86 崇高な志
ばふっ!
イキシアが勢いよくベッドに倒れ込む。
「おぉー……。」
そのまま布団に沈み込んでいき、動かなくなる。
「寝る……。寝てしまう……。」
「起きて下さい、イキシアさん。」
「この力には抗えん……。あぁ……。」
サンはイキシアに近づきその身体を引っ張って起こそうとする。
「ほらっ。……もうっ……。起きて、くださいっ……。」
イキシアに体重で負けていることもあり、思うように起こせない。そもそも、サンの純粋な筋力は全く非力と言って良いくらいである。元が非力なエルザの肉体だけに中々筋力がつかないのだ。
「あぁー……。やめろぉー……。私は寝るんだー……。」
「ダメですってっ……。うーっ……!」
「よっ。」
「わあっ!?」
イキシアに逆に引っ張られ、サンもベッドに倒れ込む。
柔らかなベッドの心地よさを全身に叩きつけられる。今、サンの理性がふかふかに包まれて殺されようとしている。
だがサンも流石というべきか、鉄の如き意志でその誘惑をはねのけた。そして己の身体をベッドから引き剥がそうとし――。
「くらえ!」
「えっ、ちょっと、ふふっ。あははっ、や、だめ、ふふっ!待って、あはっ、うふふっ。」
イキシアがサンの身体を全力でくすぐる。生まれて以来他人とじゃれあう機会がほぼ無く、くすぐられたことなど無いサンにそれは凄まじい効果を発揮する。
「あははははっ!だ、だめっ。ふふふふっ!あははっ、やだ、待って、あはははっ!」
「ふふふ。私の秘技を味わって生きていた者はいない。」
「やぁだ!あははっ!もう!うふふふっ、ちょっと、あはっ。いい、加減に、えい!」
「ぐおぉっ!」
それは肘。的確にイキシアのみぞおちを穿ったサンの肘は問答無用でイキシアの行動を停止させる。
その隙にベッドから抜け出し、イキシアを睨む。
「はーっ……。はぁーっ……。」
「おぉ……。ま、参った……。」
「参った、じゃないです……。もうっ……。」
ぐしゃぐしゃになった髪を手で整える。
ガエスから聞いた話のせいでちょっとイキシアの評価というか見る目を変えていたサンだったが、この一件でその評価は地に落ちた。
くすぐられる。笑わされる。
何という屈辱であろうか。あと普通に苦しい。
「この間に人が訪ねてきたら――。」
コンコン。部屋のドアがノックされる。
「ほ、ほら!誰か来ました。起きて下さい!ちゃんとして!」
「しょうがない。」
そんなやりとりの果てに開かれたドアの向こうには一人の若い男が居た。
男は素早くサンの全身を眺めると、深々とお辞儀をしてくる。
「初めまして。自分はマーレイスと言います。とある結社の長をしております。」
「えぇ、初めまして。どうぞ、中へ。今お茶を淹れましょう。」
「ありがとうございます。少し、ご馳走になります。」
部屋の中、テーブルとソファのセットにマーレイスを案内し、サンはお茶を淹れてからマーレイスの向かいに座る。その傍らには、イキシアが立つ。
「さて、マーレイスさんは先に訪ねた学園内の政治結社のリーダーでよろしいのでしょうか?」
「はい。学園内で収めるつもりはありませんが、その通りです。」
「そんなに固くならず。どうぞ、お茶でも召し上がってください。」
「お気遣い感謝します。しかし、単に性分ですので。……では、頂きます。」
マーレイスはカップを鼻先まで持ってくると、軽く揺らして香りに集中する。それから一口含み、味わう。それからカップをテーブルに置く。
その所作は一つ一つが洗練されて美しく、見る相手を決して不愉快にすることは無いであろう。
「……美味しい。素晴らしいお茶ですね。」
「ありがとうございます。淹れた甲斐もあります。」
「と言うと、貴女が?」
「えぇ。こう見えて、お茶を淹れるのはささやかな特技なのです。」
「なるほど。確かに見事なお点前です。手ずからなど、実に恐縮です。」
「いいえ。……さて、本題に入りましょうか。私の下を訪ねていらしたという事は?」
マーレイスは僅かに目つきを鋭くさせると、深く頷いた。
「はい。ご協力の話、お窺いしたく。」
「私の主様、今はいらっしゃいませんが、その方は大変なお力をお持ちの方です。その主様が、あなた方に協力をしたいと。具体的には、資金の支援になるでしょうか。」
「なるほど。大変ありがたいお話です。しかし、そのような支援を頂けたとしても、御礼が出来るとは思いません。何せ、今はまだ学生の集まりですから。」
「……ふむ。そうですね、今、主様がお困りになられていることがあります。もしその解決をお手伝い頂ければ、それのお礼として支援させて頂く。如何でしょう。」
「……さて、自分共に何か手伝えるようなことがあるとは思えないのですが。」
サンは安心させるようににっこりと笑いかける。だが、それを見たマーレイスの眼光は鋭さを増し、僅かな緊張感を漂わせる。
あれ?と思いながら口を開く。
