254 呪われし世界
世界は【贄の王の呪い】によって病魔と厄災に見舞われていた。
だが、人類は長い時を呪いと共に歩み、いつしかそれと共存する事に慣れ切っていた。
【贄】を捧げるのだ。
【贄の王の呪い】は、【贄】を捧げる事によってのみ祓われる。
犠牲になるのはたった一人でいい。世界全体で見ても、死ぬのはたったの数人だけ。
呪いを放置する事によって生まれる犠牲者の数と比較すれば、天秤は簡単に傾くだろう。
故に、人類は【贄】を捧げてきた。
呪いが悪化すれば、【贄】を捧げる。そうすることで、おぞましき【贄の王の呪い】と共存してきたのだ。
奇妙な事に【贄の王の呪い】は定式的だった。だからこそ、人類は慣れ過ぎた。
【贄の王の呪い】が致命的な段階に至るまで、およそ十年。
最低でも十年に一人、【贄】を捧げるだけ。それだけだったのだ。
そして、その定式が乱れた時。
人類は長き時の末に忘れていた、【贄の王の呪い】を本当の意味で思い出す。
世界は【贄の王の呪い】によって病魔と厄災に見舞われる。
太陽は陰り、大地は腐り、人々は病魔に侵される。火は絶え、水は淀み、風は病み、土は膿み、雷は欠ける。
呪われし世界にあって、人々は今一度思い出す。
恐ろしき神の大敵、【贄の王】の名を。
――エルメア。
北土地方の西端、外海を臨む文明の覇者。
「――いったい何が起こっているんです!」
怒りを帯びた叫び声が男にぶつけられる。
「現在、まさに調査中であります」
「ふざけるな! 国の一大事だぞ!」
男は額に汗して答えるが、すぐさま違う怒号がぶつけられる。
「分かっております。現在、最大限に急がせて――」
「遅すぎる! 既に犠牲者が出ているのですよ!?」
――そんなことは知っている。
男はそう叫び返したい気持ちを必死に堪え、分かっていますと繰り返す。
「はい。この異常な事態に、我々エルメア議会は全力で問題解決に当たっております」
「首相! 被害はこうしている今も拡大しております!」
――だからどうしろと言うんだ。
男――エルメアの首相は、きっとこの場の誰より叫びたい気持ちを抱えているに違いなかった。
その時、記者会見に使われている部屋のどこかから、激しく咳込む声が聞こえた。
首相は思わずそちらに目を向ける。すると、記者の一人らしき男が身体を折り曲げて咳込んでいる。
まるで内臓ごと吐き出してしまいそうなほどに激しく、とうとう立っていられないのか崩れ落ちてしまう。
「まただ! また! 我々にも感染してしまう!」
誰かが悲鳴混じりに叫ぶ。それを聞いて、記者会見の場は一気にパニックになった。誰もが、この奇病から逃れようと駆け出していく。
「皆さん! 落ち着いて下さい! 落ち着いて下さい!」
首相は声を張り上げる。しかし、パニックはまるで収束しない。
「クソっ! 本当に、何が起こっているんだ!!」
とうとう堪えきれずに叫んだ首相の声が、虚しく喧噪に掻き消えて行く。
――いつの間にか、咳込んでいた記者は動かなくなっていた。
――ファーテル。
北土地方東端に位置する戦士の国。
「うぎゃああああああああああああああああああああああ!!!」
その都の真ん中で、壮絶な断末魔が響き渡った。
それは、巨大な猿に似た魔物に捕らえられ、ゆっくりとその口に運ばれていく女のもの。
ぐしゃり、と果実が潰れるような音と共に、女の上半身が噛み砕かれた。
巨大な口の端からぶら下がる女の下半身が、ビクビクと痙攣して、やがて腰から千切れて地面に落ちる。
自分を取り囲む騎士たちに見せつけるように、猿のような魔物はぐちゃり、ぐちゃりと女の上半身を咀嚼して見せた。
「こっちだクソ野郎が! こっちに来やがれ!」
騎士の一人が叫び、ライフル銃を魔物の頭に向けて発砲する。少しでも民衆から気を逸らせようとしたのだ。
しかし、魔物は人間の何倍もある巨体からは想像もつかない敏捷さで飛び退くと、そのまま大きく跳躍して騎士たちの包囲を跳び越える。
そのまま逃げ惑う民衆の真ん中に着地すると、何本もある太い腕で人々を手当たり次第に鷲掴みにしていく。
嫌だ、助けてくれ、という叫びがいくつも混じり合う。
すると、猿のような魔物は一斉に腕を振りかぶって、他の民衆の方へ掴んだ人を投げつけた。
人と人が強烈に衝突し合う。腕や脚が千切れ飛び、血霧が舞う。
即死出来た者はまだ幸運だったろう。即死出来なかった者たちは、ぐちゃぐちゃになってしまった自分の身体を見つめながら、ゆっくりと血を流して息絶えていく。
その様を見て、魔物はげらげらと笑うのだった。
「クソがぁーーーーッ!」
騎士たちが魔物を追う。ニタニタと笑顔を作りながら騎士たちを眺める魔物を包囲する。
しかし、迂闊に近づけず、また手も出せない。そうした途端、魔物はまた民衆の方へと跳んでいってしまうのだ。
魔物はいたぶるように、楽しむように、騎士たちと民衆を弄ぶ。それが騎士たちにも分かるのに、どうにも出来ない。
奥歯が割れそうな程に歯を噛み締めて悔しさを堪える騎士の一人が、ぶるぶると怒りに拳を震わせた。
「本当に、一体どこから湧きやがったんだ……ッ!」
