3 時を忘れた城で
何気なく、鏡が少女の目に入る。そこで違和感を抱き……、暫し考えて気づく。
少女は鏡に映っているのが“自分でない”ことに気がついたのだ。
鏡に駆け寄る。美しい金の髪と空色の瞳に白い肌、そしてその顔は、よく見慣れた『彼女』……。あのおぞましい儀式で贄として捧げられた親友のものだった。
少女は混乱する。自分は?誰だ?私は、『 』ではないのか?それとも『 』?ならこの記憶は……?
最も少女を混乱させるのは、それが“自分の顔”だと認識してもいる自分がいることだ
。少女の不確かな自己認識が加速して不確かさを増す。思い出せないのだ、『自分』の名前も、『彼女』の名前も。自分、自分とは……?
思考にノイズが走る。――違う、違う。考えては、いけないことだ。
そこで、少女の思考は切り替わる。自分の姿と記憶が一致していない、のではない。姿と記憶の一致していないナニカが自分なのだ、と。
自分の顔として真っ先に思い浮かぶのは?『自分』の顔だ。唯一の親友の顔は?『彼女』の顔だ。今、鏡に映っている顔でもある。恐れることはない。自分は一度死んだ筈なのだ。死んだ筈の自分がここにいることさえ不可思議だ、姿かたちが彼女のものになっているだけだ。たった一人の、家族だ。
そう思えば、自然に心は落ち着きを取り戻し始める。これが赤の他人であればこうはいかなかったかもしれない。彼女の顔は間違いなく人生で二番目に多く見ている顔だ。大切な友の姿なら、大切にしなければ。
――ひとつ残念なことがあるとすれば……。
「……私、結構自分の顔気に入っていたんだけどな」
そう言って、記憶の中にある茶色の瞳を脳裏に描いた。『自分』のもののはずだった、その瞳を。
自分とは一体ナニか?という極めて哲学的ながら現在極めて実際的な問題を少女は捨て置くことにした。世の中は人の頭脳にはあまりに余るほど複雑で、見通せないものなのだ。
直感的に解き明かせないと思った問題を頭の片隅に追いやるのは少女の以前からの癖でもあった。思考の癖にあまり変化が無い事にわずかな安堵を覚える。その頭脳は一度拳銃で吹き飛んだはずなのだが、その記憶も今となれば怪しいものになってしまった。
あとで贄の王にこのことも話さねばなるまい、とだけ決めて少女は周囲に気を向けることにした。
寝かされていた部屋の中を見て思う。まるで、お姫様の部屋みたいだ、と。
広い部屋にある調度品はいずれも格の高さをうかがわせ、出たばかりのベッドも豪奢で眠るものの身分を証明するようだった。付け足すのであれば、その全てが今よりもっと古い時代のものらしいことか。
先ほど男が出て行った方が部屋の外であれば、もう一つあるドアの先は、と開けてみれば、どうやら浴室であるらしい。
広い脱衣場は大きな鏡が張られ、衝立がある。その向こうはタイル張りの空間になっており、中央に浴槽が置かれている。汚れや塵も無いが、やはり古ぼけた空気が漂っており使われていたのは遥か過去のようである。
寝室に戻って男が出て行ったドアを開ければ、そこは居間になっていた。テーブル、革張りのソファ、空の暖炉、敷き詰められたカーペット、茶器の飾られた棚……。
埃もほとんどなく掃除の行き届いた部屋と漂う澱んだ空気が非対称さを作るのか、少女は博物館でも見ているような気分になっていた。
居間には出てきたドアを除いてさらに二つのドアがあり、ラグの敷かれている方といない方。少女はラグの敷かれた方が今度こそ廊下だと当たりをつけ、もう一方を覗いてみる。
そこは給湯室とでも言えばよいのか、あまり大きくない石かまどの台所。こちらは使用人の空間らしく、豪奢な調度品は置かれていない。戸棚が多いが狭苦しくはなく、窓からは十分な光が入ってくる。
居間に戻って最後のドアを開ければやはり廊下で、灯りもない暗がりが続いていた。
探検を終えた少女は寝室に戻ると、寒さに気づく。『彼女』が最期に来ていたらしい服はそれほど暖かなものでは無く、雪の積もる地には向いていない。
少女は寝室の巨大なクローゼットを漁る。出てくるのは丁寧にしまわれた古めかしいドレスばかりで、一人で着るには難しい。ならば、と台所の方の戸棚をいくつか開けてみれば、数着の使用人服を見つけた。
大きさの合うものを一式身にまとえば、先ほどの衣装よりは大分暖かい。折角なので不要な飾りもきちんと身に着け、鏡に身を映せば立派な使用人のさまである。顔かたちの持ち主は仕えられる側だったので『彼女』をよく知る少女からすると不思議とおかしい。ささやかな笑みをこぼすと、城内の探索へ乗り出すことにした。
台所の戸棚から見つけた火つけの道具は使えなくも無かった。廊下の壁に取り付けられた燭台を半ば無理やりに外して暗い廊下の頼りにすると、少女は廊下を歩きだす。
先ほどのお姫様の部屋は廊下の端にあったようで、進む方向には悩ませてくれなかった。通り過ぎるドアの中は衣類部屋や茶室、使用人の控える部屋など、この区画自体がお姫様のための私的な区画になっているらしい。あの寝室に仕舞われたドレスなどからの予想だったが、どうやら正しくこの城のお姫様の寝室で当たっていたようだ、などと考えれば色々と思考も進む。
魔境についての情報はほとんど伝わっていない、少なくとも少女の記憶ではそうだ。遥か遠い地であり、魔物の跋扈する恐ろしき場所であり、悪魔【贄の王】の支配する領域である、とそれぐらいか。
