀のため、こうして必死な戦闘を演出するのに助力するのだ。


 今もまた、船乗りの一人が触手に絡めとられ、海に引きずり込まれそうになる。サンはすかさず“炎”の魔法で火球をぶつけ、触手から船乗りを解放する。


「た、助かった!ありがとう!」


「お礼は不要です。それより、また来ますよ!」


狙いを外された触手がサンに向かって伸びてくる。咄嗟に引き抜いた”闇“の剣を躱しながら振るうと、常識外の切れ味に触手はばっくりと斬り裂かれ、血を噴きだす。

更に傷口にねじ込むように“炎”の魔法で火炎を放つ。血の蒸発する嫌な臭いが辺りに広がり、触手は暴れながら海へと帰っていく。


「本当に、きりがありませんね……。」


無詠唱で”雷“の魔法を編み上げると、こちらを眺めている竜頭に向けて撃った。細い雷が巨大な目玉に走り、”接吻魔“が痛みと驚きに僅かな悲鳴を上げる。


 ダメージとしては皆無に等しいだろうが、化け物に攻撃が通じることが分かり、船乗りたちの士気が上がる。


 その様子を、マーレイスとサンだけが他人事のように眺めていた。




 戦いが続き、多くの触手が傷つけられ、船乗りたちも大分数が減ってしまった頃、“接吻魔”の動きが変わった。


 全ての触手が一度海に引っ込む。同時に竜頭の下から“接吻魔”の胴体が現れてくる。


 竜頭の下についていたのはそのまま竜の上半身のようだった。酷く痩せ細り、あばらが浮き出た胴体。肩から先は腕があるのだが、それはどちらも半ばほどから触手に姿を変えている。背中には不格好なヒレめいた翼が生えており、ばさりと広げた様子はまるで空を覆い隠そうとするかのようだった。


 現れた上半身の周りに無数の触手が天に向かって伸びる。それらはゆらゆらと揺れて船乗りたちを威嚇する。


 もう一度、“接吻魔”が竜の如き咆哮をあげる。


 負けじと、船首に構えられた大砲が次々火を噴いて砲弾を放つ。巨体ゆえに身体のどこかしらには当たったようだが、大したダメージになっている様子は無い。


 言うなれば、前哨戦の終了と言ったところだろうか。明らかに数を増した触手たちが一斉に船へ襲い掛かった。


 いくつもの大砲が火を噴き、火薬を満載した樽が炸裂し、ライフルが次々と触手を撃ち抜く。


 一方、大量の触手に押され、ある者は押し潰され、ある者は海に突き落とされ、ある者は叩きつけられて命を落とす。


 その中で恐るべきはマーレイスだろうか。

彼にここで死ぬつもりなど毛頭無いはずだし、これが茶番であることも分かっているはずだ。それなのに、マーレイスは誰よりも果敢に“接吻魔”へ攻撃していた。武芸の心得など大して無いだろうに、片手にサーベルまで握っては斬りつける。


 サンもここでマーレイスに死なれては困るので、優先的に援護する。


 そんな二人の姿に勇気づけられるのか、船乗りたちも次々と叫びながら“接吻魔”に挑む。ライフルで、拳銃で、サーベルで、“接吻魔”に絶え間なく傷をつけていく。


 実際、十分な準備も無い状態で飛び出してきただけの集まりにしては相当な善戦をしていると言って良かった。冷静に戦場を俯瞰しているサンには“接吻魔”が追い詰められてなどおらず、少々怒っている程度でしかないことが分かっているが、それでもただ一方的に蹂躙されていないだけマシというものだろうか。




 そんな戦闘をどれだけ続けたろうか、船乗りたちが最早半分程度まで数を減らしてしまった頃、マーレイスが叫ぶ。


「諸君!準備が整った!一斉攻撃の準備をせよ!!」


 それは合図。ここに来るまで、魔法使いの内一人は大魔法の準備のため戦闘には参加しないという設定で贄の王が居ないことを誤魔化していたのだが、その準備が整ったという合図、つまりは“もう充分だから戦闘を終わりにしよう”というサンへのメッセージである。


 「……主様。これを終わりにするそうです。」


サンが小声でそう言うと、指輪越しに聞いていたのだろう。贄の王がサンのすぐ傍らに立っていた。


 そして、贄の王が姿を現したことによる“接吻魔”の反応は劇的だった。怯えるように首を引き、恐怖の悲鳴を上げる。


 本当は逃げたかっただろう。だが贄の王がそれを許さない。そして、これ見よがしに両手を掲げる。そして唱える。


「『其れは空を隠し、海を覆い、大地を包むもの。其れは目に見えず、音に聞こえず、触れることの出来ぬもの。其れは巨神、其れは風神、其れは水神。呼びたまえ、呼びたまえ、其れの名を。其れは山を掴んで押しつぶす。其れは雲を掴んで引きちぎる。其れは星を掴んで押し隠す。見せたまえ、見せたまえ、其れの御業を。――“名無きの握撃”』」


 びたり、と“接吻魔”の動きが止まる。まるで巨大な両手に掴まれ、引き寄せられるように船へと近づいてくる。途中、その不格好な両翼がもぎ取られて海に落ちる。


 “接吻魔”は悲鳴を上げるが、逃げられない、逃がさない。


 マーレイスが叫ぶ。


「撃て!撃て!この機会を逃がせば勝ちは無いぞ!!」


 いくつもの大砲が火を噴く。皆が必死に砲を撃ちまくる。流石に溜まらないのか、更に悲鳴が上がる。


 やがて、その巨大な竜頭が中央の船の甲板に乗り上げるような形で固定される。そこに、いくつものライフルが火を噴き、船乗りたちが手に取ったサーベルがいくつも表皮に傷をつける。


 折角なので彼らにとどめを刺したつもりを贈ろうと、サンは魔法を準備する。


 「『我は水龍。うたうもの。我は世界に轟かせん、我のうたを響かせん。鮮烈にして、劇的にして、完全にして、美麗にして、偉大にして、高貴にして、聖性にして、無欠にして、栄光にして、泡沫にして、朧気にして、慈悲にして、断罪にして、救済にして、終末にして、黎明にして、終局なりし。いざや聞け、大地よ叫びを記憶せよ。』」


海の水が四方からサンの手元に集まり、鮮烈な光を放ちながら圧縮されていく。それが呼吸三つほどの間続く。手元の光は強烈な光を放ちながらさらに収縮していき――。


「『――“水龍の息吹”』」


放たれる。それは“水”の線。ピィーーッ!と甲高い音を立てながら、光もかくやとばかりの速度で真っすぐに走り、“接吻魔”の一つ目を貫いた。さらに横に振りぬかれ、“接吻魔”の竜頭に見事な一文字を刻んだ。


 「今です!追撃を!」


その意図は周囲の船乗りたちにもよく伝わったらしい。それぞれが手に持った武器でサンの刻んだ傷めがけて、一斉に追撃を開始する。


 ライフルの銃口を傷にねじこんで発砲する者、サーベルや銛を傷口に突き刺す者。


 “接吻魔”が叫びをあげる。それは誰の耳にもはっきりと悲鳴だと分かった。




 やがて――。“接吻魔”の声が急速に弱まり始める。苦し気に途切れ、ついには声を発しなくなった。


 気づけば、海は随分と静かになっていた。


 目の前の魔物は、いつしか息絶えていた。







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