252 龍の巫女
内海の海上において、計五つの光が輝きを増す。
深い青。それは水龍を意味している。
深い青と、淡い黄色。それは水龍と星を意味している。
深い青と、薄い水色。それは水龍と水精霊を意味している。
アッハルは感じていた。
これは何か、いつもと違う。彼が得意とする大魔法【水龍の息吹】であるが、これはいつもと明らかに感覚が違う。
何か、彼の力量を遥かに超えて力が溢れていく。
腕が震える。身体が凍える。視界が明滅する。
止められない。抑えられない。
イスロは感じていた。
いつも一極天を使う時とは全く違う、絶大な手応え。
これだ。これこそ、二極天なのだ。
一極天とは次元の違う強大な魔法、それが今、自分の手元で完成しようとしているのだ。
だが、ああ、何と言う難しさ。
腕が震える。身体が凍える。視界が明滅する。
止められない。抑えられない。
サンは感じていた。
これは、マズいと。
何か、何かサンの知らない大きな何かが、呼び起こされようとしている。
共鳴しているのだ。三つの魔法が共鳴し、大きすぎる力を生み、あってはならない結果を引き起こそうとしている。
違う、と確信した。
これは、もう魔法では無い。何かもっと大きな、ずっと大きな何かが、今。
止められない。抑えられない。
五つの光が瞬く。三者の詠唱は完了した。それでも、魔法は形にならない。
光が輝きを増す。三つの深い青の光が、アッハルの、イスロの、サンの視界を焼き潰し、どこまでもどこまでも巨大に膨れ上がって行く。
それは天に届くほど高く、海を平らげるほど広く、太陽を眩ませるほどに強く、輝き――。
光に呑み込まれ、やがて音が消えた。
――サンが認識していられたのは、そこまでだった。
そこは、深い深い水の底。
光の届かない程に深く、暗く、とても静か。
サンはその光景を、夢だと思った。周囲を見渡しても、どこまでも続いていく水。上を見上げれば、天球のように高い場所に水面があって、光が瞬いている。
魚たちも居た。と言ってもサンの周囲にでは無い。サンよりもずっと上の方、水面にもっと近い辺りだ。どうしてなのか、サンのいるような深い場所には一匹もいない。
サンの身体は、ゆっくりと沈んでいた。
ゆっくり、ゆっくり、水の底へ落ちていく。
抗うつもりは無かった。抗ってはいけないと思った。
何かは分からないが、自分がこの水底に呼ばれているのだという感覚があった。
息苦しさは無い。夢なのだから、当然かもしれない。
そして、沈む。
沈んで、沈んで。
沈んで。
沈んで。
沈んで――。
そして、そこに【龍】がいた。
【龍】は水底で眠りについているようだった。
巨大な体を丸めて、身じろぎ一つしない。
大きな目は閉じられていて、開く気配は無い。
だが、何となくサンには生きていると分かった。
【龍】は生きている。この水底で、眠っているのだ。
ふと、記憶が疼いた。
それはサンという魔物を創り出した、魂の欠片たちの誰か。
その誰かは、この光景を見た事がある。サンの一部として生まれ変わるより、ずっとずっと昔のこと。
『あなたは誰?』
サンでは無い、誰かが【龍】に聞く。
『我は龍』
答えが返る。サンでは無い誰かに向けて、【龍】が答える。
『ここで何をしているの?』
『守っているのさ』
それは記憶。サンでは無い誰かが、遠い昔にここを訪れた時の記憶だ。
その時【龍】はまだ起きていて、その誰かと会話をしている。
『何を守っているの?』
誰かが聞く。
『全てさ』
【龍】が答える。
『全てじゃ、分からないわ』
『全ては、全てさ』
『もうちょっと分かりやすく教えてよ』
『それなら、人の子が知っているさ』
『人の子?』
『そう。我々は人の子に後を託したのさ』
『それって、誰のこと?』
『……さて、名前を忘れてしまったようだ。ずいぶん昔の事だったから』
『それじゃ困るわ』
『ふぅむ。それなら、地上にな、全てが書かれた本がある。それを読むといい』
『本?』
『そう。本だ』
『それは、どこにあるの?』
『最後に見た時、人の中で最も偉い者が持っていたよ』
『偉い人?』
『そう。【神】さまを信じる者たち、その一番偉い人さ』
『……もうお帰りよ。ここは、人の来るところではないよ』
『でも私、どうやってここへ来たか分からないわ』
『なら、帰してあげよう。本来いるべきところに、帰してあげよう』
『ありがとう』
『最後に、名前を聞かせてくれないか。我が巫女よ』
『巫女……? 私の名前なら、シャーよ』
『そうか。また、会いにおいで。――シャー』
『えぇ、また来るわ――』
ふと、記憶が終わった。
サンは、気づくとサンに戻っていた。
目の前の【龍】はやはり眠っていて、起きる気配は無い。
――その時。
サンの遠い頭上、遥か遠くの水面の上から、凄まじい光が輝いた。
その光は余りに強く、あまりに大きく、辺りの水底を一時照らし出してしまうほどだった。
そしてその光を浴びて、目の前の【龍】が――身じろぎをした。
嫌がるように、苦しむように、少しだけ動いたのだ。
その途端だった。
眠る【龍】の体の下から、猛烈な“闇”が噴き出した。
眠る龍がその巨体の下敷きにしていた“闇”のもとが、身じろぎの拍子に少しだけ飛び出てしまったのだ。
”闇“は【龍】の巨体を覆って見えなくしてしまうほどに溢れ出て、暗くて静かな水底をおぞましい真っ暗闇に塗り替える。
“闇”は、そのまま水面に向かって登って行った。
サンを置き去りにして、水底から水面の向こうまで、噴き上がって行った。
そこで、目が覚めた。




