240 死なない羊
「――ザーツラントは、不死の羊だったのですよ」
人は何のために羊を飼うと思うか。
彼の話は、そういう問いかけから始まった。
「――人が肉や皮を採る為に羊を飼うのならば、ザーツラントはまさに羊でした」
ベルノフリートは、“羊”の皇子であった男は、サンと贄の王を前にそう語る。
「肉を削ぎ、皮を剥ぎ、生かさず殺さず、“人”は我らを飼育していた。遥か太古より長きに渡り、時に名前や場所を変えながら、一頭の羊を飼い続けていた。人が長らえるために。人の贄とするために。それこそがザーツラント。不死の羊の国」
言葉はそこで一度切られる。ベルノフリートは自らの言葉がサンと贄の王に与えた効果を確かめるように二人の顔を見やり、それからまた次の言葉を続けた。
「我らは飼われていた羊だった訳ですが、となればその飼い主がいた。我らを柵で囲い込み、鎖で繋いで常に見張って、決して自由を与えないようにし続けた“人”。それは、教会の事です」
「――教会……」
サンが呟きを聞いて、ベルノフリートがサンに目を向ける。そして、今まで見せた事も無いほどに神妙な顔で頷いた。
「そう。我らザーツラント皇統はその初め、ターレル教会に管理されていたとある血統でした。それが、いつの時代かは定かではありませんが、北土地方の一国を与えられた。理由は分かりません。北の神官騎士団の傍に置きたかったのか、単に北土地方に傀儡の国が欲しかったのか……。それは分かりませんが、お飾りの冠と玉座を与えられ、この土地の王を名乗らされました。それがザーツラントという帝国の始まりです」
傀儡の国、と聞いてサンの記憶に蘇る物があった。そして贄の王も同じ物を思い浮かべたらしく、口にする。
「ラヴェイラ革命の折、ラツア司教だった男から手にした情報がある。そうだな、サン」
「はい。ラツア司教によれば、教皇はザーツラントに『ラヴェイラ革命鎮圧の邪魔立てをするな』と指示を出したようです。ザーツラント司教に、では無く」
ベルノフリートはまた頷く。
「事実です。父――亡き皇帝には、教皇より指示がありました。決してラヴェイラ革命を許すな、排除の邪魔をしてはならない、と」
つまるところ――と、贄の王がそこで口を挟む。
「ザーツラント皇帝は教皇の傀儡であった。ザーツラントという国は、教会の隠れみのだった。そういう事だな」
「その通り。皇帝には実質のところ何の権力もありませんでした。重鎮たちはみな教会の手先で、国の財も軍も全て教会の指示で運用されていました。ザーツラントがかつてより戦乱続きの土地であったのはご存じですね?」
贄の王が頷く。これはサンも知っている事、というより北土地方では常識だ。
「戦乱は意図的に起こされていた物です。決して終わらないように調整された茶番劇。武器を売って儲け、人を攫って奴隷とし、時には兵器や戦術の実験に使う。教会が吸い取れるよう課された重税の言い訳にもなっていました」
サンの記憶に蘇る、かつてザーツラントをシックと旅した道のり。二人が巻き込まれもしたあの戦乱は、全て狂言だったのだという。
「馬鹿げた話だな……」
贄の王がそう零す。主の顔に浮かんだ呆れや嫌悪をサンは横目で見て取った。
「教会には、都合が良かったのですよ。我らの民がいくら苦しもうと、教会は何も痛まない。人が羊を食らうように、教会はこの土地を貪っていた」
「それで、“不死の羊”ですか……」
「そうです、サン様。古い時代より現在に至るまで、教会は死なない羊を飼い続けては肉を食らっていた。ザーツラントという名の羊を。……しかし、不死ではあっても不老では無かったのですよ」
なんとも奇妙な比喩である。不死なのに不老ではない、という言葉の意味がサンには分からなかった。
だが、贄の王は何か思い当たったらしい。僅かに目を細めると、呟いた。
「血統、と言っていたな。……薄れたか」
するとベルノフリートは皮肉げな笑みを浮かべながら肯定する。
