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贄の王座と侍るもの  作者: 伊空 路地
第十章 愛が為に
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272 前、前、前


 無数にも見える軍勢に向かう。


 サンが一歩を進めるたび、世界が真っ白に感じる程の集中が深まっていく。


 全身の肌がピリピリするような危機感と、息が出来ないくらいの緊張感。


 己に向かって伸ばされる死の掌に、真正面から突っ込んで行く。何かがひどく澄み渡り、この世のありとあらゆる穢れから解き放たれたような、理解を越えた無垢さに包まれる。自分を抱き止めようとする死神の表情に、サンは泣きたくなるほどの安心を覚えた。


 心地良い。そう思う。


 この無垢な世界に留まっていたい。優しい誘惑が囁いてくる。


 このまま、このまま――。


 言い表せぬ幸福に浸りたい。


 きっと、何の苦痛も無いだろう。


 きっと、何の苦悩も無いだろう。


 無限の安心だけがある、そんな世界だ。






 ――だけど、そこに主様は居ない。






 サンは心中で呟いた。


 そうだ。たったそれだけの事実があるだけで、どれほどに惹かれようと、何度繰り返そうと、サンの選択は一つに定まってしまう。


 迷いなど僅かも無い。後悔や未練だって少しも無い。


 生きる道なんてとうに定まっていた。だから走るだけでいい。


 ひたすら、ひたすら、その先にいる人を目指して。





















「『【風天蓋】!』」


 左手を突き出し、“風”の盾を生み出す。きゅんきゅんと高い風切り音が、銃弾が【風天蓋】に押されて脇を掠める音が、いくつも通り過ぎては消えていく。ほんの一泊の遅れがあれば死んでいたのだ、と教えているのだ。


「『【銀の塔】!』」


 続けざま、“土”の魔法が純銀の大きな杭を地面から生やす。すると、直後に何本もの紫電が銀の杭に降り注いだ。耳をつんざくような轟音たちが轟いては溶けて行く。ほんの僅かの遅れがあれば殺されていたのだ、と伝えているのだ。


「『【水鬼鞭】!』」


 すかさず振るった“水”の鞭が雨の如き火矢たちを払い落とす。落とし損ねた何本かが服の端々を焦がしては霞んでいく。もう少しで焼き尽くされていたのだ、と示しているのだ。


 立て続けに放った三つの魔法が稼いだのは、たった数歩の距離でしかない。


 遠い。


 敵の懐まであとたったの十数メートルだというのに、たったそれだけの距離があまりに遠い。


 だが走るしかない。敵集団と斬り合いの距離にまで近づけば、敵の後衛たちは誤射を恐れて銃や魔法を撃てなくなる。千を超える軍勢と正面から撃ち合おうとするほどサンは愚かでは無かった。


 細い勝ち筋を拾う為、何としてもこの遠い十数メートルを踏破しなければならないのだ。


「『“土”よ!』」


 サンの右手側で、爆発するように地面が隆起する。大の男が隠れるくらいに盛り上がった地面は、迫っていた火球からサンを守る壁となる。眩むような光を放って火球が爆ぜる。放たれた熱風に軽い火傷を負う。


「『“水”ッ!』」


 地面から噴き上がる水の柱がサンの頭上を通ってアーチを描く。直後、空から細い雷が落ちて、水のアーチを打ち砕いた。電流は水を伝って大地へと流れ消え、有り余るエネルギーはサンの身体に余波となって伝わってくる。ビリビリとした痛みが全身を駆け抜けた。


「『“炎”ぉ!』」


 舞うように飛び広がる火炎が“風”の槍たちとぶつかり合い、それらを一気に焼き尽くしてしまう。吹き散らされる火炎と残滓となった風が乱れる熱波となって、ぐらぐらとした陽炎を見せた。あまりの熱に脳がくらくらとする。


「『“風”ェ!』」


 どこからともなく突風が走り、同じく走り向かって来ていた“水”の奔流の軌道を少しだけ傾ける。奔流はサンのすぐ傍を走り抜けて行き、僅かな水飛沫がサンの頬を打って血を滲ませた。


