236 茶番の終わり
ザーツラント南部方面軍壊滅。
ザーツラントにとって衝撃的すぎるその報は、様々な思惑から公的には伏せられた。
しかし、甚大すぎる被害を完全に隠す事など出来るはずも無く、噂となってひそやかに語られる事となった。
更には、神と人類の大敵と名高い【従者】なる闇の魔法使いが関わっているらしい、という噂までがどこからか流れ出る。
ザーツラントの都に住まう人々の間に、誰も表立って口にしないながら誰もが感じ取れる不穏さが現れ始める。何か凶兆を確かに見て取っているのに、皆が皆で目を背けているような、危うい空気感だ。
ザーツラントの都で最上級とされる宿、そこに泊まっているサンにも、民たちの緊張と不安が確かに嗅ぎ取れるようになった頃、またしても皇子ベルノフリートがサンの下へ訪れた。
ベルノフリートは供も連れずに一人で部屋のドアを叩き、招き入れられるなり口にした。
「南が大敗した。ラヴェイラ軍が来るぞ」
あまりにも急な物言いに、事情を知っているのにサンはやや呆気に取られた。
今サンはベルノフリートに依頼されて帝都防衛に協力している、という名目でここに居る。都合上、自分には知らされる事もあるだろうなと思ってはいたのだが、この男がこうも単刀直入に会話を進めるというのは意外だったのだ。
「南部方面軍、ラヴェイラとの戦線は崩壊した。後方の兵站基地まで焼き払われて、防衛戦は維持出来ていない。ラヴェイラ軍はもう帝都のすぐそこに迫っていて、明日の昼には大軍が押し寄せて来るだろう。こっちも大慌てで兵力をかき集めているが、はっきり言ってただの寄せ集めだ。帝都は落ちるだろうな」
「え、えっと……」
一気に語られてしまい、やや情報の処理に手こずる。『エルザ』という立場で知っていていい事、知っていてはいけない事、今語られた事、そこから発想するだろう事。
「南でラヴェイラ軍と戦っていた味方が負けてしまって、敵が近づいている。そういう事で合っていますよね?」
「そして帝都を守り切る戦力は間に合わない。噂は聞いているか?」
「えぇ、少し……」
本当の所、直接誰かに噂を聞かされたりはしていない。と言うより、皇子ベルノフリートが連れて来た得体の知れない少女『エルザ』には雑談を交わすような間柄の人間が居ない。
「具体的には? どこまで聞いてる?」
この質問は少し注意が必要だ。迂闊に話してしまうと、知るはずの無い事を知っていると看破されかねない。
一応、自分で市井に情報を流して予防線を張っておいたのだ。その部分ならば問題無いはずである、と恐る恐る口にする。
「確か、【従者】が関わっている、とかなんとか……」
この辺りはサンが流布したのだ。知っていておかしい事は無い、と思う。
サンの言葉を聞いたベルノフリートは大仰に天井を仰ぎ、左手で顔を覆う仕草をした。
「そこまで流れてるのか。……困ったもんだな」
やれやれ、と大げさに溜息を吐いてみせられる。
「――本当に、困ったもんだ」
「……?」
意味深長に繰り返された呟きには、明らかに何かの含みがあったように感じられた。
しかし、サンが何を言うよりも先にベルノフリートが手を叩いてその間を潰してしまう。
「さて、今日の本題だ、エルザ。戦況が大きく変わった居間、君に実際的な戦いが迫っている。単なる名目でなく、本当に帝都防衛に参加してもらう可能性が強くなったって事さ。で? どうする?」
「どうする、とは……?」
「帝都に留まるか、逃げるかさ。何だかんだ君は軍人じゃない。逃げる権利が君にはある」
そこで、サンは少し迷った。いや、迷うフリをした。
サンが選ぶべきは既に決まっている。ラヴェイラ側のスパイとして、贄の王の命を果たすべき従者として、帝都から離れる訳にはいかない。
「……お気遣い、ありがとうございます。しかし、殿下にはお世話になっていますし、私も戦う力を主より与えられた身。ここに残りたいと思います」
「いいんだな?」
「はい。もしもの時は、私も戦力としてお使い下さい」
「そうか」
