280 夕暮れの少女
それから、しばらく。
リデアと男の逃走劇は続き、完全に撒いた頃にはすっかり夕暮れ時になっていた。
二人は王都を囲む高い壁、それに感覚を空けて設けられている見張り塔の上に登ると、そこで一息つく事にした。
「――わぁー!」
見張り塔屋上の端から王都の外、まだ雪の残る平原に沈んでゆく夕陽を見て、リデアは感嘆の声を上げた。
「きれーい……」
空は暗い青から赤へのグラデーション。大きな大きな夕陽がゆらめきながら地平線に沈んでゆく。雪原が陽を反射して赤くきらきらと光を放っていた。
初めて見る光景では無いと思う。城にだって西向きの窓くらいあるからだ。
だと言うのに、こんなにも心動かされるのは何故だろう。一際美しいのはどうしてだろう。リデアは何かとても純粋な気持ちになって、夕陽を眺めていた。
「確かに美しいな。見事だ」
そう言ってリデアの傍らに立つのは、王都を跳び回ってここまでリデアを連れて来てくれた男だ。男の輝かしい金髪も夕陽を浴びて煌めいている。
考えてみれば不思議な男だ。たまたま出会っただけなのに、リデアの逃亡をずっと助けてくれた。見返りらしい物など何も求めてくる様子は無い。
聞いてみようかと思い、結局やめておいた。その代わり、お礼を言っておこう。
「ねぇ。……ありがとう」
男はちょっとだけ意外そうな顔をする。
「私ね、実は楽しかった。一緒に逃げてくれて、嬉しかった。……たぶん。たぶん、だよ」
リデアはどうしてか良く分からないけれど、とても幸せな気分だった。
ずっと忘れていた古い宝物に出会ったような気持ちだ。諦めていた懐かしい夢をもう一度思い出したような、そんな感慨。
ふと理解する。この夕暮れが、どうしてこんなに美しいのか。
何も無いからだ。今この瞬間、リデアには何も無い。王女としての責務も立場も無い。王族としての権威も無い。
今ここに立っているのは、どこまでもただのリデアだ。透明な窓も、黒い石壁も、リデアを守り捕らえるものはここには無い。
何にも縛られない解放感と、何にも守られない孤独感。――なるほど、これが自由か、と。リデアは深く知る。これまで城を抜け出しては自由を味わうフリをしてきたけれど、あんなものは本当にどこまでもおままごとに過ぎなかったのだ。
「……今なら」
傍らの男が口を開く。
「今なら、どこまででも行ける。今ならば、お前を連れて、永遠に自由になれる。何もかもを捨てて、ただ一人の人間になれる」
男がリデアに手を差し出してくる。
「お前が望むなら、連れ去ってやれる。――どうする」
リデアは男に向き直る。そして、その目を真っすぐに見つめた。
全てを見透かすような、超然とした男の瞳。きっと、戯れで言っているのではないのだ。
リデアがこの手を取れば、男は本当にリデアを連れ去ってくれるのだろう。リデアが、幼い頃に夢見たように。
しかし、リデアは静かに首を横に振った。
「ありがとう。でも、私はここでいい。私には、本当の自由なんて寂し過ぎるみたいだし、それに――」
リデアは黒い城を仰ぎ見る。あそこに帰れば、色々なものが待っているだろう。リデアは婚約者も出来て、ますます自由とは遠くなる。もっと窮屈になって、もっと息苦しくなるかもしれない。
でも。
「――私のこと、大切に思ってくれてる人がたくさんいるの。帰ってあげないと、寂しがらせちゃう」
リデアは笑った。本心からの、感謝の笑みだった。
ありがとう。一緒に逃げてくれて。
ありがとう。自由を見せてくれて。
ありがとう。古い夢を叶えてくれて。
リデアの想いが伝わったのか、男は静かに頷いて手を下げた。
「……そうか。それなら、いい」
男は少しだけ残念そうで、だけど満足そうだった。この男も、何かしらの答えを求めていたのかもしれない。
それからしばらく、二人は並んで夕陽を見ていた。
きっと、もうあっという間に沈んで見えなくなってしまうのだろう。すぐに夜が来て、真っ暗になってしまう。
でもいいのだ。目に焼き付いた光は、きっと色褪せる事はない。
ずっとずっと、消えはしない。
いつかリデアが世を去って、この夕陽を覚えている人が居なくなっても。それでも、この夕陽がここにあった事は消えたりしない。リデアの想いは失くならない。
誰も知らなくても、永遠にここに在り続けるだろう。
「想いは、久遠を超えるもの。ずーっと、ずーっと、ここにある――」
男はリデアを地上に下ろしてくれたあと、大きな通りまで送ってくれた。別れは実にあっさりしたもので、二人はお互いの名前すら教え合わなかった。何となく、またすぐに会える気がして、それで良いと思ったのだ。
城に帰ってから、リデアはひどく怒られた。今までにも抜け出したことは何度かあったけれど、日が暮れるまで帰らないというのは初めてだ。心配をかけた事だろう。
いつもならお説教の後は不貞腐れてしまうのだが、この夜は違った。お説教すらどこか嬉しくて、侍従たちを困惑させたくらいだ。
そしてこの日以来、リデアは少しだけ変わった。
それはとても些細だけれど、でも確かな変化だった。
