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贄の王座と侍るもの  作者: 伊空 路地
第十章 愛が為に
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277 迷い惑いてなお歩くもの


 祈祷殿の中、動けずにいたシックに少女の声が掛けられる。


「どうされたんですか……?」


 この祈祷殿の巫女だと名乗ったダーニヤだ。


「すごく真剣に祈ってたのに、急に立ち上がって、何だか……」


 ダーニヤの言葉は尻すぼみに消えてしまって、何と言いたかったのかは分からない。分からないが、悲しそうとか苦しそうとか、そう言おうとしたのではないだろうか。


 シックは『何でも無い』と言おうとするが、上手く言葉が出ない。やけに四苦八苦しながら、ようやく短い単語だけ形にする。


「だい……じょうぶ」


 自分で言いながら、とても大丈夫には聞こえないなと自嘲する。酷く動揺している自覚があった。


「いったい、何があったのです?」


 案の定、ダーニヤの心配は解消されなかったらしい。不安そうにシックの顔を覗き込んでくる。


「わからない……」


 実際、自分でも分かっていなかった。今までにこんなことは無かったのだ。いつだって祈りは幸福で、心地よいものだったのに。こんな、穴が空いたような喪失感を覚えるなんて一度だって無かったのに。


 あんな、まるで神の愛を疑うような――。


「――ぅ……あ……っ?」


 突然、喉を締め付けられたように息が出来なくなる。苦しさに喘ぎ、立っていられなくて膝をつく。


「お、おちついて! ゆっくり、ゆっくり息をして……」


 慌てたようにダーニヤがシックの傍らに屈みこみ、背を撫でてくれる。


 シックは意識してゆっくりと呼吸しようとした。酸欠で目の前がチカチカして、自分が立っているのか座っているのかも分からなくなる。


 それでも必死に耐えていると、段々息が元通りになり始めた。つい大きく息をしようとしてしまって、ひどくむせる。


「大丈夫ですか……!?」


 ゆっくり、深く、息を吸って、それから吐く。


「あり、がとう……」


 少しずつ眩みも収まって、息も大分元通りになった。そう判断したシックはゆっくりと立ち上がる。


「あっ。だめです、急に立ったりしたら……」


「ううん、もう大丈夫……。ありがとう」


 まだ心配そうな顔をしているダーニヤにそれだけ言って、シックは祈祷殿の外に足を向ける。顔には出さないが、一刻も早くここから立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。


「じゃ、外にベンチがあります。そこで休みましょ? ね?」


 出て行こうとする意思を感じたのか、ダーニヤが提案してくれた。


 一人になりたいというのも本音だったが、ダーニヤの厚意を無碍にするのも気が退ける。シックは大人しく頷いて返した。


 急ぎたがる心を抑えつけて、祈祷殿の外に出る。入口の辺りは小さな公園のようになっていて、いくつかベンチが置かれている。そのうちの一つに座ると、背もたれに身を預けて空を見上げて深い息を吐いた。


 皮肉のように高い青空を眺めて精神を落ち着けようとしていると、隣にダーニヤが座って話しかけてくる。


「もう、落ち着きましたか?」


「うん……。平気だよ」


 やや返事が素っ気なくなってしまうが、ダーニヤは気にした様子も無い。


「じゃ、わたしの嬉しい話をしても良いですか? 気分を変えられるかもですし!」


 悪くないと思った。今は、違う事を考えたい気分だ。


「それじゃ、ですね。はじまりはじまり――」






 ダーニヤの話は簡単な身の上話から始まった。


 何でも彼女は幼い頃に両親を亡くし、この祈祷殿の教父に引き取られたのだと言う。悲しみに暮れていたダーニヤだったが、教父始め祈祷殿の皆に囲まれて徐々に明るさを取り戻していったとか。