「良くお分かりに。そう、ここまで語った事はあくまで副次的な話に過ぎません。ザーツラントという国の本来の目的は、とある血統を保存する事。それがつまり我らザーツラント皇統であり、今や私だけがその生き残りとなった訳ですが……。そもそも、何の血だと思われますか?」
サンには、全く想像もつかない。そしてそれは、流石の贄の王も同じだったらしい。
二人の沈黙を面白がるように、ベルノフリートは勿体ぶって口を閉じた。
少しの間があって、やがてサンが先を促そうとした時、贄の王が目を見開く。信じがたい、といった表情をしながら、ベルノフリートに言った。
「まさか……“贄”……!」
ベルノフリートは今度こそ面白そうな笑みを隠さずに首肯した。
「まさに。そして、それはただの贄では無い――」
「――初代【贄の王】の血です」
ベルノフリートも、サンも、贄の王も、何も言わない。
痛いほどの沈黙の中、どくどくという鼓動の音が脳を揺らしている。
じわり、と手に汗が滲む。
少しだけの息苦しさがある。
何か、とてつもなく大きな何かと、サンは今まさに相対しようとしていた。
それが無意識のうちに分かって、緊張しているのだ。
「……話せ」
主がそう言う。ひどく淡々とした口調だった。
「……ここからは、我ら皇室にも隠されていた事です。我が父が若き頃より追い求め続け、ついに手にした真相です。羊が自らを殺す決断をした、その理由。私が部下たちを裏切り、祖国を滅ぼし、父を見殺しにしてこの場に座っている、全ての原因」
いつの間にか、ベルノフリートの顔から表情が消えていた。
「伝承において、【贄の王】とは人では無い。北の地より現れた悪魔であるとされています。しかし、それは大嘘だ。【贄の王】は悪魔などでは無かった。その原初より、【贄の王】は人だったのです」
頷ける話だ。事実、サンの主は人であった。ならばその初代から人だったと考えてもなにも違和感は無い。
「そもそも、【贄の王】とはどうやって選ばれると思いますか?」
サンの主が【贄の王】として選ばれた理由――。今まで、考えたことも無かった事だ。
「実に単純です。初代【贄の王】は、自らの直系、最も自らの血の濃い者が次なる【贄の王】に選ばれるよう、忌まわしき呪いを後世に残しました。まさしく、王族、と言ったところでしょうか」
すると、今代の【贄の王】――サンの主は、何かを理解したように言葉を発した。
「それで、血か。それで、ザーツラントか。それで――」
贄の王が呻くように言う。
「――私か……!」
「主様、いったい……?」
贄の王本人には、全てが繋がったらしい。だが、サンには分からない。震えそうな声でそう聞けば、答えはベルノフリートから与えられた。
「サン様。【贄の王】とは、初代【贄の王】の血が最も濃い者が選ばれるのですよ」
「……え? でも、主様は……」
「ラヴェイラ王族はザーツラント皇族と血が繋がっているのです。かなりの遠縁ですがね」
「あぁ。ラヴェイラの租はそもそも北、ザーツラントの方角よりやってきた豪族だ。更にザーツラント皇族とは、過去に婚姻関係もある」
「しかし……えっと、ザーツラント皇族が初代【贄の王】の血筋ならば、ザーツラント皇族の中から次の【贄の王】が選ばれるのでは?」
「それが不老ではないという言葉の意味だ、サン」
そこで、サンが混乱しているのを見たベルノフリートが一度整理しよう、と言ってくれる。
「初めから行きましょう。まず、教会は初代【贄の王】の血筋を隠し保存していました。それがつまりザーツラント皇族であり、遠縁ではありますがラヴェイラ王族とも繋がっている血です。教会は初代【贄の王】の血筋を保存する為にザーツラントという国を興した。何百年、いや千年以上の昔から、我らザーツラント皇族は保存され続けてきたのです」
「……はい。だからこそザーツラント皇帝には何の権力も与えられず、教会の傀儡であった、のですよね? 間違っても血統が絶えないように」
そこまでは、分かる。
