257 未来への手がかり
ばさっ! と、蹴り上げられた布団が音を立てた。磔にされて不自由だったはずの身体が唐突に動いた事に戸惑いながら、サンは起き上がる。
見開いた目に入ってくるのは、見覚えのある部屋。
「ハァ、ハァ……」
荒い呼吸音を聞いて、自分が肩で息をしている事に気づく。
「わたし……?」
自分の胸元を見下ろす。だが、そこには銀の剣など突き刺さっていない。
ぺたぺたと貫かれたはずの辺りに手で触れて、傷など無い事を確認する。
そこまでしてから、ようやくさっきまで見ていたものが夢であると理解した。
「夢……」
夢――?
「……じゃ、ない。今のは……」
違う。夢では無い。
たった今サンが見たものは、確かに現実に起こったことだ。
それは記憶。いつかも分からない時代に起こった、シャーという少女の最期、その記憶――。
サンは目を閉じてゆっくり息を吸うと、またゆっくりと吐く。それから、ばたりとベッドに倒れ込んだ。
酷い寝汗だ。ぐっしょりと湿った寝間着が気持ち悪い。
「シャー……」
名前を呟く。ついさっきまで自分の名前だったはずのそれは、今はもう他人の名前だった。
自分が何を見たのか、落ち着いたサンはよく理解していた。
そもそも、サンという存在は過去に贄となって死んだ人々の想い――魂の欠片が寄り集まって生まれたもの。それはファーテルの姫エルザであったり、エルザの親友ラインファーンであったり、古代ガリアの少女ソトナであったりする訳だ。
そして、何かの拍子にその魂の欠片に遺された記憶を思い出すことがあるというのも知っている。かつて、ガリアでソトナという少女の想いを味わったのと同じだ。
つまり、サンという魔物を形成した魂の欠片たちのひとつ、その元の持ち主がシャーという少女だったということ。
恐らくは【龍】を見た事が切っ掛けで思い出したのだろう。断片的な記憶では分からなかったが、シャーは何か【龍】と関わりがあったようだから。
そして――。
「――『教皇文書』」
記憶で見た、シャーが触れてしまった書物。
サンはシャーの記憶を辿り、その恐ろしい内容を知ろうとする。だが、文書の内容に関しては記憶が酷くおぼろげで判然としない。残念ながら、シャーは文書の記憶を遺してはくれなかったようだ。
「とにかく、主様にお教えしなきゃ――」
教えなければ。
隠された世界の真実が記された文書の存在を。
そして、きっと今もどこかにある事を。
サンは贄の王の自室を訪れると、早速とばかりに自分の見たものを報告した。
シャーという少女が遺した記憶、その全てについて。
「ターレルです、主様。教皇文書は代々の教皇のみが触れる事を許されると記憶にはありました。今もきっと、ターレルの都のどこかに」
「……」
「主様、私をターレルに向かわせて下さい。私達の求め続けていた真実が、きっとそこにあります」
サンは提言する。きっと、そこに全てが記されているのだ。
世界を苛む、【贄の王の呪い】の正体について。
しかし、贄の王の答えはサンの期待するものとは違った。
「……ならん」
「どっ……どうしてですか! 全てが判明すれば、きっと主様を救う方法も!」
ある筈なのだ。きっと見つけられる筈なのだ。
贄の王が死ななくて良い未来が。
「まずは、落ち着け。冷静さを欠いては何も成し遂げられない」
「っ……。はい、申し訳ありません……」
サンを諫めた贄の王は、ほとんど睨み付けるような鋭い視線でサンを見た。
「いいか。重ねて言うが、勝手は許さん。決して独断でターレルへ向かうような真似はするな」
「……はい」
サンは唇を噛んだ。自分が逸っているという自覚はある。贄の王の言う事はもっともだ。
だが、それでも自分を抑えつけている事が辛い。教会がひた隠す全てを知る手段が存在すると分かった今、手を伸ばさずにいるのは酷く苦しい事だった。
「サン。教皇文書について、何か他に覚えている事はあるか? 断片的なものでもいい」
「覚えている事……」
記憶を辿る。文書を読んでいた瞬間の記憶は無いが、その後の記憶はある。何かそこから、欠片でも拾う事は出来ないか。
「……恐怖……。それから、絶望、衝撃や驚き……」
シャーは文書を受けて自分のこれまで生きてきた世界がひっくり返るような感覚を得ていた。
何かないか。異教の神職に就く少女が、その世界を『嘘だった』と言うような事実は――。
「『神が居たならば、こんな悲劇を許しはしなかったのに』……。それから、ええと、『王』、『大いなる邪悪』、『闇の化身』……。『王の子孫が贄と』……。んん……」
サンは必死でシャーの記憶に潜り込もうとしたが、やはり文脈を持ったような記憶は思い出せない。
「……『神が居たならば』、か」
贄の王がぽつりと呟くように繰り返す。
「サン、それ以上無理に思い出そうとしなくていい。記憶というのは、ふとした拍子の方が蘇りやすいものだ」
「……分かりました。申し訳ありません」
「謝る必要は無い。教皇文書なる存在が明らかになっただけ、大きな進展だ。……それより、過去の教皇との会話で気になる内容があったろう。『神は大地の底に居る』だったか」
「そうです。『神なんて居なかった』というシャーに対し、『大地の底に居る』と教皇が答えた筈です」
「ふむ……。何かの比喩だとは思うが……」
「土の下に居る、と言えば死んでしまっている、という連想がしやすいですね。埋葬、という意味ですが」
「そうだな。神が死ぬようなものかは疑問だが」
贄の王は振り払うように首を横に振ると、ここまでにしよう、と口にした。
「現状では分かる事が少なすぎる。まずは、いくつか探りを入れてみるとしよう。今のターレルに直接乗り込むのは危険過ぎる」
内海から突如噴き出したという“闇”。それによって引き起こされた強力な【贄の王の呪い】。
ターレルは今も、終わり無く降り注ぐ落雷によって混乱の渦中にあるのだ。
「……あぁ。その通りだ。対策のために騎士団や軍も厳戒態勢を敷いているはず。迂闊には近づけん」
贄の王がサンに同意する。
だが、恐らく贄の王は分かっていて口にしなかった。
サンと贄の王にとって、最大最強の脅威――【神託者】の存在について。
サンはその気遣いを確かに感じ取りながら、心の内で感謝を口にした。今なお、神託者――シックとの事は、呑み込みきれていない部分があったのだ。
「まずは、一度ラヴェイラに向かう。この戦争、私も最早行く末が読めない」
「戦争ですか。もう、どの国も戦争などしている場合では無いのではありませんか? 自然に終戦になるものかと……」
各国はどこも【贄の王の呪い】の被害でとても戦争など続けている余裕はな無いはずだ。少なくとも、サンはそう思ったのだが――。
「そうなればいいがな……」
贄の王の方は、どうやら違う予想をしているらしかった。
サンは首を傾げたが、その答えはすぐに分かる事になる。
――サンはまだ、人類というものを理解していなかったのかもしれなかった。




