276 漠々たる草原の地、アッサラ
果てしない草原の広がる地、アッサラ。
古来、アッサラには大別して二種類の民が暮らしている。
ひとつは街に暮らす民。彼らは海や河川、湖の傍に街を作り生活する。石や木から家を作り、農耕や商いをして生きる。
もうひとつ――大半がこちらだが――は草原に暮らす民。彼らはどこにも定住しない。馬や羊といった家畜を連れ、広大な大地を移動し続けるのだ。
それぞれの民は互いに憎み合わず、尊重し合って生きている。街の民は優れた工芸や商業を生み、草原の民は交易や畜産を生む。両者は深く関わり合い、支え合っているのである。
アッサラ地方に国は無い。大半の民が定住しないという性質上、土地に依った国家が発達しないのだ。
その代わり、アッサラでは部族毎のまとまりが強く血縁が重んじられる。草原の民は部族で暮らし、街の民は都市一つ一つがまるごと家族だ。
当然、民の一員になる事は用意でない。部外者と血縁の扱いは明確に違う。
しかし交流は簡単だ。血縁の領分を侵さない限り彼らは他者に寛容である。
独自の文化を築くアッサラの民たち。広大な大地において、広すぎる草原が生んだ彼らの世界は唯一無二である。
都市アンビヨンは、アッサラに点在する都市たちの中でも特に大きなものの一つである。父長アラーフとアッダーディン一族の治める都市だ。
今この都市アンビヨンにおいて、一頭の馬を連れた旅人が居る。
旅人の名はシックザール。馬の名はポラリスだ。
この街には伝統的に西方嫌いが根強くある。そのため、シックはこの街を行くにあたってフードを被って髪を隠していた。というのもアッサラの民はみな白系の髪色を持つので、シックの茶髪は非常に目立つのだ。
なお、アッサラで言う西方とは北土やガリアなど、ターレルの西都より西側の地方全般を指す。ターレルの西都と東都を分ける狭い海は大地の東西を分けると同時に、文化や宗教、人々の意識の境目でもある。
特に【聖女】によって東都の民が皆殺しにされてしまった事件以降、東西の軋轢は強まっている。今この街において、西方の人間が堂々と歩くというのはあまり賢い事とは言えなかった。
だが都市アンビヨンはシックにとってただの通過点に過ぎない。水や食糧を補給したら、面倒に巻き込まれないようさっさと出てしまうつもりだ。
一泊だけの宿を取り、ポラリスを預けてから部屋に入ってようやく一息。流石に、何とはなしに息が詰まってしまっていた。
フードを外し、ベッドの上に腰掛ける。一つ伸びをして、後ろ向きに倒れ込んだ。いい加減旅慣れてはいるが、人里でベッドにありつけた時のこの感慨は未だに色褪せない。
「はぁーあ……。もう少し、のんびり旅がしたかったよ……」
宛がわれたのはベッドが一つある以外は何も無い殺風景な部屋だ。不満と言うほどのものは無いが、たまにはもう少し広々とした部屋に泊まりたいと思うのも人情だろうか。
ターレルを発つ際に十分過ぎる路銀は預かっている。多少の贅沢なら無理でも何でも無いが、それでも無駄遣いを避けてしまいがちなのはシックの性格というものだろう。我ながら損な性分だと思った。
昔は良い部屋に泊まりたいなんて思った事は無かったのだが、これも一度贅沢を知ってしまったせいに違いない。街に寄る度に一番良い宿を譲らなかった少女を思い出し、シックはつい苦笑を浮かべた。
件の少女は清潔な寝床や湯浴みを絶対に、頑なに、何としても譲らなかった。シックなどは寝られれば何でもいいと思う方なのだが、少女にとっては重大なことらしかった。
「懐かしいなぁ……」
少女と共にしたのは短い旅だった。しかし、楽しい旅だった。気付けば、随分遠い過去になってしまった。
「……」
そう、遠い過去だ。もう二度と、戻れはしない。
シックは目を背けるように、目のやり場を探した。小さな窓から差し込む西日が、部屋の中に赤い影を描いているのが目に入る。
忘れられない声が聞こえたような気がして、シックは思わず目を閉じるのだった。
翌朝、やけに早く目が覚めたシックは少し街を歩いてみる気になった。
一応の意味でフードを被って髪を隠し、宿の外に出る。夏も近づき始める頃合いだが、朝の空気はひんやりとしていた。