もちろん、嘘だ。サンにとって本来の味方であるラヴェイラ軍と戦う理由は無い。
ただ、ここでこう言っておけばベルノフリートというザーツラント中枢へ近づく情報源から離れないでいる事が出来る。
とは言え、『ベルノフリートはサンがスパイだと気づいている』という贄の王の言葉を思い出せば、全ては下らない茶番かもしれないが――。
「――そうか、そうか。エルザ、君はファーテルのスパイか」
そう言って、ベルノフリートがサンに向けた右手には拳銃が握られていた。
一瞬、何を言われたのか理解が遅れる。
そして理解してからは、何を言うべきか分からず黙ったまま、向けられている銃口の暗い穴を見つめる。
「スパイだってのは、割とすぐ分かったんだ。所属が何処なのかだけ掴めなかったんだが」
「……」
――どうやら、茶番は終わりらしい。随分、急な展開に持ってきたものだ。
「驚かないな。さては、俺にバレていると分かっていたな? 全く、可愛い顔して案外、だな」
「……そうですね。泳がせてもらえるなら好都合と思っていました」
サンは敢えて、ベルノフリートの勘違いに乗る事にした。
ベルノフリートがいつどこでスパイであると気づいたのかは分からないが、彼は一つ間違えている。
サンはファーテルのスパイではない。
「でも、どこで気づいたのですか? 私、そんなに分かりやすかったでしょうか?」
「ほとんど最初からだよ。正直、スパイとしては才能無いぜ」
ぐさ。
「……し、仕方ないでは無いですか。私、スパイとしての訓練なんて何も受けてませんし……」
「はっはっは。若きスパイの今後に期待、だな。……今度があれば、だが」
サンは動揺らしい動揺もせず、銃口の向こうにあるベルノフリートの瞳を見つめ返す。
「この状況、多分勝ち目は私にありますよ」
「勝てるとは思ってないさ。――君には協力を求めようと思ってな」
「協力?」
「そう。セノジア独立の裏にファーテルが居るのも、ファーテルとラヴェイラが繋がってるのも分かってる。だが、【従者】参戦と南部方面軍崩壊はファーテルにとって予想外のはずだ。このまま美味しい所をラヴェイラに持っていかれるのは、君の母国にとっても面白くないだろ?」
セノジア、とはザーツラント国内に存在するファーテル系の街の一つだ。ラヴェイラとザーツラントの戦争開始と同時にザーツラント帝国へ独立宣言を為し、ザーツラント本国に二正面作戦を強いる結果を導いた。
「……つまり、私に何をしろと?」
「ラヴェイラ軍の相手をして欲しい。その隙に北部の軍も下げて、ファーテルに降伏する。戦勝の第一功はファーテルって事にするのさ」
「意図が読めませんが。続けて下さい」
「ファーテルへの賠償金は増額。セノジア独立を承認。ファーテルとラヴェイラはザーツラントからの毟り合いで対立。その隙に俺たちは再興の好機を窺う。そして君個人は――」
ばん! と、ベルノフリートが天井へ向けて発砲する。
すると、部屋のドアが勢いよく開け放たれ、銃を構えた軍人たちがぞろぞろと入ってきた。
「――ここから生きて帰れる」
サンは自分をぐるりと囲んでライフルを構えている軍人たちを見回す。その中には多少仲良くなった女性兵士ゲルトルーデも居て、怒りの目でサンを睨みつけていた。
「なるほど。でも、少し弱いですね。まだ分は私にあります」
半分は、ハッタリだ。流石にサン一人ではどうにもならない。
だが、この状況をサンの主が見ている。先んじて起動しておいた連絡の指輪越しに、サンを守ってくれている。主頼りと言うと情けない話ではあるが、天災が振りかかろうとサンの身に危険は無いも同然なのだ。
サンの確信がベルノフリートにも伝わったらしく、彼は両手を上げてやれやれとため息を吐いた。
「おいおい、本気かよ。この状況でもまだ余裕なのか。見誤ったな」
「それで、どうしますか? 協力者に取る態度では無いと思いますが」
「分かった分かった。何が欲しい?」
「情報を。私の質問に答えて下さい」
サンが余裕を見せつけるようにそう言うと、女性の怒声がサンに向けられた。
「貴様ッ! 図に乗るなよ裏切者!」
