263 お別れ
ぐっ、と強く踏み込みながら右手の剣で斬り上げる。
【神逆の剣】の長大な刀身が黒い軌跡を描き、その後を追うように黒霧の暴風が吹き抜けた。
暴風は砕けて割れた石畳の破片を舞い上げながら、サンに迫ろうとしていたシックの身体を吹き飛ばして打ち上げる。
サンは更にそこへ追撃。斬り上げた軌跡をなぞり返すように、シック目掛けて剣を勢いよく振り下ろした。
シックは辛うじてこれを鋼の剣で受け止める事に成功するが、中空に浮かされていては踏ん張れない。そのまま地面へと背中から叩きつけられた。
「がふっ……!」
苦悶の声を上げながらも、シックは即座に立ち上がってくる。その足下は、流石にふらついていた。
命を奪うつもりの無いサンは追撃を止め、剣を構え直しシックの回復を少し待つ。
――おかしい。
この頃になると、サンははっきりとした違和感に気づいていた。
既に戦いが始まってから10分以上は経過している。だと言うのに、サンは未だ傷一つ負っていない。反対に、シックは既にボロボロだ。
つまり、この戦いは終始サンの圧倒的優勢で続いている。
確かに【神逆の剣】は強力だ。剣という形に囚われない独特の使い勝手にも慣れた。
しかし、それにしてもおかしいのだ。何故なら、先ほどからシックがまるでサンの動きについてこられていない。
シックは強い。同じ相手に、しかも技量で言えば本来格下のサンに翻弄され続けるような実力では無い。
余程シックが不調なのか、そうでなければ――。
――【神逆の剣】の力が、上がり続けている……?
変化は僅かだったと思う。それでも、一度気付いてしまえばもう明らかだ。
時間が経つにつれ、【神逆の剣】の力が強くなり続けている。
上昇し続ける剣の力が、シックに対応する事を許さないでいるのだ。
一方で、良い事ばかりでも無い。
【神逆の剣】がサンの魂を“闇”に侵し続ける事による精神への負荷もまた、強くなり続けていたのだ。
サンは先ほどからほとんど立ち位置を変えていない。変えられないからだ。
明滅する視界、歪む平衡感覚、得体の知れない寒さと震え。サンの身体の方ももう、限界が近かった
つまり。
――私が“闇”に呑まれるほど、剣の力が強くなる……。
呑まれ過ぎれば自分の力では帰って来られなくなってしまう事は経験済みだ。しかし、その領域に近づけば近づくほど【神逆の剣】は力を増す。
なるほど、これは実に悪魔の武器らしい。力をくれる代わり、その代償は己の魂だとは。
製作者たる贄の王がどこまで意図した物かは分からないが、何とも悪魔的な誘惑をしてくる剣だと言えよう。
――でも、これ以上は……。
既に立っているのがやっとの状態。これ以上の使用は、却って命取りになりかねない。しかし、【神逆の剣】を収めれば反動が来る。シック相手に時間稼ぎなど望むべくも無くなってしまう。
――どうすればいい……? どうすれば、私は……?
思考がまとまらない。今すぐ倒れ込んでしまいたいくらいに疲労を感じる。集中出来ない。吐き気がする。苦しい――。
「……そんなになってまで、どうして、お前は……!」
シックの声がする。彼もまた、苦しそうだ。
「全ては、主様の為に……」
応える。そうだ、それ以外に理由など無い。
贄の王の為ならば、サンはいくらでも命を懸けられる――。
と、その時だった。
サンの背中に、声が掛けられる。
「――よくやった」
その声に、サンは深い安堵を覚える。ああ、良かった。間に合った、と。
サンが首だけで後ろを振り返れば、そこには黒い男――贄の王が立っていた。
「主様、教皇は……」
「あぁ。目的は果たした」
「良かった……」
サンは役目を全う出来たのだ。そう理解し、サンは【神逆の剣】を収める事とした。
黒く揺らめく刀身は音も無く宙に溶けていき、やがてその姿を消す。
途端――。
「ぐゥ……ッ! があああああああああああああああああああああああーーーーーッ!!」
【神逆の剣】の反動が襲い来る。
全身の血が沸き立つように熱を持って暴れ回る。ずくん、ずくんと鼓動に合わせて、全身が内側から焼かれるよう。
視界が真っ暗になり、あらゆる音が消える。平衡感覚が途絶え、自分が今どういう姿勢で居るのかもわからなくなる。
「は……ァ……っ。はァ……っ」
肺が震え、息が上手く出来なくなる。
がんがんと警鐘でも打ち鳴らされるみたいに、頭の中で激痛が反響する。
膝の力が抜け、崩れ落ちた、と思う。
分からない。自分を認識する能力が、とうに失われていたから。
ふと、苦しさに喘いでいると、苦痛が引き剥がされるように遠のいた。
まるで、悪夢に苛まれる時にそっと誰かが手を握ってくれたような、優しさを感じる。
血の焼けるような感覚とは違う、穏やかな暖かさだ。その優しい熱が、サンの苦しみをゆっくりと取り除いてくれる。