 聖職者に囲まれ、自然に信心深くなったダーニヤは日々の祈りにも熱心になっていく。すると、ある時に教父がダーニヤを巫女という特別な位にしてくれた。これは厳しい修行と全てを神に捧げる事を強いる、女性聖職者のみの位だ。


 名誉ある位、巫女となったダーニヤは喜び、今日までの日々を幸せに暮らしてきたのだった。


「――だから、お父さんとお母さんが神さまの所に行ってしまったのは寂しいけれど、今はもっとたくさんの家族がいます。だから、寂しくないし、とっても幸せ。厳しいこともあるけれど、やっぱり今の毎日が好きなんです」


 そんな風に話を締めくくったダーニヤは真実幸せそうで、満ち足りた笑みを浮かべていた。その表情が、どうしてか今のシックには酷くまぶしくて、どうして苦しい。


「それに、それにですね! 実は、まだ嬉しい話があるんです。……わたし、もうすぐお父さんとお母さんにまた会えるんです!」


「――え?」


 付け加えられたダーニヤの言葉の意味が分からず、シックは混乱した。


 ついさっきまで、両親は亡くなってしまったと話していたではないか。それが、もう一度会えるというのはどういう事だろうか。


 そんなシックの疑問は、ダーニヤの次の言葉ですぐ消える事となる。


「わたし、贄のお役目に選ばれたんです!」


 そう言ったダーニヤの顔は、これまで以上に嬉しそうで、幸せそうだった。


 がつん、と。シックは頭を強く殴りつけられたような衝撃を受けた。その意味が分からなくて、また困惑する。


「ね、いいでしょう! わたし、本当に嬉しくって、とっても楽しみなんです! もうすぐお父さんとお母さんにもまた会えるし、楽園の特等席に行けるし、もしかしたら神さまのお姿とか、お声とか! えへへへ……!」


 贄は尊く光栄なお役目だ。【贄の王の呪い】を祓うべくその身を捧げる者は、その献身と信仰を称えられて楽園へと迎え入れられる。天秤の左皿に血を捧げる事により、天秤の右皿に栄誉と無限の幸福を約束されるのだ。


 だから、ダーニヤの喜びは正しい。現世ではあり得ない永遠と安らぎを与えられるのだから、それはきっと楽しみに違いない。嬉しいに違いない。誉れ高いに違いない。


 そう、そのはずだ。そのはずなのに――。


「君は……。それで、いいの……?」


 シックの口から飛び出したのは、全く意外な言葉だった。


 言ってしまってから、自分で酷く戸惑う。一体自分は何を言っているのだろう。本当に、自分はおかしくなってしまったのだろうか。


 ダーニヤの方も言われた言葉が意外だったのだろう、きょとんと首を傾げている。


「あなたは、もしかして――」


 ダーニヤの怪訝そうな視線が突き刺さる。






「――神さまを信じていないのですか?」






 シックの頭はすっかり真っ白になってしまって、何か言葉を返す事すら出来ない。間抜けにぽかんと口が開いているのに自分では気づかないほどだった。


 自分が今何を言われたのか、欠片も理解出来ない。言葉は分かるはずなのに、意味が伝わってこない――。


「だって、おかしいです。この話をすると、皆本当に喜んでくれるのに。……『神がそれを望まれる』。なのに、あなたはそれを疑ってる。おかしいですよ」


 反論しようとした。


 違う。自分は、心から主を信じている。


「そんな、はずはない……」


 ところが、出てきたのは頼りなく震えている、まるで縋りつくような情けない声だった。


 信じている、なんて真実らしさはどこにも無くて、むしろ信じさせて欲しいとでも言うかのような、みっともない言葉。いったい誰が、頷いて納得してくれると言うのか。


 ダーニヤはすっと立ち上がった。つまらなそうな目が、シックを見ている。


「わたし、もう行きます。あなたも早く行ってください」


 それだけ言うと、背を向けて祈祷殿の中へ戻って行く。


 呼び止めようとした。しかし、出来なかった。


 呼び止めて、それで一体何を言えば良いと言うのだ?


