288 うつろわぬ時の狭間
穏やかな日々が続いた。
恐ろしいことも、心乱れることも、苦しいことも、何一つない。
静かで、ゆるやかで、幸福な毎日。永遠のように、瞬きのように、過ぎてゆく日々。
そしてそんな時の中で、何でもない朝にふと贄の王が言った。
「サン。今日の、日暮れ頃になるだろう」
主語の欠けた言葉に、何がとも聞かずサンは頷いた。
「分かりました、主様」
部屋に差し込む、虚ろげな魔境の朝日。
弱々しくて、儚くて、それなのに美しい奇妙な光の煌めきに、サンはそっと手をかざす。
にじむように、おぼつかないコントラスト。不確かな光と闇の、境界すら無い触れ合いの様。サンはそこに己を見いだせる気がして、目を細めた。
待つは別れかそれとも未来か。
振るは呪いか祝福か。
この忠誠と愛の行く末を、きっと神だけが知っている。
きっと、神だけが――。
今日という日を、特別な日にはしたくない。
いつか振り返った時に、当たり前に過ぎ去った普通の一日だったと思いたいのだ。
だから、何ら特別な事はしないと決めた。普通の一日を、普通に過ごす。それでいいのだ。
まずは、自分の部屋の掃除。毎朝の日課にしているので、酷く汚れているような事はない。掃除というのは溜めないことがコツなのだ。
そういえばかつて初めてこの部屋でしたのも掃除だったなと思い出す。当時は長く放置されてホコリが積もっていた。
なんでも、この部屋はずっとずっと昔に生きたお姫様の部屋らしい。神に身を捧げたと記されるそのお姫様は若くして亡くなってしまい、悼んだ父王がこの部屋をずっと保存させたのだとか。
とても愛された人だったのだろう。サンが自室と定めた時、年月のホコリを除けばとてもきれいな状態だった。
いつも通り簡単に掃除を終わらせると、広い部屋を一度見まわす。当初と比べるといくらか物が増えた。思い出深い物ばかりだ。本や服が多いだろうか。本など収納ごと増えているし、古めかしいドレスしかなかったクローゼットも今やサンの服だけになっている。
色々なことがあった。ここも大切な場所だ。
サンは何となく感慨深くなって、部屋に向けて一礼した。
感謝を込めた、小さいけれど丁寧な礼だ。
そしてくるりと振り返り、部屋の外へと去っていく。
ドアの閉まる音は、やけに静かだった。
サンは贄の王の居室を訪れる。同じく日課となっている主の散らかしを片付けようと思ったのだ。贄の王の部屋はすぐ足の踏み場もなくなるので、毎日片づけをする必要がある。
そのはずだったのだが――。
「……あれ?」
今朝は少しも汚れていなかった。珍しい事もあるものだと思いつつ、寝室に続くドアを叩く。
「主様、おはようございます。起きておられますか?」
既に一度起こし朝食も済ませた後だが、贄の王はよく二度寝する。朝に弱いのだ。
だが今回は起きていたようで、叩いたドアが独りでに開いてサンを招き入れる。内から贄の王が魔法で開けてくれたのだ。
失礼します、と言いつつ中へ入れば、窓の外を眺めている贄の王が目に入る。ついでに寝室の方も、今日は片付いたままだ。
「起きていらしたのですね。お部屋の片づけにと思ったのですが」
「あぁ。今日は不要だ」
「そうですね……。見る限り、散らかってもいませんし」
主様にしては珍しい、と笑いながらからかう。すると贄の王は苦笑いを頬に浮かべた。
「お前に手間を賭けさせるばかりというのもどうかと思ってな」
贄の王なりの気遣いで、わざわざ綺麗にしておいてくれたらしい。
「構いませんのに。でも、お気遣いありがとうございます」
「今日くらいはな。なるべく自由にさせてやりたい」
サンが“普通”の一日を望んだ一方で、贄の王は“特別”な一日を望んだのかもしれない。そしてなるほど、どうやら贄の王はサンの事を優先してくれているようだ。
贄の王に使え、身の回りの事を世話する事はサンの喜びである。いつも好きでやっている事だ。
だが贄の王の心遣いは素直に嬉しい。礼を述べて受け取っておく事にした。
「主様は、今は何を?」
魔境の風景に変わりなどないと思うが、何を眺めていたのだろう。贄の王の隣まで来ると、先ほどまで主がしていたように外を見やる。
