40 飢餓の村
サンが馬に揺られてしばらく行けば、やがて一つの村に出る。
緩やかな斜面を下る道、それを挟むように並ぶ石の家々。真夏の明るい陽射しのもと、時折吹く涼やかな風に揺れる木々と野花。風には土と家畜の匂いが混じり、どこからか聞こえてくる鳥の声。ありふれた農村の牧歌的な光景は、きっと平時であれば旅人の心を和ませたに違いない。
だが、今は。村中に漂う陰鬱な空気と痩せた人々、飢えて泣くことを忘れた子供たち。聞こえてくる男の怒号と女たちのヒステリックな金切り声――。
画家がこの村を見れば、きっと暗い色で塗るだろう。重苦しい空気に通りがかっただけのサンまで不愉快な気分になってくる。
道沿いの家の一つ、二つから女が飛び出てきてサンに向かって走ってくる。その恰好はみすぼらしく、その肌はくすみきって酷く醜く見える。
その女たちはサンの馬の行く手を遮るように跪き、次々に食べ物を恵んでくれと騒ぎ出す。背中に括った荷物に手を伸ばす者がいないか警戒しつつ、サンは退くように言うが女たちはきいきいとお恵みを、と繰り返す。
「退いてください。あなた方に分け与える物は何もありません」
「どうかお恵みを! もう何日も食べてないんです!」
「どうかお願いします! 子供がいるんです! このままでは死んでしまう!」
「お願いします、お願いします。お恵みを、お恵みを」
「旅人さま! ほんのちょっとでいいんです! パンのひとかけら、麦の一束でいいんです! どうか、どうか!」
まるで聞く耳を持たないそれらの合唱にサンは不愉快さを堪える。神託者の情報を求めているのだが、これでは交渉も何も無い。金銭は主から無尽蔵に頂けるが、乞食にくれてやるようなものでは無い。サンは弱さを盾にする者たちが昔から嫌いであった。
剣を抜きはらって追い払おうか、と考えるうちに、騒ぎを聞きつけて村人が集まってくる。中には合唱に加わる者も、ぎらついた目でサンの荷物を見る者もおり、下手をすると一気に襲われかねないとサンは警戒する。一度、力の差を見せつけて意志を挫いておく必要が――。
「うわぁぁぁーーーーっ!!!!」
突如、集まる村人の背後から男の悲鳴が響き渡る。その悲鳴にのった恐怖の色の濃さに、乞食女の合唱すら止まって、全ての者が声の方を見た。
そこにいたのは恐怖で腰でも抜かしたか、もんどりうって転がる男。それは、先の道でサンに襲い掛かってきた野盗の逃げ延びた一人であった。
男は何とか立ち上がると甲高い悲鳴をあげながらどこかへ走りさろうとする。そうはさせまい、とサンは”土“の魔法を編み上げる。走り去ろうとする男の足元が唐突に崩れて凹む。気づくも遅く、男は思い切り躓いてしまい、その場で転がり倒れる。
「止まりなさい!」
サンが声を上げて制止する。不気味な静寂の中、よく響いたその声は男の耳に届く。男は不自然な姿勢で硬直すると、ゆっくりとサンの方に振り返る。
その顔は恐怖で一色に染まっており、サンの冷徹な目に何を見たか、逃げられないと悟ったらしい。その場で尻をついて命乞いを始めるさまで、周囲の村人にも恐怖と混乱が少しずつ伝染し始める。村人たちのサンを見る目は段々と恐れに変わっていく。
「危害を加えるつもりはありません。しかしあなた方の声を聞くつもりも無い。まずは、黙りなさい」
男に向かって突き出しているサンの右手。その手が不意に炎を纏う。村人たちが恐怖と驚きのどよめきを上げる。しかしサンの言葉が耳に入っていたか、騒ぎ出せるものはいなかった。ひとえに、恐怖ゆえに。
誰かが呟く。――魔法使いだ、と。
サンはそれに答えるように口を開く。
「えぇ。私は魔法使いです。ですので、私に危害を加えようとするなら容赦はしないと思って下さい」
静寂の中、響くのは鳥の囀り。この場はいまや完全にサンの支配下にあり、その脅威から走って逃げだそうとする者は一人もいなかった。
「まずは、答えなさい。そこの男はこの村のものですか?」
静寂。
サンは適当な人間を指さすと答えるように言う。指さされた男が、何度も頷いてそうだ、と答える。
「その男は先ほど私に襲い掛かり、逃げ延びたものです。繰り返すつもりならば、どうなるかよく分かっているでしょう」
「しない! しない! あんたが魔法使いだなんて知らなかった! ぜ、絶対にしない!」
「いいでしょう。……他の者も、聞きなさい。私は力ある魔法使いです。同時に、優しい人間でもあります……。私の質問に答えるならば、あなた方には何もせず村を去ります。その男が私に襲い掛かってきたことも、許しましょう。分かりましたね?」
「わ、わかった。なんでもこたえる!」
「魔法使いさま! その者をお許しください! この村を救おうと――」
「黙りなさい。私には、関係の無いことです。聞かれたことにだけ、答えるのです。――まずは、この夏にこの村を通り過ぎたものはどれほどいますか」
村人たちは近い者と顔を合わせてひそひそと何事か相談し合う。それが自分を出し抜く相談で無いか、サンは注意深く辺りを警戒する。
「た、たくさんです。ここは大きな街道だから、色んな人が通ります」
「では、最近のことです。私のように一人で旅をしていた者はいますか」
「あぁ、ちょうど少し前に居た。あんたくらいの歳の男で、一人だった」
「それはどれほど前のことです」
「ほんとに、少し前だ。昨日の、もう少し昨日くらいだ」
「……ふむ。では、ここ最近にこの道を通ったものはどれほどいますか」
「その男以外は、軍隊だけだ。そいつらが、俺らの食い物を全部持ってって……」
「その男一人。確かですね?」
「あぁ、間違いない。この辺りは大きな戦争をやってて、今は人なんて通らないんだ」
「……そうですか。分かりました。――質問は終わりです。道を開けなさい!」
サンがそう言うと、道の前に居た者達が慌てて端に避ける。サンは警戒したまま、馬を敢えてゆっくりと歩かせていく。
村人の集団を越え終わったところで馬を止めて振り返る。
「軍隊というのは、その男よりも前に来たのですか」
「そうだ、それで、その男は少ない食べ物を分けてくれたんだが、全然足りないんだ」
「軍の徴発ですか……」
サンは懐からぽいと金貨を放り投げる。それはファーテル王国が発行する通貨で最も高価な金貨だった。
再びどよめく村人たちに向かって、サンは言う。
「質問の礼です。食べ物はありませんが、それでどこかから買えば良いでしょう……。では」
今度こそサンは馬を歩かせ、二度と村の方には振り返らなかった。
途中、サンは自分で疑問に思う。何故彼らに施しを与える気になったのか、自分でもよく分からなかったのだ。サンとしては最後の瞬間まで、彼らを見放すつもりでしかなかった筈なのだが。
贄の王は金銭を無尽蔵に作り出せる。つまり、サンが金銭を手にするためには主の手を煩わせる必要がある。
必要なことならば、主も嫌な顔はしないだろう。しかし、不必要なことならどうか。あるいはそれでも主は気にしないかもしれないが、サンとしては主に申し訳が立たない。ただ運が悪かっただけの村人たちにくれてやっていいような安いお金では無いのだ。
それでもサンは金貨を投げていた。そして、彼らへの不愉快さは消えないのに、後悔は欠片も無いのだ。それがサンには不思議だった。