サンは、その優しさにそっと身を委ねた。
やがて、どれくらいの時をそうしていただろうか。
あらゆる苦痛は長い時間をかけて消え去り、サンの肉体に感覚が戻って来る。
恐る恐ると目を開くと、明滅し霞む視界の向こうに贄の王の顔があった。そこで、サンは自分が贄の王に抱きかかえられている事を理解する。
「……無事か」
「……はい、主様……」
全身の倦怠感を堪えながら、何とか返事をする。
「そのまま休んでいろ」
はい、と返事をしそうになって、まだやる事があるのを思い出す。頭だけを動かし、シックの姿を探した。
すると、少し離れたところでこちらを見ているシックを見つける。
「……主様。どうぞ、先にお戻りを……」
そう言うと、贄の王は察したように頷く。それから、ゆっくりとサンを立たせてくれた。それから、『気をつけろ』と短く言い残し、贄の王は【転移】で姿を消した。
奇妙な静けさの中、ふらつくサンとボロボロのシックが二人きりで向かい合う。
シックは、痛ましそうにサンを見ているのみだ。
だから、サンは自分から話を切り出す。
「……お別れを、言わなくては」
「別れ……?」
「そう、お別れ。……主様に、言われました。この機会が、私と貴方の最後になるかもしれないから、と」
「それは、どういう意味だ」
困惑するシックに答えず、サンは自分の顔を覆うフードと仮面に手をかける。
そして――。
シックは、その光景がひどくゆっくりに見えていた。
シックの眼前で、頼りない足取りで立つ【従者】が、そのフードと仮面を外し――。
その顔を、晒した。
雪のように白く透き通った肌。
快晴の空を閉じ込めたような瞳。
光を浴びて煌めく金の髪。
それは、シックが会いたいと強く願い続けていた少女のもの。
つまり、そこに居たのは。
――サン、であった。
息が出来なくなったような錯覚を抱く。わなわなと全身が震える。
シックは両目を閉じると、天を仰いだ。
「神よ……」
シックは、一体何と言葉を発すればいいのか分からなかった。突如として目の前に突きつけられた余りに絶望的な現実に、シックはどこまでも無力な少年に過ぎなかった。
――考えない、訳では無かった。
――いや、心のどこかではそうかもしれないと思っていた。
――全く覚えが無いと言うには、余りに示唆に富んでいたから。
居なくなったタイミング。戦い方。背格好。『主様』に仕える【従者】。そして何より、あの黒い剣。
サンはあの剣を『主から貰った物』と言って大切にしていた。間違っても人に渡すような事はあり得ない。
だから、初めて見た時は【従者】がサンから奪い取ったのかと思った。良い一振りである事はシックにも見て分かっていたから、【従者】が欲しがったのかと。
だが、それにしては【従者】は剣を使い慣れていた。そう、それこそ、自分が長く愛用してきた剣のように――。
「……どうして、なんだ」
シックは目を閉じて天を仰いだまま、問う。
「……どうして、君なんだ。サン……」
その問いかけに、サンは答えられなかった。
今、サンにはシックの気持ちが痛い程に良く分かる。
何故なら、同じだったから。
【神託者】がシックであると知った時、サンも同じようにやり場のない感情に呟いた。
「――どうして、貴方が【神託者】なのですか」
シックも、同じなのだ。
――どうして、と。
余りに残酷で無残な宿命に、そう繰り返す事しか出来ないのだ。
「私もかつて、そうでした。……どうして、シックが、と」
「……」
「神などが居るのなら、なんて残酷なのでしょうね。よりにもよって、私とシックが、なんて」
「……」
「騙していて、ごめんなさい。本当のことを、口にする勇気が無かった……」
シックは、何も言わない。言ってくれない。
「……シック」
「……何だい、サン」
「私は。……私、たちは……。ずっと、友達でしたよね」
「……そう、だね」
「これからも。ずっと先まで。ずっと、そうであれたら良かった……」
「……っ」
「貴方が大好きですよ、シック。私の、大切な友達……」
「サン……。ダメだ、やめてくれ……」
「……そして――」
「サン……ッ!」
「――さようなら。ありがとう。……さようなら」
サンは笑った。
少なくとも、笑おうとした。
最後に見せる顔は笑顔が良いと思ったから。
熱い目頭を懸命に堪え、必死で笑おうとした。
それでもやはり、頬を流れて行く雫を止める事は出来なかった。
そして、サンは【転移】で姿を消し、シックはその場に一人残された。
サンは崩れ落ちて涙を流し、シックは剣を取り落して座り込んだ。
二人ともが、ただ残酷に過ぎる宿命を前に嘆いていた。
今この瞬間、二人はただ引き裂かれた絆を惜しみ、世界に翻弄される小さな少女と少年に過ぎなかった。