 遠ざかって行くダーニヤの背中を見ながら、シックは呆然と座っているだけだった。





















 ふと気が付くと、シックは知らない街角を歩いていた。辺りは少しずつ暗くなり始めている。


 いつの間にこれほどの時間が経っていたのだろう。自分はどうやってここまで来たのだろう。シックはどこか遠い他人事のようにそんな疑問を抱いた。


 宿に帰らなきゃな、と知らない声――もちろん、シック自身の声のはずだ――が頭の中で呟いた。


 しかし、シックはここが何処か分からない。自失して歩いていたので、来た道を戻るという事も出来ない。結局、あても無く前に足を進め続けた。


 ぼんやりと、意味も無い歩み。だが、歩く以外にどうすればいいのかも分からなかった。


 シックは知らなかったのだ。


 寄る辺無い生というのは、辛く虚しいものなのだと。


 導き絶えた道というのは、暗く寂しいものなのだと。


 神を失った己というのは、酷く哀しいモノなのだと。


 シックは、本当に知らなかったのだ。


 自分にはいつだって神がついていて、恐ろしいことなんて何一つ無いと信じていた。それは本当に絶対的で、沈まぬ太陽のようだった。その光の陰る事など、想像すらしていなかった。


 ――いや、違うか。


 ――光が絶えたんじゃない。俺が、見失ったんだ。


 ――……そのはずだ。


 僅かすら考えたことが無かったから、自覚するのが遅れた。まさか自分に限って、信仰心を無くすなど。神の愛を疑うなど。


 あり得ないと、意識すらしていなかった。


 いつの間にか、自分の心の奥底で芽生えていた想いに気づかなかった。


 『主よ、何故ですか』。


 いつからだろう?


 崩れ落ちたリーフェンを歩いたとき?


 友の死に流された少女の涙を見たとき?


 恵み少なき砂漠で飢える人々に触れたとき?


 強欲に塗れた聖職者に刺されたとき?


 保身に走る神の代理人と話したとき?


 呪われる大地で人々の嘆きを聞いたとき?


 それとも、愛しい少女が闇の手先だったと知ったときか?


 シックは知らず、声無き声で呟いていた。――主よ、何故ですか、と。


 それが神への不信でなくて何だと言うのだろう。それが神への疑いでなくて何だと言うのか?


 あぁ、愚かしい。呪わしい。忌々しい。この自らが憎たらしい。


 不意に強く突き飛ばされて、壁に頭を打ち付ける。そのまま地面に倒れ込んでから、離れて行くげらげらという笑い声に気づいた。


 ずっと俯いていたから、前から誰か来ていたのに見えていなかったのだろう。遠くで「西方人が」という声が聞こえた。……そういえば、フードを被っていない。シックの茶髪を見た西方嫌いの誰かに因縁でもつけられたらしかった。


