256 憤怒
夢。
夢だ。サンは、夢を見ていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
シャーは必死で走った。とにかく、何とかここから逃げなければならない。
ここで捕まる訳にはいかないのだ。今のシャーには、何と引き換えてでもやり遂げねばならない事がある。
「伝えなきゃ……! はぁ、みんなに、教えなきゃ……!」
知ってしまったからだ。
本当は、知りたくなんて無かったと思う。知らなければ、ずっと幸せな夢を見ていられたのに、と。
それでも、知ってしまった。
だから、走らなければ。伝えなければ。
「神さまなんて、居なかったんだって……!」
ほんの偶然だった、と思う。
アッサラにある国の一つ、その国にある大きな祈祷殿の巫女がシャーだった。両親ともに神官で、幼い頃から巫女になるべく育てられてきた。
神に祈りを捧げ、日々の糧を頂き、また祈る。そんな毎日の繰り返しだったが、シャーは幸せだった。
シャーはみんなから愛されたし、シャーもみんなを愛していた。両親はたまに厳しいけれど、やっぱり優しくて大好きだ。祈祷殿の教父さまも優しくて、いつもこっそりとお菓子をくれる。最近神官見習いの男の子がちょっと気になるのは、まだ内緒。
そんな日々の中、シャーは不思議な夢を見た。
それは深い深い水の底で、『龍』と名乗る大きな生き物とお話をした夢。
あの夢が何だったのかは分からない。『龍』と名乗ったあの生き物が言っていた事も、覚えてはいるけれど良く分からなかった。
でも、『また会いにおいで』と言っていたから、きっとどこかでまた会えるのだろう。その時にでも、聞いてみたいと思っていた。
――だが、今にして思えば。シャーは『龍』を恨まずにはいられない。
あの夢が、『龍』の言葉が、全ての発端だったから。
シャーの幸せな日常が終わり、残酷な世界を見つめさせられる、その始まり。
ほんの些細な偶然と、小さな小さな好奇心が引き起こしてしまった、全てのきっかけ。
そして次のきっかけが、向こうからやってきたのだ。
「ターレル?」
「そうだよ、シャー。西の頼教で一番偉い人がね、シャーに会いたいと言っているんだ。それで、今度わしと一緒にターレルという所まで行くことになったのだよ」
教父さまが言うには、そういう事らしかった。
シャーはターレルというのが何処にあるのか良く分かっていなかったが、とにかく頷いた。旅なんて初めてだ。知らない所へ行けると言うのは、ちょっと楽しみだった。
「お父さまとお母さまは? 一緒に行かないのですか?」
「ご両親も、一緒だよ。ご両親も、わしと一緒にターレルまで行くんだ」
「じゃあ、みんな一緒ね! 良かった、お父さまやお母さまとお別れなんて嫌だから」
シャーは一安心した。神事では、普通の神官である両親と巫女であるシャーは別々にされる事が多かったのだ。今回はそうではないらしい。
「あぁ、そうだとも。だけれど、お友達までは一緒に行けない。ちょっとの間会えなくなるから、きちんとお別れを言うんだよ」
「はい、教父さま!」
シャーは素直に頷いた。本当はお友達ともお別れなんて嫌だったが、ちょっとの間だけらしい。それなら、我慢しよう。
そうして、お友達にちょっとの別れを告げて、シャーはターレルまで旅に出た。
両親と、教父さまと、何人かの神官たちと、それから馬たちと一緒に。
旅は思ったよりも長くて、ターレルに辿り着く頃にはすっかり季節が変わっていた。故郷を出た時は暑くなり始めたばかりだったのに、ターレルに着いた頃にはすっかり寒くなっていた。
だが、旅という生活も中々に楽しかった。出会っては分かれる色々な人たち。見た事も想像したことも無い色々な景色。アッサラでは少ない雨に降られるのさえ楽しかった。
やがてターレルの西都というところで、頼教の一番偉い人と会った。教皇さま、と言うらしい。
教皇さまは優しそうなお爺さんで、やっぱりシャーにも優しかった。
シャーは教皇さまの事もすっかり好きになり、西都にいる間はよく教皇さまとお話をするのだった。
そんな時、シャーはふと『龍』の夢を思い出した。
正確には、『龍』の言っていた言葉を思い出したのだ。
何でも、神さまを信じる人たちの中で一番偉い人が、全てについて書かれた本を持っているとか。
神さまを信じる人たちの中で一番偉い人というのは、まさに教皇さまの事らしい。すると、教皇さまは全てとやらについて書かれた本を持っているのだろうか?