「そう。教会は初代【贄の王】の血を保存し、そこから選ばれる代々の【贄の王】と現れる英雄を魔境へ導き、大地中から【贄の王の呪い】を祓う。この茶番を太古より繰り返してきたのです。それで上手く行っていた。恐らく、初めのうちは」
「だが、やがて歯車は狂い始める。何故なら、血は薄まるからだ」
主が言葉を引き継ぐ。
サンの脳裏に先のベルノフリートの比喩が蘇った。
――不死だが、不老では無い羊。
「まさに。我らザーツラント皇族――初代【贄の王】の直系の血が、代を経るごとに薄れてしまったのです。初めのうちは、直系の血が最も濃かった。【贄の王の呪い】に応じて現れる【贄の王】はザーツラント皇族より選ばれていた。ところが、いつしか血は薄まり、大地中に散らばった初代【贄の王】の血から、たまたま最も濃い者が選ばれるようになってしまった」
「それが此度は私だったのだ。恐らく、散らばりはしても我ら王族といった身分の高い者たちに血は多く残っていたのだろう」
それも、納得出来る。王族や皇族といった高い身分にある者たちが庶民と交わる可能性は低いからだ。
「教会は焦りました。これでは、【贄の王の呪い】を制御出来なくなってしまう、と。ザーツラント皇族はね、サン様。この数代、既に近親婚を幾度も繰り返してすらいるのですよ。我が母もそう。対外的にはザーツラントの名門貴族の娘ですが、実際は夫たる我が父の妹でした」
「妹……!?」
「えぇ。ザーツラント皇族の女児は教会に保護され、大事に育てられます。直系の血を濃くするために。そして長男は皇帝の座を継ぎ、次男以降の男児は処分されます。実は私にも一人弟がいたようですが、顔も知りません。間違い無く死んでいるでしょう」
「馬鹿な……」
ベルノフリートが、兄妹から産み落とされた男が、重々しく頷いた。
「我らは、羊でした。我らに人がましい生は許されていなかった。薄れ切った血を保存しようとする愚かな行いの産物。産まれた時より、いや、産まれる前より、その生も死も道具に過ぎなかった。死なないけれど、不老では無かった。老いさらばえ、最早意味を成さなくなった家畜の成れの果て、です。」
サンは、もう一度『馬鹿な』と繰り返した。それしか言えなかった。
目の前の男の壮絶に過ぎる生い立ちに圧倒されて、おぞましすぎる真実に吐き気がして、とても言葉を紡げなかった。
「……父も、絶望したでしょう。如何にしてこの真相を知ったかは分かりませんが。知ってなお何も出来ぬ自分に、苦しんだでしょう。抗うには、教会の鎖は重すぎた……」
ベルノフリートはそう言って、俯いた。
それから、沈黙が降りる。
それはひどく重苦しく、虚しい沈黙だった。
ふと、ベルノフリートがサンを見た。
「――しかしね、サン様。我ら……父と私に、信じがたい程の幸運が訪れたのです」
「……幸運?」
「えぇ。それらは立て続けに起こりました。――一つ、ザーツラントの抑えの要であった神官騎士団、その団長の死」
思い起こされる。かつてファーテルでサンが命を奪った男、神官騎士団団長ブルートゥ・シュタイン。
「二つ、【従者】によるシシリーア城襲撃」
サンの為した事だ。かつてターレルの都で起こった、贄捧げの阻止。
「三つ、魔物【聖女】によるターレルの都襲撃」
覚えている。東西の都に甚大な被害を与え、【神託の剣】の前に滅んだ魔物。
「四つ、ラヴェイラ革命によるラツア王国の消滅」
ついこの間、贄の王の指揮の下に行われた革命。
「これらの事件により、教会の抑えが緩んだ。教会の戦力は激減し、求心力は落ちた。我らへの抑えに裂ける力が減り、我らが抗う好機が生まれた」
「お二人のお陰なのです。羊が自らの鎖を千切り、鏡を割って己の命を断ち切る事が出来たのは」
――自殺劇。
つまるところ、今回の戦争の真実とは、ザーツラント皇帝の自殺劇だった、という事だろうか。
呪われた血を、老い過ぎた羊を、忌々しい宿命を、終わらせるための自殺劇。
それが、真相だった。