「“接吻魔”。アレを退治します。」
「それは。……船を出せ、と?」
「お話が早くて助かります。そう、船が無くて困っているのです。船自体の入手は出来たとしても、漕ぎ出してくれる人手が無い。“接吻魔”を呼び出すためには、どうしても船が必要ですから。」
「文字通り、“命懸け”になりますね。」
「いいえ。命など懸けて頂かなくて結構ですよ。」
「と言うと?」
「主様はとても強力な魔法使いなのです。一口に信用することは難しいかもしれませんが、“接吻魔”が現れさえすれば船に被害は僅かほども出ません。私が欲しているのは、ただ船を出すこと。そして、そのまま帰ることです。」
「かの魔物はガリア軍の船団を殲滅せしめた化け物。確かに、なかなか信用するのは難しいお話です。しかし……。なるほど。」
マーレイスは一度口の中で言葉を吟味するように転がすと、改めて口を開いた。
「自分共の活動に興味を、というのは方便でしょう。船を出すための方法を求めており、たまたま使えるかと思われた。学生のやんちゃな集団なら操りやすいか、と考えそれほど期待している訳でも無い。」
「……ふむ。」
「それが不愉快な訳ではありません。むしろ、これは自分にとってチャンスですから。
……一つ、条件を。頂ける支援についてですが。――名声を。」
「名声、ですか。」
「はい。かの”接吻魔“を退治したという名声を。」
「誰も信用しないでしょう。」
「あくまで、助力したという立場で結構。流浪の魔法使いに助力し、勇敢にも船を出して戦いを支援した。それだけで結構。」
「ほう。それで何を得るつもりですか。」
「……そもそも、自分共の政治結社は生まれたばかりの雛。雛を育てるためには餌が必要です。それは資金、人、そして名声です。自分たちという存在を大衆に知らしめる。信じられなくとも、あるいは知名度を得るだけで十分な利益になり得ます。」
「宣伝、ですか。」
「えぇ。人の心を掴む結社にとって、宣伝は命。それが好意的な物であればなおさら結構。後は自分の仕事です。」
「……あなた方に興味が湧きました。あの結社について、教えて頂けませんか。」
マーレイスはニヤッと笑う。
「もちろんです。いくらでも、お話致しましょう。」
その顔には、”目論見通り“と書いてあった。
「ガリアの政治は腐っている。既得権益、賄賂、汚職……。例を挙げればきりが無い。それを正す。それが根本の目的です。
……と言っても、それは簡単な事では無い。この腐った政治で恩恵を受けている者は多数いる。彼らは皆一様に自分たちの利益を守ろうとするでしょう。権力と財力を併せ持つ怪物たちの首を落としていかねばならない。我々が命を落とすことも十分に考えられます。
しかし、それは戦わぬ理由にはならないのです。
我々はより良きこの国の未来のため、この首と魂を差し出す。今この国で苦しむ無数の民のため、この全生涯を懸けましょう。“接吻魔”を倒すため、船を出すことをどうして恐れましょうか。
自分が恐れるのは死ぬことでは無い。この志が果たされぬこと。国の未来が死んでいくこと。
血を流そう。腕を差し出そう。首を差し出そう。魂を差し出そう!
いと高き天秤にこの全てを乗せてこそ、この国の未来を救えよう!
……これは誇りです。ガリアの民として生を受け、ガリアの血の一滴として生きた一人の矮小な人間の尊大な誇りです。
そして欲望です。この私の抱いた、全魂をもって抱いた大望です。全てはこのガリアのため。全てはガリアに住まう人々のため。私は何としても、苦しむ同胞を見捨てられない!その血が乾いた砂漠に消えていくのを見ていられない!
ゆえに!私は決断する!
この地に平和革命を!血の流れぬ愛ゆえの革命を!
ガリアの血を救う。我ら誇り高きガリアの民が、今一度世界にその冠を輝かせるとき!
世界に刻み込もう!我らガリアの偉大なるを!我らガリアの栄光なるを!全ての民と民が幸福を享受し、愛と共に生きて笑い、いつか永遠のときまでを輝き尽くそう!
そのために必要なのは何か。教えよう。愛と誇りである!
私が示そう。この国の民の輝けるときを!!そこへ至る果てしなき道筋を!!
ガリアの民に、栄光あれかし!!!」
その”演説“からサンが受けた熱量を何と表現すればいいのだろうか。
サンはガリアの民では無い。ガリアに大した興味も無い。ただ、目的の為の通過地点でしか無い。
それなのに、その熱量はサンの魂を揺さぶる。マーレイスの瞳は何かしらの魔性の如き輝きを灯し、サンの瞳を睨みつけていた。その魔性はサンを飲み込もうとする。
だが、サンはそれを振り払う。彼女は贄の王の従者。それ以外のありようは決して存在させないゆえに。
――危険だ。
サンがマーレイスに抱いた思いはそれだった。上手く言葉には言い表せないが、この男には何かしらの魔性の如き力がある。
それは、ガリアを飲み込みうるのかもしれない。