 立ち上がるのもおっくうで、そのまま壁にもたれて座り込む。打った頭がずきずきと痛んだ――しかし、それもすぐに消える。


 【神託の剣】による祝福の力だ。剣は、シックが傷つく事を許さない。


 かつては感動的だった力も今となっては滑稽だ。信心を失った【神託者】など冗談の種にもなりはしない。


 辺りはますます暗くなって、夜の気配が近づいていた。


 右も左も分からない街角、先も見えない()(がれ)時。


 シックは、限りなく一人だった。


「俺は、どうすればいいんだっけ……」


 闇に沈んで行く世界の中、冷たい石の地面の上。呟きは擦り切れるように消えて行く。


 月も星も、未だ見えていなかった。





















 何気なく動かした手に、何か当たる。


 手探りで拾って見れば、それは一冊の本だった。


 この都市アンビヨンに入ってから何度か見た覚えがある。配られでもしたのか、時折投げ捨てられていたものもあった。これもそうだろう。


 厚みは然程無い。暗くて良く見えないが、装丁は丁寧に感じる。目を凝らしてみるが表紙に日付が書かれている以外、何も無い。酷く簡素で味気ない本だった。


 そこで、おや、と思う。書かれている日付が最近でも昔でも無く、未来のものだったからだ。


 本に書かれている日付と言うと、シックが知っているのは記録とか日記の日付。つまり、過去の数字である。未来の日付を扱う本というのは未知の存在だった。


 日付は現在からぴったり十年後。少し考えるが、シックの知識で関わりそうなものは無い。


 さして関心が湧いたという訳でも無かったが、最初のページを開いてみる。すると、そこにはラツア――今はラヴェイラだが――の言葉で短い文章が書かれていた。


 不思議なことだ。ここはアッサラ、ラヴェイラとは遠く離れた地である。当然ラツアの言葉など使われていない。


 ラツアの言葉は話せるが読み書きは出来ない。何と書いてあるのかは分からなかった。パラパラとページをめくってみると、今度はファーテルの言葉が目に入った。


 更に進めるうち、次はエルメアの言葉。次はガリアの言葉。更にアッサラの言葉もあった。


 いずれも書いてあるのは短い文章で、雰囲気から察するに同じ内容だ。つまり、この本は何か短い文章をどの言語でも読めるようにと作られているらしい。


 めくっていると、ターレルの言葉もある。慣れ親しんだ文字だから、認識すると同時に内容も頭に入ってくる。


 一瞬、理解が及ばない。それで、もう一度上から読み直す。


 そしてそこにはこう書かれていた。






『悪魔は蘇る。


 永きに渡り贄を喰らい、その力を蓄えていた。


 悪魔は蘇る。


 神と大地と人を憎み、死と呪いをばら撒かんと北より来る。


 悪魔は蘇る。


 人よ備えよ。おぞましき指先から逃れる術は無し。




 悪魔が蘇る。


 これは、神の天秤の定めである』






「何だ、これ……」


 バラバラとまたページをめくる。言葉が様々に変わるが、内容はどれも同じ。読める言葉を全て辿るが、やはりそうだ。


 全てのページ、全ての言語でこの呪わしい文章が書かれている。


 ぞわぞわと、言い知れぬ不安感に襲われる。何か、とてつもなく嫌な何かをこの本から感じて、シックは身震いした。


 シックの全ての感覚が、この本、この文章を忌避しているのだ。


 ここにどんな意味が込められているのか、正確なところは分からない。しかし、間違いなく良いものではあり得ない。


 そして直感する。これは悪戯の類では無い。確実に、何か邪悪の一端がここにある。


 十年後の日付。『悪魔は蘇る』という言葉。これはつまり――。


「十年後に悪魔が蘇るっていう、予言……」


 ざわざわ、ざわざわと。ひどい胸騒ぎがする。訳も分からぬ焦燥がチリチリと音を立て、思わずシックは立ち上がった。


 分からない。何も分かりはしないけれど、今すぐ動かなければ後悔する事になる。その確信だけがある。


「行かなきゃ」


 考えるより先に、言葉が口をついて出た。それは不思議と腹の奥にすとんと落ちて、シックの欠けていた何かの代わりになる。


「そうだ。俺は、【神託者】。俺には、使命があるんだ……」


 急がなければ。一日でも早く、魔境へ。――【贄の王】の下へ。


 シックは宿への道を探すべく歩き出す。しっかりと前を向いて、確かな足取りで歩んで行く。


 もうすっかり辺りは夜闇に包まれていて、明かりも無い道は真っ暗だ。


 その時、煌々と照る月明りが不意に差し、地面にシックの影を描く。


 その影がやけに暗く黒く見えて、シックは思わず目を背けた。どうしてか、見てはいけないと感じていた。


 だから、己の影が目に入らないようにして、シックはずっと歩いて行くのだった。







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