266 無力な
お茶をありがとう、と言いながらアルマンは部屋を出て行った。後には、ひとりぼっちのサンが残される。
手に持ったままだったお茶のカップを口元に運び、一口含む。いつの間にか、お茶はすっかり冷めてしまっていた。
何だか飲む気が失せてしまって、サンはカップをテーブルに置く。それから立ち上がると、南向きの大きな窓に歩み寄る。
暖かく柔らかな陽光がサンを照らす。本当なら心地良いと思えたはずのそれは、今のサンには酷い皮肉のように感じられた。
サンは目を閉じると、慣れ親しんだ弱々しい太陽を思い出す。既に懐かしい魔境の太陽は、【贄の王の呪い】によって力を失った朧げなものだ。
決して、こんな暖かな光を降り注いではくれないあの太陽が、今サンにはとても恋しく思えた。
きっと自分はもうあの太陽を目にする事は無いのだろうと思うと、あんなものでも惜しく思えるのだ。
サンはもう、魔境には帰れない。
二年もの間、家として親しんできたあの黒い城にはもう帰れないのだ。
【転移】は使えない。いや、【転移】だけでは無い。
サンは権能の力を全て失っていたからだ。
あの日、贄の王の眷属としてサンの魂に刻みつけられていた“闇”は解呪され、失われた。今はどれほど己の深層に潜っても、あの暗い陰りはどこにも見当たらない。
今のサンは、かつて魔境で目覚めた時と同じ。何の特別な力も持たない人間の少女と同じになってしまった。
「どうしてですか……」
何度繰り返したか分からない問いかけをまた零す。答えてくれる人は、ここには居ない。
「どうして、主様……」
分かっている。あの日、贄の王が言っていた通りだ。
――『権能の力がお前にある限り、お前もまた【神託者】から逃れる事は出来ない。私はお前に、逃れられぬ死の未来を与えた事をずっと償いたいと思っていたのだ』。
確かに、かつてサンを眷属とする際、贄の王はとても喜んでは居なかった。本音としてはやりたくなかっただろう贄の王をサンが押し切った形だった。
贄の王は、サンを解放したかったのだろう。
でも――。
「――でも。私は、そんな事望んでいなかったのに……」
もし死ぬとしても、それで良かった。
贄の王の傍で、最後の瞬間まで従者として仕えていたかった。
自分の命は、自分の全ては、贄の王の為にあるのだと思っていた。その為に全てを尽くすのだと、そう覚悟していたし、そう望んでいた。
贄の王と共に居られるのなら、命なんて惜しくもなんとも無かったのに。
「私は、もう不要だったのですか? 私は、もうお仕えする資格も無かったのですか? ……共に死ぬことすら、許してはもらえないのですか?」
一つ、確信している事がある。
贄の王は死ぬつもりだ。
だって、おかしいではないか。贄の王が生きるつもりならば、サンを逃がす必要など無いはずだ。
贄の王は神託者に殺される。その時サンが道連れにならないよう、わざわざ【解呪】などという術を編み出してまで逃がしたのだ。
そして万が一にも追って来られないよう、アルマンに監視させている。
サンに与えられたこの小さな屋敷はぐるりと警備に囲まれている。今や尋常の力しか持たないサンでは逃げ切る事など出来ないほど、それは厳重だ。
いわば、この屋敷は檻なのだ。サンを捕らえ、決して逃がすまいとする檻。
だから、サンは『どうして』と一人呟く事しか出来ないでいる。
どうして、自分を捨てたのか。
どうして、死の宿命を受け入れようとしているのか。
どうして、共に死なせてくれないのか。
どうして、どうして、どうして――。
きっかけは察している。共に宿命に抗うと言ってくれていた贄の王が突如その考えを変えたきっかけ。それは、教皇文書なる物に違いない。
結局サンは知る事も無かった。教皇文書に何が書かれていたのか。教皇文書が語る『世界の真実』とは何だったのか。【贄の王】とは、呪いとは、贄捧げとは、何だったのか。
もう、サンには知りえない事ばかりだ。
でも、でも、そんな事だってどうでもいいのに。
『世界の真実』なんてどうだっていい。贄の王に心変わりをさせた何かだって知らなくていい。自分を捨てた理由でさえ分からないままでいい。
サンはただ、ただ――。
「声が聴きたい」
もう名前を呼ばれる事はない。
「顔が見たい」
もうあの瞳に見つめられる事はない。
「触れてさし上げたい」
もう優しい手を包んであげる事はない。
「お傍に居たい」
もう隣に侍る事はない。
「それだけ、なのに……」
もう、会う事はない。
サンが魔境に向かう術は無い。あったとしても、既にターレルを発ったという神託者には追いつけない。
贄の王が助かる術は無い。本人にそのつもりが無いのだから、当然だ。
ならばもう、サンと贄の王が会う事は、ありえない。
涙は枯れたのか、滲みもしない。
心にはぽっかりと穴でも空いたみたいに、寒々しい風が通り抜ける。
指先は震えて、とても剣など握れない。
「何のために……」
「私は、何のために、これまで……」
無意味だったのだろうか。
贄の王が死ぬ宿命を変える為、必死で戦ってきた筈なのに。あの日々には、何の価値も無かったのだろうか。
“サンタンカ”が生まれてきた事に、意味など無かったのだろうか?