シャーは思い切って教皇さまにその事を聞いてみたけれど、教皇さまも知らないらしい。やはり、夢で聞いた話だからてんで違う話なのかも知れない。
シャーはそれっきり夢の事など気にしなくなったのだが、何故だか教皇さまはシャーの夢について聞きたがった。『龍』と名乗った生き物が気になると言っていた。
ところで、シャーは勉強が嫌いでは無かった。
教皇さまのお部屋には信じられない程の本があったのだ。読めない文字が多かったけれど、一度でいいからあの部屋にこもって本を読んでみたい。
そんな風に言うと、教皇さまはお部屋に連れて行ってくれた。そして何かの用事で呼ばれて、部屋にシャーだけを残して行ってしまった。
だから、本当に、偶然だったのだ。まさか見つけてしまうなんて、思わなかったのだ。
他の本とは違って、人に見つからないように隠されていた。読んではいけないのかな、とも思ったけれど、気になってしまった。
だから、読んでしまったのだ。
そこに、何が書いてあるかなど、欠片も想像していなかった。
「まさか……それを、読んだのか……?」
震える声で、教皇さまがシャーに聞く。
だが、シャーは何も答えられない。
ついさっきまで大好きだった教皇さまが、今は恐ろしくて堪らなかった。
怖いのだ。怖くて、怖くて、つい後ずさりをしてしまう。
「おぉ……何ということだ。あぁ、まさかよりによってそれを見つけてしまうなど!」
教皇はわなわなと震える。顔面は蒼白で、口は力無くぱくぱくと動いている。
「シャーよ。こっちへ来なさい……来るんだ。その本を、私に返しなさい……」
「い、いや……。来ないで……」
「来るんだ! この……あぁ! 何という事を! 取り返しのつかない事を……!」
「やめて! 来ないで!」
「その本を返せ! 許されんぞ、罪人め! 大人しくこっちへ来るんだ!」
不意をついて、シャーは逃げた。
本は手放してしまったが、本の内容は頭にある。
両親に、教父さまに、助けを求めよう。みんなに教えるんだ。あの、悪夢のような本の話を。
シャーは走った。
走り続けた。
そして何とか、みんなの下まで辿り着いたのだ。
涙につっかえながら助けを求め、本の内容を口にしようとして――。
頭に衝撃を受けて、そこで記憶は途切れている。多分、殴られたか何かしたのだろう。
教父さまも、神官のみんなも、両親さえも。
シャーの味方なんかじゃなかったのだ。
ぱちぱち、と炎の爆ぜる音がする。
縄できつく括りつけられている両の手首が痛い。
そこは広い部屋だった。巫女として様々な神事に関わってきたシャーには、そこが何か儀式を行うための部屋だと分かった。趣きが少し違ったから、頼教のものなのだろう。
シャーは部屋の真ん中で、磔にされているのだった。
部屋には誰も居ない。シャーだけだ。
と思った時、シャーの背後の方から誰かが回り込んできた。俯いているシャーには顔が見えないが、誰かはシャーの正面に立つとそこで止まった。
誰か、なんてどうでも良かった。そんな事に、シャーは興味を抱けなかった。
だけれど、顔を上げろと言った声が、さんざん親しんだ教皇のものだったから、顔を上げてしまった。
見なければ良かったな、とすぐに思った。何故なら、そこに立っていたのは教皇であって、シャーの知る優しいお爺さんでは無かったからだ。
教皇は不気味な無表情を浮かべていて、じっとシャーの事を見つめていた。
それから、口を開いた。
「罪人よ。これよりお前は処刑される。最期に何か言い残す事があれば、聞いてやろう」
教皇がシャーに向けてそう告げた。
広い儀式部屋にはシャーと教皇しかいない。何を言った所で、教皇しか聞く者はいない。
シャーはふつふつと湧き上がってくる知らない感情のままに、教皇を見つめ返す。
「……何が、罪なの? お前たちが隠す真実を、知ってしまったこと?」
教皇は表情ひとつ変えない。
「……世の中、知ってはならん事もある」
「そうね。知りたくなんて無かった。あんな本、読むんじゃなかったわ……」
「……愚かな。哀れな。しかし、罪は消えん。お前は処刑され、神の下に行くのだ」
神。
その言葉が、シャーの魂のどこかで反響した。