前触れ無く都を襲撃した魔物は、その声さえ理解しているように、げらげらと笑う。
――魔物は、げらげら、げらげらと。人間たちを嘲笑い続けるのだった。
――ラヴェイラ。
内海を支配する、海原の雄。
「ウソだ。俺の、家が。都が……」
呆然としたように、男が呟く。
そして、力無く膝をついた。
男は幸運だった。たまたま都の外に居たのだ。だから、巻き込まれずに済んだ。
男は不幸だった。たまたま都の外に居たのだ。だから、巻き込まれずに済んでしまった。
男は目にした。真っ二つになった故郷――ラヴェイラの都を。
底が見えない程に深く、地平から地平まで届くほどに長い。
ラヴェイラの都を真っ二つに裂いた地割れは、今も膨大な海水を呑み込んでいるのに、まるで満たされる様子が無かった。
また一つ、自重に耐えきれなかった建物が地割れの底へ落ちていく。
地割れは都の三分の一を呑み込んだ。その中には、サルバ広場があり、象徴たる大灯台があり、そして男の家もあったのだ。
飲み込まれなかった部分もまた、無事では無い。地割れが生まれた時の大地震で、建物と言う建物が崩れ落ちてしまっていたのだ。
あちこちから煙も上がっている。あの下では、きっと火が燃えているのだろう。
呆然と、いつの間にか涙を流していた男はよろよろと立ち上がる。
それから、ゆっくりとした頼りない足取りで都へ斜面を降りて行く。
「さ、探さなきゃ……。ミーア……。生きてる。きっと、生きてるんだ……」
男は虚ろに繰り返す。儚い望みであると自分でも分かっていた。だが、縋るしか無かった。
「どうして、こんなことに……」
瓦礫の山と化したラヴェイラの都に向かって、男は歩んで行った。
――ふらつきながら、ゆっくりと。惨劇に向かって歩いて行ったのだ。
――ガリア。
北土の南、ガリア地方に位置する砂漠の国。
「……ハァ……ハァ……」
女は歩く。その手の中に、ぐったりとした我が子を抱えて。
「……おねがい……ハァ……。水を……。だれかぁ……」
女は歩く。我が子のか細い吐息だけを信じて、有りもしない水を求めて。
「……死んじゃう……ハァ……。こどもが、おねがい……」
女は歩く。灼熱と化したガリアの都、パトソマイアの大通りを。
「……いや……いやァ……。おねがい、おねがいだから……。水……」
渇いていた。
女だけでは無い。都そのもの、ガリアそのものが、渇ききっていた。
いつも通りの日常だったのだ。それが突然、燃え盛る火に炙られているような、灼熱の地獄と化してしまった。
灼熱は全てを焼き、瞬く間にガリア中から水を涸らしたのだ。
だから、水を求めているのは女だけでは無い。
灼熱の都において、誰もが水を求めて彷徨っていた。
涸れた都の只中で、渇いた人々が倒れていく。そして、もう立ち上がる事は無い。
「かみさまぁ……。どうして、こんなぁ……」
それでも女は必死に歩いた。水がどこかにあると信じて、水が我が子を救うと信じて、自らの渇きを無視して歩き続けた。
――腕の中で、子供はもう息をしていなかったが。
――ターレル。
ガリア地方とアッサラ地方の狭間、カンレンギ海峡を挟む東西の聖地。
「こっちだ! ここにも居る!」
一人の騎士が、また生存者を見つけたらしく、大声を上げて仲間たちを呼び集める。
「手を貸してくれ! 一気に持ち上げよう!」
仲間と息を合わせ、大きな瓦礫を何とか持ち上げる。その隙に手の空いている騎士が瓦礫の下に潜り込み、生存者を引っ張り出した。
しかし、生存者は瓦礫に両足を瓦礫に押し潰されてしまったらしく、先を失くした両ももからひどく出血している。
「マズい! すぐに止血を! ……大丈夫! あなたは助かる! 主はあなたを見捨てない!」
ぜぇぜぇと荒く細い呼吸を必死で繰り返す生存者に、騎士は祈るように呼びかける。
頼む、一人でも多く助かってくれ、と。騎士がそう強く願ったとき――。
ドォオオオオオオオオン!!!! と、轟音と共に空から光が落ちた。
光――落雷は騎士たちのいるところがそれほど遠くない場所に落ちると、その衝撃で家々を粉々に砕いて吹き飛ばした。
「クソッ、またか!」
騎士は都を覆う暗い雲を見上げて睨む。
突如として現れた雷雲は瞬く間に東西の都を覆い尽くし、止むことの無い雷を落とし続けていたのだ。
落雷は既に数え切れない程の被害者を生み出し、今なお増やし続け、そして収まる気配は一向に無い。
「これじゃあキリがない……! クソ、一体何なんだ……ッ!」
また、轟音と共にどこかへ雷が落ちた。今度は少し遠いようで、音だけが遅れて聞こえて来る。
あの下ではまた誰かが犠牲になったのかもしれない。そう思うと、騎士は上空の暗雲が憎たらしくてたまらなくなる。
だが、果たして一人の人間風情に何が出来るだろうか。手も届くはずの無い天空から降り落ちてくる雷たちに、人如きがどうやって抗えようか。
「主よ……! どうかお救い下さい、どうか我らをお救い下さい!」
騎士は祈る。神に祈る。救ってくれと、ただ祈る。
「一体何が、どうしてこんな災いがもたらされたのですか……ッ!?」
そして問いかける。何故、と。
――答えは、返るはずも無かった。