あぁ、未来など見えない。先の事なんてどうでもいい。自分の事なんかどうでもいい。全部全部、どうだっていいのに――。
ふと、がちゃりという音が耳に届く。サンは振り返ると、ドアの方に目を向けた。
「ヴィル……」
恐る恐ると言った様子で入って来たのは、ヴィルだった。
灰色の髪を揺らしてサンの下まで歩いてくると、そっとサンの腹に抱き着いてくる。
案じてくれているのだろう。それが分かるだけに、サンは余計心苦しい。
その頭に手を置くと、サンはなるべく優しく撫でてやる。
とても、抱きしめ返してやる気分にはなれなかった。
日々は過ぎ行く。
退屈で、怠惰で、沈みきったままに。
サンの心を慮る事など無く。
ただただ無情に、過ぎて行く。
自分が腐り落ちていくような気がしていた。
どろどろと溶けて、指の一つも動かない。
棺の中で、ゆっくりゆっくり骨だけになっていくような。
心が、魂が、死んでいく――。
そんな代わり映えの無い日々の中、ある時ヴィルが姿を消した。
誰にも何も言わず、唐突に居なくなったのだ。
サンは慌てて探し回ったが、そもそもサン自身が軟禁に近い身だ。動き回れる場所は多くなかった。
そうして待つことしか出来ない二日間を過ごしたのち、余りにもあっけなく警備兵がヴィルを連れて帰ってきた。どうやら、屋敷を抜け出したはいいが警備の目を抜けられなかったようだった。
連れ帰られたヴィルはサンが何を聞いても口を開かず、何をしていたのか、どこへ行くつもりだったのか、何一つ教えてはくれなかった。
そして、ヴィルが連れ帰られた翌日の朝。
サンはいつもより少し早起きをして、屋敷の庭先に立っていた。
早朝の澄んだ空気の中、まだ太陽が大地を明るく照らし出すには遠いころ。
屋敷の中から、そろりそろりと音を殺すようにヴィルが出てきたのだった。
「ヴィル」
サンがそう呼びかけると、ヴィルは実に分かりやすく体を跳ねさせてから、恐る恐るサンの方に振り向いた。
サンは気まずげに俯いているヴィルの下まで歩み寄ると、膝を折ってヴィルと目線を合わせる。
「やっぱり、また抜け出すつもりだったのですね」
昨日連れて帰られたヴィルは何も言葉にしてくれなかったが、その顔は明らかに次を思案していた。だからサンはまたどこかへ行くつもりだと察して、朝の庭先で待ち構えていたのだった。
サンは目線を合わせようとしないヴィルを抱きすくめる。
「……どこへ、行くつもりだったのですか?」
答えは無い。
「……心配、したんですよ。どこへ行ってしまったんだろうって」
答えは無い。
「……帰って来てくれて、本当に安心したんです」
答えは無い。
「……やめて。あなたまで、行ってしまわないで」
ヴィルは、何も言わない。
「私を、一人にしないで……っ」
知らず、サンの声には嗚咽が混じっていた。
ヴィルが居なくなったと気づいた時、サンが感じた恐怖はそれだけ大きいものだったのだ。
一人になってしまう。贄の王だけでなく、ヴィルまでもが居なくなってしまう。それが、どうしようもなく恐ろしかった。
静かな朝の庭に、サンの嗚咽だけがやけに大きく響く。ヴィルの細い肩を抱くサンの腕に、痛いくらいに力が込められた。
そうしてしばらくしていると、ヴィルが小さく言葉を発した。
「……でも、いかなきゃ」
その呟きには、何か確かな覚悟が秘められていて、サンは思わずはっとなる。思わず身体をヴィルから離し、その顔を正面から見つめる。
「いかなきゃ、いけない」
もう一度繰り返される言葉。それは、これまでサンが一度も聞いたことが無い程に、幼くとも力強い声だった。
まるで、ヴィルがヴィルでないみたいに。
サンは圧倒されるような驚きで、少しの間何も言えなかった。
だが、震える喉から言葉を絞り出す。
「……どこ、へ?」
「たすけに、いくんだ」
誰を、とは聞かなかった。何となく分かったからだ。
ヴィルが関わりを持っているような人物など、サンを除けばたった一人しかいない。
「……無茶です。ヴィル一人でなんて、どれほど遠いと思っているのですか」
魔境は遥か遠くだ。その上、人類の居ない魔物だらけの領域を踏破しなければならない。
とてもではないが、子供一人で辿り着けるような場所では無いのだ。
そんな事くらい、ヴィルにだって教えたし、分かっているはずだ。
「だけど、いかなきゃなんだよ。だって――」
それでも、ヴィルは言葉を紡ぐ。
その灰色の瞳に、確かな覚悟を秘めて。
「――だって。いま、ひとりぼっちなんだよ」
サンは、何も言えなかった。
ヴィルがこれまで見せた事も無いような強さに、圧倒されていた。
でも、と言おうとする。なのに、言葉にならない。
そんなサンを見て何を思ったか、ヴィルは自分を抱きしめているサンの腕を優しくほどく。
「だから、いかなきゃ。……サン、ごめんなさい」
そうして、ヴィルはサンの横をすり抜けて歩いて行こうとする。
サンはその背に振り返る。
その小さな背中が、酷く遠く感じた。
――何をしていたんだろう。
――私は、何をしていたんだろう……っ。
――私は……っ!
「――待って、ヴィル」
呼び止めれば、振り返ってくれる。
その顔は、何だか驚いているようだった。
だから、サンは言う。
だから、サンは誓う。
「――私が、行きます」