ぶらぶらと当てもなく行く街並みは、そろそろ見慣れ始めたアッサラの異国情緒に満ちた景色。西方世界では見られない滑らかな曲線を多用した家々は、いずれも色鮮やかなタイルで飾られている。
地面も細かなタイルがぴっしりと敷き詰められていて、驚くほどに平らだ。
道にはとても個性が出るのだという事は、各地を旅するうちにシックが気づいた事の一つである。
石畳か土か、平らか凹凸があるか、広いか狭いか、などなど。滑りそうな程滑らかなファーテル、広く硬いが汚れたエルメア、砂がむき出しのガリア。実に民の気性や生活の特徴が出ている。
そんな小さな気づきの数々こそ旅の楽しみだと言うのがシックの持論だ。
まだ朝早い事もあって人の姿は少ない。まだ誰も居ない露店たちを脇目に、シックは祈祷殿を目指す事にした。
祈祷殿とは、西方で言う所の教会である。その名の通り祈祷をするための場所で、東方の教えでは日に三度の祈りをせよと定められている為にいつも人で溢れかえっている。
シックは西方の信徒であるので祈祷殿に用事らしいものは無かったが、この人の居ない時間帯なら祈祷殿もゆっくり見られるのではと思ったのだ。
信じる教えは異なるとしても、奉じているのは同じ神。祈りを捧げるくらいは許してもらえるだろうかなんて、そんな考えをもてあそびながら歩く。
やがて見えてきた建物は祈祷殿らしい青のタイル張りで目に鮮やかだ。
東方において青は神への崇拝を意味する色である。もちろん、希少な青色を使うという裕福さのアピールにもなる。
そんな青い祈祷殿の入り口は常に解放されている――というより、扉自体が存在しない。これは、信仰への道が閉ざされる事は無いためであるらしい。それはいつもそこにあり、望むならば誰もが歩むことを許されている。東方的な思想だが、シックは素晴らしい考えだと感じていた。
そして、中へ入れば――。
「すごい……」
思わず、呟いてしまう。
祈祷殿の中は、実に壮麗な青の空間だった。
幾何学的模様が無数に広がり、磨かれた青い石たちが朝日を浴びて煌めいている。
西方の教会のように金や銀は無い。絵画や彫刻も無い。そこはただ、青と光だ。そしてそれだけで、見事に神秘を表現している。
美しい。どうしようもなく美しい。
「主よ、あれかし……」
この美しさがそのまま神の奇跡だ。限りなく大きな神の愛、それに捧げられた人々の祈り、最初に光をもたらした方の尊さ、全て素晴らしい。
光が全ての人を等しく照らし出すように、全ての人は等しく愛されている。しかし、全ての人が神の指先を感じられる訳ではない。それでもこの美しさに心打たれない者はいないだろう。つまるところ、この美しさは愛の可視化なのだ。人が神秘の美に触れるとき、それは大いなる愛の吐息を感じているときに他ならない。
来てよかった。感動に打ち震えながら、シックはそう思った。
是非とも祈りを捧げたいと考えながら、祈祷殿の奥に進んで行く。
人の姿は全く無かった。広々とした内部で、シックは一人きりだ。
……と思ったのだが、一番奥、その片隅に小さな背中があった。小さくなって、両膝をついて祈りを捧げているようである。
その祈り様は溢れ出るような歓喜に包まれていて、しかしそれを押しとどめようと小さくなっているという風だった。
あの人には何か、本当に良い事があったに違いない。それで、神様に祈りを捧げずにはいられないのだ。――祈る誰かについて、シックはそんな風に思った。
すると、その誰かが祈りを終えて立ち上がる。ぽんぽんと膝を払い、顔を上げた。どうやら女性のようだ。
女性が不意に振り返ったので、何となく見ていたシックと目が合う。
それはシックよりもいくらか年若い、まだ幼ささえ残る少女だった。アッサラの民らしい真っ白な髪が良く似合う可愛らしい少女だ。
シックと目が合うと、少女はきょとりと不思議そうな顔をしたあと、はにかむような笑顔を浮かべた。シックも笑顔で返すと、少女は小走りでシックの方へ近づいてくる。
おはようございます、と少女に挨拶をして、そのぱたぱたとした足取りを待った。