推測するに、元々は人の支配する領域だったのだろう。男は「廃都リデア」と口にした。窓の外に広がる廃墟はリデアという名の都市だったのだろう。そしてこの城は都市を支配した者たちの暮らしたもの。
かつて繁栄を極めたらしき都市に何かが――恐らくは【贄の王】にまつわる何かが――起こり、そこに暮らした人々は姿を消したのだ。
城内の調度品や城そのもの、広がる廃墟は明らかに故国なら歴史的遺産とされる類のもので、現代に息づくものではない。少女に考古学の知識は無かったが、その道の人間なら狂喜するようなもの。
そして、もう一つ疑問が浮かぶ。――なぜ、この城はこんなにも奇麗なのか。
ここが人の領域だったのは少なく見積もっても数百年前。漂う空気こそ古びているが、城そのものは驚くほど奇麗だ。火付けの道具が使えたのもそうだ、外の廃墟のように崩れていなければおかしいのではないか。
この城はどうも石造りの内側に木材を使っているようで、歩く床は木製だ。廊下こそ壁は石がむき出しだが、室内は壁も木製になっていた。ところが石は埃こそ積もっていてもひび一つないし、木の部分には虫食いもない。
城には何かしらの魔法が使われていると思われるが、魔法に少しの知識があるからこそ理解が及ばないのだ。少女の知る魔法ではこんな城を当時のまま保存することなど理解の外なのだ。やはり、魔境だけあって超常の力でも使われているのか…。
と、そこで光を感じる。
位置が壁沿いになったらしく、窓が多く据え付けられた廊下に出ていた。廊下の雰囲気も何となく変わったことから、お姫様の区画から出たのかもしれない。せっかくのお城ならば、と少女はいわゆる謁見の間を探してみようと思い立つ。のだが、それはあっさりと見つかった。
このあたりは高貴なものたちの住まう領域であったらしく、防犯のためか最終的に出口は階段一つしかなかったのだ。その階段を下りればいかにもといった風の大きな廊下に出てしまい、自然に見つかった巨大な扉をやや苦労しながら開けてみれば、予想通りの広大な部屋が――。
瞬間、身体中の皮膚が粟立つ。
魂を直接鷲掴みにされるような衝撃。胸の奥がぎゅうっと縮こまり、無意識の内に両手が強く握られる。
中から吹いたいやに冷たく乾いた風が首をなぞる。
計算され尽くしただろう採光豊かな広間。赤いカーペットがまっすぐに伸びていき、黒い石がむき出しの床を切り裂いている。その先、薄い階段で高く上げられたその中央。
黒く、黒く、深い闇があった。この世のものではあり得ないおぞましさ。同時に、あまりに蠱惑的なナニカが自分の魂と瞳を闇へ引き付ける。少女は言う事の聞かない身体に閉じ込められた小さな思考で直感する。触れてはならぬ物だと。あれは、“良き”の対極に位置するものだと。
気づけば震える足はゆっくりと闇に向かって歩みを進めており、止めることは出来ない。一歩一歩、沈むような上質なカーペットを靴の裏に感じながら、少女は――。
ばちん!
がくりと膝が抜け、その場に座り込む。気味悪く強張った全身が解放され、ぶわりと汗が噴き出す。魂の底からの震えに身をすくませる頃には、自分が助かったらしいことを自覚する。
「人の身には、過ぎたるものだ」
声に気づけば正面、闇――に見えていたモノ――のすぐ隣には先ほどの男が立ってこちらを見つめていた。どうやら入ってきたところから見られていたらしい。
「これは【贄の王座】。私は自分を魔境の主だと言ったが……正確には、この王座こそが主と言うべきだろう」
「……。」
少女はまだ声が出ない。開けた口から出てきたものは震える頼りなげな吐息だけだった。
「贄の王など王座に選ばれただけの存在にすぎない……。この城も、魔境も、私も。全てはこの王座のためのもの」
「……【贄の王座】……?」
闇と見えていたそれは漆黒の玉座だった。大きく、意匠は美しく複雑で、一見すれば見事な芸術品に見える。
「そうだ。世の人々が贄など捧げねばならないのはこれのためだ。【贄の王の呪い】とは私がかけているのではない、この王座がかけているのだ。おそらく、お前をここに導いたのもこれだろうな」
贄の王が王座の隣から少女を見下ろす。少女は座り込んだままそれを見上げる。
「私の力でお前を王座から切り離した。そのままでもどうなるか興味は無いでも無かったが……、良い事にはならなかっただろうな」
「……さっきのアレは、何だったのでしょうか……?」
贄の王は少女の傍まで歩み寄りながら答える。
「私にも予想だけだが、【贄の王座】は魂を喰らう。世界より贄を喰らうように。お前も贄にされかけたというところだろうな」
「……贄……」
「さて、立てるか」
少女は震えながらも何とか立ち上がろうとし、バランスを崩して贄の王に支えられる。
「……ありがとうございます。ですが、何とか……」
少女はややふらつきながらも両の足で立つ。
「大丈夫そうです」
贄の王は少女の背中を支えながらゆっくりと外に向かって歩くよう促す。
「これ以上は問題無いと思うが、離れた方が良いだろう」
「そう致します。ありがとうございます」
二人はゆっくりと広間を後にする。途中、少女は後ろを振り返ってみる。
明るい広間を越えた向こうには【贄の王座】が光を浴びて鈍く輝いていた。まるで見つめられているような気がして、少女はまた前を向いた。