お勉強を少しだけ頑張るようになったり、行儀作法を少しだけ意識するようになったり。それから、婚約者の事も受け入れた。相手は忙しいらしく未だ会ってはいなかったが、次に会う時が来てももう逃げ出すつもりは無かった。
あの夕暮れでリデアは決めたのだ。王女リデアとして生きてゆくのだと受け入れた。憧れ続けた自由を前にして、なお手を伸ばさなかったとき、リデアは選んだのだ。
だから、この窮屈な暮らしも、もう誰かに押し付けられたものではない。リデアが自分で選び掴んだものだ。自分で決めた事に文句を言うなんて、おかしな話ではないか。
立派にやろう、と思ったのだ。どうせやるなら立派で格好いいお姫様がいい。いきなり別人のようになれはしないけれど、少しずつ成長していきたい。そんな風に、思ったのだ。
そしてリデアがちょっとだけ変わって、数日が経った。
ようやくリデアの婚約者の予定が空いたという事で、今日は顔合わせの日だ。
リデアの兄でありこの国の第一王子でもあるその人は順当にいって次の王である。長らく王都を離れていた事もあって、それはそれは忙しいのだとか。
リデアも別に暇だった訳ではないが、今日からはもっと忙しく大変な日々になるだろう。今日の顔合わせを追えれば、リデアは正式に第一王子の将来の妃となる。それはつまり、次の王妃として扱われるようになるという事。教育はより厳しくなり、次期王妃としての役目や公務も出て来る。
とは言えまずは今日の顔合わせ、そしてすぐに開かれる婚約お披露目パーティだ。主役となるリデアの準備は非常に多い。正直疲れてしまうが、もう逃げたりはしないのだ。
自分の婚約者がどんな人物かは知らないが、余程の相手でなければ頑張って受け入れるつもりだ。……余程の相手だった時は、またその時考える。
とは言え侍従たちから伝わってくる噂は特に悪いものでもないし、そこまで悲観的になる事も無いだろうか。
ともかく、顔合わせである。
まずは第一王子の茶室で挨拶を交わし、それから昼食。茶室に戻ってお茶の時間を過ごす、というのが大まかな流れだ。せめて楽しい時間になる事を祈るばかりである。
朝からあれやこれやとおめかしさせられ、清楚なドレスを身に纏う。婚約の顔合わせとなれば、リデアに求められるのはいかにもな清廉さ。純真無垢で穢れを知らない乙女になる必要があるのだ。割とおてんばな自覚のあるリデアとしては、正直荷が重くて仕方の無い所なのだが。
準備を終えたら、頃合いを見ていざ出陣、である。侍従たちを連れて第一王子の茶室まで移動すると、侍従たちのやり取りの後に扉がリデアの為に開かれる。
リデアは緊張を吐き出すように深呼吸をすると、お腹にぐっと力を入れて茶室に踏み入った。
果たして――。
茶室には二人の男が居て、三つの席のうち二つを占めている。一番の上座に座っているのはリデアの父、つまり国王だ。
そしてもう一人こそが、状況から見てリデアの婚約者で間違いない。のだが。
太陽を思わせる、輝くような金の髪。心まで見通すような、超然とした青の瞳。それは明らかに見覚えのある特徴だった。
――と言うより、どう見ても先日リデアを連れて王都を逃げ回ってくれたあの男だった。
「へぇ……?」
頭の中でいくつもはてな(・・・)が飛び回って、リデアは変な声を漏らして固まった。
「――ほんと、ほんとー……に! びっくりしたんだから」
昼食も終えて、お茶の時間。リデアと例の男――リデアの婚約者にして第一王子その人であると判明した――は二人向かい合ってテーブルについていた。
国王はもう居ない。昼食までを共にして、後は当人たちでと言って去って行った。ここに居るのはリデアと男、それと少しの侍従だけだ。私的な空間になったという事で、リデアは先程まで使っていた敬語を止めて切り出したのだった。
「そうか。それは何よりだ」
男は涼しい顔でそう返してきた。それが面白くなくて、リデアは責めるように続ける。
「私がリデアだって気づいてたなら、教えてくれたって良かったでしょ」
「それではつまらないだろう」
出会った当初から男の方はリデアの正体に気づいていたらしい。どうしてあの場で教えてくれなかったのか、と非難すれば、返事がこれである。
「性格悪い」
「知っている」
第一王子帰還のパレードを外れてみたら当の本人と出会いました、なんてリデアに想像出来るはずがない。まさかこの男が自分の兄だったとは、リデアは僅かな可能性としてすら考えなかった。
「そもそも、何であんなところにいたの? パレードは?」
「私も抜け出していたんだ」
そんなバカな、と思うが実際そうだったのだろう。どうやら、自分たち兄妹は妙な所で似ているようだ。
「はぁーあ」
何だか気が抜けてしまって、リデアは深い溜息を吐いた。
これまで、リデアは自分の将来というものにあまり良い想像をしてこなかった。つまらない大人になって、つまらない王妃になって、そうして老いていくのだと思っていた。
しかし、今は――。
「……何だ。何を見ている?」
「いーえ。なんでもないですー」
――意外と悪くないのかも、なんて。そんな風に思い始めているのだった。