 四つの魔法で、また数歩。――まだ、遠い。


 一歩を踏んで、弾丸が腕を掠めた。


 一歩を踏んで、強風が脚を切った。


 一歩を踏んで、熱波が服を焦がした。


 雷が走って、ビリビリとした衝撃が痛んだ。


 岩が砕け、じんじんとした切り傷が痛んだ。


 水が降り、バタバタと打たれる肌が痛んだ。


 炎に炙られて、また一歩。


 水に打たれて、また一歩。


 風に穿たれて、また一歩。


 土に抉られて、また一歩。


 雷に焼かれて、また一歩――。






 防げない。追いつかない。


 敵の数が多すぎて、敵の攻撃が激し過ぎて、自分の身体ひとつも守れない。


 当然だ。こちらは一人、敵は軍隊。その戦力差は文字通り千倍なのだから。


 それでも走った。ほんのひと瞬きすら止まらなかった。


 あちこちに傷を負い、あっという間にボロボロにされながらも走った。


 それ故に。


 嵐のようだった魔法と銃弾が止む。気付けば、敵の前衛はすぐそこだった。


 次の瞬間に、前衛の騎士たちが待ち構えていたように一斉射撃を開始する。


 “土”の魔法、無詠唱。サンの正面に壁がせり上がり、サンの全身を覆い隠す。


 もう一度。“土”の魔法、無詠唱。サンの足下が爆発するように弾け、その身体を前方上へと飛び上がらせる。


 弾雨に崩れ落ちる“土”の壁。サンの身体がそれを飛び越える。空中で、やけにゆっくりとした世界の中で、驚いた顔の騎士と目が合った。






「『ここに現れよ、我が怒りの火炎。――【爆蓮花】!』」






 サンを中心に広がる”炎“の爆発が騎士たちを吹き飛ばした。


 爆発でぽかりと空いた空白に、サンは降り立つ。ぐるりと周囲を睥睨するサンの視線に、騎士たちが一瞬だけ恐怖したような――そんな気がした。





















 サンは敵集団の内側に入り込んだ。味方もろとも攻撃する訳にはいかない敵後衛たちは最早何も出来ない。事実上、居ないも同じだ。


 だがこれで楽になったかと言えば、そんな筈は無い。


 全方位が敵だ。囲む彼らは皆歴戦の戦士たちで、ほんの一瞬が死を招くだろう。些細な失敗一つも許されない。


 更に、敵は千を超える。真っ当に戦っていたのではとても体がもたない。


 だからこそ、サンの作戦は既に決まっていた。


 バッ、と左手を高く掲げる。


 そして詠唱を開始する。高らかに、謳うように、誇るように。


「『偉大なるもの、母たる精霊。我は御前に見つめらるる愛し子なりし!』」


 その詠唱を聞いた者たちのうち、僅かな数名がハッとした顔をする。そしてすかさず叫んだ。


「大魔法だ! 絶対にやらせるな!!」


 叫びが響いた瞬間、騎士たちに緊張が走ったのが分かった。当然だろう。大魔法の恐ろしさを知る彼らならば。


 サンの左手に魔力光が灯る。風精霊を示すそれは、新芽のような緑色だ。


「合わせろ! 同時に――」


 眼前の一人が号令をかけようとする。それを聞くや否や、サンはその一人に向かって駆けだした。


「『ここに降り立ち、我が声を聞き給え!』」


 詠唱を続けながら、右手の黒い剣で大きく斬りかかる。


「――ぐッ。詠唱しながらだと!?」


 騎士はサンの斬撃を盾で受けながら驚きの声を上げた。通常、魔法の詠唱にはかなりの集中を要する。同時に剣で戦うなど、端的に言って曲芸紛いだ。


 サンは贄の王の鍛錬に今更改めての感謝を捧げながら、再び正面の騎士に斬りかかった。しかし、これも受けられる。


 受けた騎士の両脇を守るように騎士が二人現れ、同時に槍を突き出してくる。


「『我は乞う。我が敵を討つ御前の息吹――』」


 その槍は総鋼造りでは無く、穂先を除いて後は木だった。また乱戦に持ち込まれた時の対策か、振り回しやすいよう長さもあまり無い。