「おはようございます! 良き日、あれかし!」
何とも嬉しそうに挨拶を返してくれる。つい、シックは微笑ましく思ってしまった。
「えぇ、あなたにも」
「ありがとう、旅の方!」
一瞬だけ疑問に思って、すぐに納得する。シックの服装は明らかにこの辺りのものではないので、それで旅人だと判断したのだろう。
「わたしはこの祈祷殿の巫女、ダーニヤです。何かご用はありますか?」
「俺はシックと言います。初めまして、ダーニヤ」
シックが名乗り返すと、少女――ダーニヤはシックのフードの中を下から覗き込んでくる。何が何でも見られて困るという訳でも無いので、シックはフードを外して顔と髪を露わにした。
「西方の人だったんですね! 髪が黒い!」
ありふれた茶髪を持つシックだが、アッサラの白髪からすれば確かに黒く感じるだろう。西方ではいくらでも見られる色だが、ダーニヤにとってはそうではないらしい。珍しそうに眺めている。
「ここは本当に美しい場所ですね。俺は西方の信徒ですが、祈りを捧げてもいいでしょうか?」
やや恐る恐るシックが尋ねると、少女は嬉しそうにぱっと顔を輝かせる。
「もちろん! ここは祈る為の場所ですから!」
違う教えでも、ダーニヤは問題無いと言う。シックは快く受け入れられた事を嬉しく思いながら、その場で膝をつき目を閉じ、首元の天秤を握って祈り始めた。
邪魔をしないようにだろう、ダーニヤが数歩距離を取ってくれたのが分かる。しかし、祈りの集中が深まるつれシックはその存在を忘れてしまった。
その内、果てしない静けさに包まれていく。
最後まで聞こえていたのは自らの命の音。だが、それもやがて小さくなって消えてしまう。そうなると、もう本当に何の音もしなくなった。
もはや静かという言葉すら相応しくない。閉じた瞼に感じる微かな光さえ忘れてしまったので、何かが見えるという事もない。
そう、これは――無だ。
目に映る光も、見えぬ闇も、何も無い。ただただ、無い。
そうして全てが無くなって、初めてむき出しになる物がひとつだけある。
それは、魂だ。
全てのこころと想い出が肉体から自由になって、無にぼんやりと浮かぶ。
その時――その時だ。
そこには何も無い。何も無いはずなのに、むき出しの魂に何かが触れる。
その何かはとてつもなく大きく、自分という存在がとても小さく感じてしまう。
何かは表現し難いほどに無限の優しさをもって魂を包み込む。そして、ひどく純粋に慈しんでくれるのだ。
それこそが愛。
終わり無く無限、求め無く無償。どこまでも、“まこと”の愛である。
自らの全てを認め、許し、受け入れて下さる。どうして、これを信じずにいられるだろうか。どうして、僅かでも愛を返さずにいられるだろうか。
愛され、愛する。
それは完成された永遠にして、あり得ざる完全。一なる答え、すなわち愛。
その究極に、全身全霊で奉仕しよう。あぁ愛よとシックはちっぽけな魂全てで感動する。愛される喜び、愛する喜び。これに全てを捧げるのだ。その為にこそ、自分は生まれてきた。
この愛のほかに、何もいらない。この愛を信ずることに、疑いなど無い。
だから、これは単なる確認作業に過ぎない。シックはとっくに愛されていると知っていたし、それが揺らぐ事など考えもしていないのだから。
自分は愛されている。導かれている。それは、絶対の確信――。
そのとき、ゆらめきがあった。
それは金色をしていた。ふわふわ、ゆらゆらとゆらめいている。
その金色に気が付いた途端、シックの魂は猛烈な悲しみに包まれた。つい先ほどまであったはずの永遠はいつの間にか消え去り、シックはただ暗闇に取り残されていた。
金色が小さく『どうして』と言った。金色もまた、とてつもない悲しみに暮れているようだった。
シックは思わず、何を言おうとしたのか自分でも分からないが、とにかく必死で何かを言おうとした。
だけれど次の瞬間にはもう、シックは現実の只中に引き戻されていた。
辺りは青色ばかりで、金色などどこにもない。
胸に喪失感だけを抱え、シックは呆然と立ち尽くしていた。
あれほどあった愛なのに、今はどこにも見えなかった。