それはゲルトルーデだ。仲良くなり始めていた人間から向けられる怒りと憎しみに、サンの心が重く軋む。
それを意識して押し殺し、まるで意に介していないという風に装う。
考えて見れば、サンは直接に悪意をぶつけられた経験など殆ど無かった。
「やめとけやめとけ。このエルザを見るに、命の危険があるのは俺らの方らしい。大人しく従っとこうじゃないか」
ベルノフリートに制され、ゲルトルーデが口をつぐむ。彼女がどんな顔をしているのか、サンは努めて見ないようにした。
「で、何が聞きたいんだ。答えられる事なら何でも答えよう」
妙に物分かりがいい。サンは内心の警戒を強くしながら口を開いた。
「では、そもそも何故こんな戦争を? この現状、ザーツラントがラヴェイラに口を出さなければ起こらなかった筈です」
「そりゃ、勝てると思ったからに決まってるさ。いや、俺じゃなく親父――皇帝陛下がな。俺は止めたんだが、革命でゴタついてる今ならってな。全く、我が親ながらやってくれたぜ」
「私を泳がせていた理由は?」
「無闇に敵対するには戦力として大きすぎた。所属も分からなかったしな。利用出来るかも、と思ったんだ」
「この戦争の落としどころについて」
「ラヴェイラとファーテルの内輪揉めを誘発して、領地と金で敗戦処理。出来れば帝国の形は残したいね」
「……ザーツラントと教会の繋がり」
それはサンが最も聞きたかったこと。それを、あくまで何でもない風に聞く。
だが、その質問を聞いた瞬間にベルノフリートの顔から初めて余裕が消えた。
「――どこまで知ってる?」
「何も知りませんよ。それに、聞いているのは私です」
「……ふぅん。しかし、そいつは言えない。そいつは俺の首より重いからな」
『言えない』。それは明らかな拒絶。
しかし、サンはその黙秘を認めまいと――。
「今日はここまでにしようか、お姫様。また時間を繕う。今日の所は、これで失礼するぜ」
それだけ言うと、ベルノフリートはさっさと踵を返して部屋を出ていこうとする。
「な――。まだ話は!」
「終わりだ。残念だが、また今度」
サンは動こうとしたが、その間に兵士たちが飛び込んできて壁になる。そしてその壁の向こうから、ベルノフリートの声がした。
「じゃ、ファーテル王によろしくな。エルザ姫」
その呼び名を聞いて、サンの思考が一瞬の空白を生んでしまう。あっ、と思った時には、もう出遅れてしまっていた。訓練された人間たち特有の俊敏な動きで軍人たちが部屋の外へ駆け出て、ドアを閉ざしてしまう。
慌ててそれを追おうとしたサンは、ふと視界の端に映った人影を見て動きを止めた。
それは贄の王だった。いつの間にか、先ほどまでベルノフリートが居た場所に居る。
指輪越しに状況を見ていたはずの主の登場に、サンは今度こそ驚いた。さらにその贄の王が僅かも動こうとしないのを見て、やや困惑しながら聞く。
「……良いのですか?」
「構わん。それより、火急の報せがある」
贄の王は、極めて深刻そうな表情でサンに目を向ける。それから少し口にするか迷うような素振を見せてから、言葉にした。
「ラヴェイラに居られなくなった。奴が近づいているらしい」
ラヴェイラに居られなくなった、という言葉の意味をサンが理解するには少しの時間が必要だった。
それを理解すると、サンはバクバクと痛い程に早まる動悸を感じながら、喉を震わせた。
「や、奴って、まさか――」
「そうだ。【神託者】が、このザーツラントへ向かっている」
「大隊長! どうしてああも……!」
「まぁまぁ、落ち着けって。ちゃんと考えあっての事さ」
部下のゲルトルーデに詰め寄られるのを躱しつつ、ベルノフリートは馬車に乗り込んだ。彼は普段から自分の馬車に部下を同乗させない。馬車に乗り込むのは、一人で考えさせろという合図でもあるのだ。
静かに動き出した馬車の中、ベルノフリートは考えを巡らせながら誰にともなく呟く。
「さて、今のところは『灰の鷹』たる俺の手の上だ。最後まで上手く踊ってくれよ? ――【従者】エルザ」