 サンは突き出された槍の先を踊るように回避し、逆に踏み込んで槍を半ばから斬り落とした。これも贄の王が創り出した尋常ならざる切れ味の為せる技だ。


 更にもう一撃。槍を切断された事に騎士が反応しないうちに、サンの黒い切っ先がその腹を抉ろうと走った。


「『其は目に見えず――』」


 傍らのまた別の騎士がそれを見ていた。狙われた一人を突き飛ばし、サンの攻撃を外させる。


「『ただ音に聞くのみ!』」


 しかし、密集していた事が仇となった。瞬時に狙いを変えたサンの攻撃がまた別の騎士の脚を斬り裂き、赤い血を噴き上がらせる。


「『其は手に触れず、ただ魂魄震わすのみ――』」


 サンは下がらない。下がれば、敵に手を譲るから。


 次の騎士へ突き、と見せかけてもう一歩を踏み込む。手元を捻り上げるように振りかぶり、一気に振り下ろす。フェイントにかかってしまった騎士の肩から胸を黒い刃が深く斬り裂いた。


「『我を守りしその力――』」


 上がる悲鳴を無視。斬りかかってきた騎士の剣をいなす。踏み込み、反撃の一振り。


「『今こそ怒りを振るい給え――』」


 受けられる。反動で引き、もう一度。正面からの打ち合いはしない。筋力ではとても敵わないからだ。


 視界の端で何かがぎらりと煌めいた瞬間、サンは大きく屈みこむ。


「『天上のものいざ知らず、地上のものこそ討ち給え!』」


 深く腰を落とした姿勢から前へ躍り出る。騎士の脚とすれ違うように、それを斬り飛ばす。崩れ落ちる騎士の身体を盾にして背中を守り、更に前へ。


 振り下ろされる槍を躱す。突き出される剣をいなす。


「発動が近い! 止めろ! 何としても中断させろッ!!」


 正面に盾と槍を構えて待ち受ける騎士が一人。敢えて剣を振らず、体ごと盾にぶつかっていく。


 大の男との体重差は考えるまでも無く、サンは簡単に弾き飛ばされてしまう。


 しかし、それで狙い通り。飛ばされる勢いに乗って反転、通り過ぎたばかりの騎士の脇腹目掛けて突きを放つ。


「『我は乞う。我は乞う――』」


 サンの剣が騎士の身体に真っすぐ突き立つ。切れ味に任せて強引に引き抜いて、血を吐く騎士を背にまた前へ。


 止まってはならない。止まれば囲まれる。止まれば殺される。前へ前へ動き続けて、前の敵だけ見ればいいようにしなければならない。


「『愛し給え、わが精霊!』」


 だが、それももう終わりだ。






「伏せろォォォーーーーーーーッ!!」






 誰かが叫んだ。






「『【風精(ふうせい)舞衣(まいごろも)】』」






 詠唱が完成する。


 新芽のような光がふわりと広がって風となる。


 ぐるぐると、光る風が渦を巻く。


 誰かが、優しい風を頬に感じた次の瞬間――。


 突風が吹き抜けた。小さく、不可視の無数の刃となって。


 音のように速い風から逃れられる者は居ない。指先ほどの小さな刃に貫かれ、斬り裂かれ、抉られ、みな血を流す。


 びゅうびゅうと凄まじい音が辺り一帯を荒れ狂い、誰も彼もの叫びをかき消してしまう。


 風は血を舞い上げ、血霧となってまた斬り裂いて、血みどろの嵐を塗りたくる。


 人が人ならぬモノに変えられていく。ズタズタの肉と骨の塊になる。


 風に吹かれたモノたちが、ひとつ、ふたつ、数十、数百――。


 悲鳴すら残せないモノたちが、バタバタと地面に転げ落ち――。






 いつしか風が止んだ頃、そこには一体どれほどなのか数えられもしないバラバラの切り刻まれた死体たちが一面に広がっていた。


 数百なのか、千なのか、最早誰にも分かりはしない。


 その只中に一人、サンが立っていた。


 たったひとりで、立っていた。







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