見えるのは廃墟の街、雪原、空。晴れ晴れと表現するには青がくすみ汚れているが、一応雲の無い晴天である。
「何を、という程の事は無いが……。街の跡を見てな。いつかこの地が、かつてのように栄えることはあるのだろうかと考えていた」
それはサンの考えた事も無いような話だった。
ここは忌み嫌われる死の大地。もう一度人が、なんて。
「そう、ですね……」
サンも考えてみる。
まず、絶対に必要なのは魔物と呪いが除かれることだ。
呪いに関しては贄捧げという手段がある。サンは歓迎しないが、呪いの方は何とかなるかもしれない。
魔物の方は、どうすればいいだろう。魔境には何千何万という数の魔物がいる。かつてサンが目にしてきた魔物たちは、どれも一体で人の都市を破壊し尽くせるものばかりだった。
魔物の強さに幅があるとはいえ、それでもあれらのような存在を何百と倒さねばならないとしたら。それこそ百年かけても可能か分からない。
加えて、魔物は増えるはずだ。この地の呪いを祓う為には贄捧げが必要だが、それは同時に魔物を生み出す行為でもあるからだ。
やはり【贄の王の呪い】があり続ける限り、魔境の再興は難しいのではないか。恒久的に呪いが除かれるような事でもあれば――。
はた、と気づく。
【贄の王の呪い】と呼ばれるものの正体は、大地の底に封じられた【大いなる邪悪】から湧き出でる闇だという。ではもし、その【大いなる邪悪】が討ち滅ぼされたとしたら、どうか。呪いも自然、同時に消滅するのではないか。そして【大いなる邪悪】との戦いに備えるが為にこそ、贄の王は死に行こうとしているのであって。
つまるところ――贄の王は自身の死を前提とした未来を空想している。
なんて残酷で、悲愴な話だろうか。サンは泣きたくなるような思いに囚われ、しかし微笑んだ。
そして口を開く。
「この地はある意味で私の故郷とも言えますし……。人が戻って栄えたなら嬉しい事だと思います。私と主様が生きている間にそうなってくれたら、とても素敵」
贄の王は何も言わない。
「その時は、この街で暮らしてみたいですね。主様と、もちろんヴィルも一緒に。普通の暮らしを、してみたい。とても楽しそうだと思いませんか、主様?」
贄の王は、何も言わない。
「……不慣れですから、大変な事もありそう。でも三人一緒なら、そんな事も幸せかもしれません。私、実はやってみたい事があるんです。もちろん主様にお仕えしながらですけど、その……。お花を売るお店とか、憧れがあって。よければ、えっと……主様も一緒に、なんて……」
贄の王は。
その、男は――。
「……あぁ。そんな暮らしも、悪くないかもしれんな」
そう言って、小さく笑った。
「――しかし花屋か。お前には似合いそうだが、私は随分と不格好になりそうだ」
「そ、そんな事はありません。お花を売る主様も、とっても素敵だと思います。絶対です」
「そうは思えんが……。だがまぁ、この寒い土地で花屋をやるとなると、流通の意識は必要だろう。ラヴェイラと伝手のある我々なら、案外有利かもしれん。面白味はありそうだ」
「なるほど……。そんな所までは考えてもいませんでした。……でも、ふふ。やっぱり楽しそうですね」
「どうせならばしっかりとやりたい。温室を用意して、交配なども試したいな。温暖な土地の花をこの土地に適応させられれば―ー」
「主様ったら、本当に研究がお好きですね。とっても楽しそうなお顔をされていますよ」
「性分だ、許せ。お前に迷惑は――いや。かけているか。かけているな……」
「迷惑だなんて。私はそんな風には思っていません。楽しそうな主様を見ているのも好きですから」
「……感謝せねばな、お前には」
「いいえ、主様」
「私の方こそ、本当に感謝しなくちゃいけないくらいですから」
そう口にするサンは笑っていた。
偽りなどない、心からの笑みだった。
二人は話をした。とても色々な話を。
過去を懐かしんだり、未来に心躍らせたり。
そこに、悲しい話は一つも無かった。
どこまでも、あらん限りの、楽しい話を。
今、二人に過去は無かった。未来もまた、無かった。
今だけが、ひたすらにあったのだ。
しかし、それでも時は過ぎて行く。
やがて黄昏時の近づく頃――。
「では、サン。行こうか」
贄の王が、そう言った。