「何が、神よ……。私は知ったわ。神さまなんて、どこにも居なかったんだって……っ」
「……神は、おられる」
教皇が、まるで言い聞かせるようにそう言う。だが分かる。そんなものは嘘だ。
「何よ、ふざけないでよ……っ。もう、嘘なんてたくさんなの!」
「嘘では無い。神は、おられるのだ」
「まだそんな事を! 私はあの本を読んだ! もう、全て知ってしまったの!」
「……それでも、神は、主は……。おられるのだ……」
「いい加減にしてよ! 嘘、嘘、嘘ばっかり! 全部全部、嘘だったくせに!」
シャーは叫ぶ。魂が荒ぶるままに、言葉を吐く。
「お前も、お父さまも、お母さまも、教父さまも、神官たちも! みんなみんな、大っ嫌い! 私に嘘だけついて、私を騙して……っ。初めから、私を殺すつもりで連れて来たくせに!」
「贄は尊いお役目だ! お前はそのお役目に感謝し、歓喜せねばならん」
「ふざけないで! 人殺し! 嘘吐き! この、大嘘吐き!」
「……確かに、我々は嘘吐きかもしれん。だが、何も間違ってなど居ない。全ては、神の御意思だ」
教皇はそんな事を堂々とのたまってみせる。不気味な無表情のまま、ガラス玉みたいな目でシャーを見つめながら。
シャーの中で、何かが――。もう、全て壊れ切ったと思っていた心の中で、また何かがひとつ壊れた。
「だから、神さまなんて……ッ!」
「おられる。お前は間違っているのだ。……今のお前に、嘘を吐く必要などもう無い。せめてもの情けだ。お前の間違いを正し、せめて死後は良き場所に迎えられるように祈ってやろう」
シャーは、頭がどうにかなりそうだった。
腸が煮えくり返るような激しい感情――怒りが、シャーの魂を満たしていく。
「『教皇文書』は代々の教皇のみが知ることを許される。それは絶対の門外不出。だが、教皇文書だけで全てが分かる訳では無い」
「どういうこと……」
「神は、おられた。だが、失われたのだ。……いや、それもまた違う。神は今でもおられる。我々の事を見守っていて下さるのだ。今も――」
「――この、大地の底でな……」
「大地の底って、それは……」
大地の底。その言葉に、シャーは思い当たってしまう。あの本を読んでしまった今、自分たちの奉じていた神がなんであったのかを知ってしまう。
言葉が出なかった。嘘だ、と震える口は動いたけれど、声は途切れて出なかった。
「もう、よかろう。処刑を……贄捧げの儀式を始める。哀れな娘よ、せめて安らかに眠るがいい……」
教皇が銀色の剣を手に取る。そして、その切っ先を、ゆっくりとシャーに向けた。
――あぁ、死ぬのか。私は、ここで死ぬのか。
怖かった。かつては死後の楽園を信じていたけれど、今はそれだって嘘だと知っている。
怖い。死ぬのが怖い。消えてしまうのが怖い。
でも、それ以上に。
それ以上に――。
「……許せない」
「なに?」
シャーは、教皇を睨みつけた。
「私は、お前が……! 許せないッ!」
「お前だけじゃない、みんなだ! みんな、みんな、嘘を吐いた! みんな、みぃーんな、私を騙していた! 嘘吐き、嘘吐き、嘘吐きども! 何が神! 何が巫女! 何が楽園よ! 私の人生は、全部全部嘘だったじゃない! そんなもの全部嘘だったじゃないか!! ……お前らなんて、お前らなんて! お前らみんな、地獄に落ちろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
シャーは叫んだ。
怒りのまま、魂が燃え上がるまま、叫びを上げた。
それは怒り、それは絶望、それは呪詛。この世全てへの終わり無き憎悪。
すると教皇は顔面を蒼白にして、必死さを露わに言う。
「黙れ! 何と罪深いことを! 懺悔するのだ、心を落ち着けろ!」
「誰が懺悔などするものか! さぁ、殺せ! 殺して見ろ! 例え私を殺しても、私の怒りは滅ばない!!」
「やめろ! 撤回するんだ、神に懺悔を! 激情を抑えるんだ!」
「殺してやる、お前らをみんな呪い殺してやる! こんな世界、何もかも――」
焦り切った教皇が慌てて銀の剣を構え直す。そして、シャーの胸を――。
「滅んでしまえぇぇええええええええええええええええええええええええええ!!!」
――銀の剣が、貫いた。




