221 スパイ・エルザ
サンの姿はザーツラントの都より北方、親ラヴェイラ系民族が支配する地域の中心都市である、ヴェーアドにあった。
ザーツラント本国へ潜入し、その狙いなど重要情報を持ち帰る事が、今回の役目である。言うなれば、スパイだ。
しかしザーツラントの都は昨年から戒厳令を敷いているくらいで、防諜対策は万全。素人のサンがやすやすと忍び込める場所では無い。
そこで、先んじてザーツラントに入り込んでいるラヴェイラのスパイと接触し、情報や指針など協力を仰ぐ。
”闇“の魔法【転移】や【透視】を活かせば、本職のスパイでも手に入らない情報を手に出来る可能性は十分にある。だからこそ、贄の王もサンを送り込んだのだろう。
あらかじめ知らされている会合の場所に向かう。もちろん、周囲に警戒しながらだ。
ヴェーアドはザーツラント国内でも最も親ラヴェイラ系の力が強い街。だが、当然ラヴェイラとの連絡を警戒するザーツラントの監視も厳しい。いくら警戒しても足りないくらいの心構えで良いだろう。
そうして歩いていくうち、知らされていた場所に着く。そこは、特別見るところも無いような印刷会社だった。
サンが入り口のドアノッカーを叩けば、ほとんど同時と言ってもいいくらいに素早く返事があった。男の声だ。
「はい、どちらさま?」
サンは定められた合言葉を頭の中で一度確かめてから、口に出す。
「すみません。先日お手紙を差し上げたエルザという者です」
手紙を書いたのも、この住所に送ったのも本当だ。こういう地道な努力の積み重ねの先に、スパイの成果がある、のだとか。
「あぁ、エルザさんね。はいはい、お待ちしていましたよ」
声と共にドアが開かれ、中に招かれる。入れてくれたのは、人の良さそうな赤ら顔の男だった。
「やあやあ、わざわざありがとうね、エルザさん」
「いえ、こちらこそありがとうございます。お忙しい所お邪魔してしまって」
「いいよいいよ。言っちゃなんだけど、お仕事だしね。よし。早速だけど、こっちこっち」
恰幅のいい男のどすどす言いそうな歩みに続いて、地下室まで降りていく。やけに分厚い扉の向こうには、如何にも倉庫と言った感じの部屋がある。
男がドアを閉めて鍵をかける。二人で大して広くも無い密室に閉じこもった形だ。
「――それで、あんたが『エルザ』ねぇ。こんなガキにままごと以外出来るのか疑問だが、まぁ仕事だ仕事」
扉を閉めた途端、男の雰囲気が変わる。如何にもお人好しな風体のまま、その目だけが不気味な鋭さを宿す。こちらが、男の本性なのだろう。
「この部屋は安全なのですか?」
「人に聞こえる場所で本音出す訳ねぇだろ。防音は完璧だ」
本職がそういうのだから信じていいのだろう。サンは改めて自己紹介を、と名を名乗る。
「では。――私が『エルザ』です。ドン・フランコ、アルマン将軍、フェッロ卿三名の同盟関係である我が主の命により、ラヴェイラより参じました。スパイとしては素人ですが、色々と特殊な魔法が使えます。よろしくお願いします」
サンの名乗りを聞いて、男は片方の眉をぐいっと上げた。
「随分な大物の名前が並んだな。お上の無茶ぶりだと思ってたが、そうでも無いのかね。……特殊な魔法、ってのはなんだ」
「【転移】、【透視】、【欺瞞】、【飛翔】などいくつか……。詳細まではご容赦を」
「……へぇ。面白そうだな」
どうやら、ある程度の信用と興味を勝ち取れたようである。
「んじゃ、俺が『マルディン』だ。当然偽名。職業は小せぇ印刷会社の社長。これもハリボテ。普通の妻と普通の娘がいる。嘘。以上だ」
全て偽りの身分ということらしい。当然だが、本当の姿を明かす気は無いらしい。
「よろしくお願いします、マルディンさん」
「あいあいよ。じゃあ早速仕事だ」
マルディンは倉庫にたくさんある棚の一つに手を突っ込むと、何やら畳まれた地図を取り出して広げた。
「こいつがザーツラントの勢力図だ。北西、親ファーテル系。主要都市セノジア。北東、親アッサラ系。主要都市ツィークフォン。中央、親ラヴェイラ系。都市はここ、ヴェーアド。南東、ザーツラント本国。当然、都が主要拠点だ。それから、あー……リバンどもとマグノは、まぁ取り敢えずいい。お前の任務じゃ出て来ねぇだろ」
「ふむ……。端的に、私の任務とは?」
「本国の防諜は被害妄想の行き過ぎなくらいだ。素人スパイなんてすぐ捕まる。ま、スパイじゃなくても捕まるが。という訳で、本国に忍び込むにはお前の身分を保証してもらう必要があるって訳だ。分かるか?」
「ザーツラントの身分がある人間に私を信用してもらうという事ですね。それも、出来れば高い身分の人間に」
「よしよし。話が通じるヤツで安心したぜ。で、お前のターゲットは今、ここにいる」
マルディンが太い指……いや、よく見るとそれは意外に細い指をしていた。どうやら、外見も大分作ってあるらしい。
ともかく、その指で指し示したのはザーツラント北東の都市、ツィークフォン。親アッサラ系支配地域の最大都市だ。
「このツィークフォンに誰かが来てる。誰かは知らん」
「その誰かに近づけ、と?」
「あぁ。まずは誰なのか特定しろ。それで俺に報告。そうしたらそいつに近づけ。行けそうならそいつと仲良くなれ。とにかく、その『誰か』の情報を片っ端から集めて来い。小便のしかたからケツの拭き方まで全部だ」
サンは努めて下品な例えを無視した。
「現状、分かっていることは他に?」
「そいつ本人は軍属の要人とまで分かってる。そいつの部下あるいは部下と親しい連絡将校が特定されてるから、そこから辿れ」
「その連絡将校というのはツィークフォンに居るのですね?」
「もちろんだ。その要人の近くと都の連絡を担当してるんで、この間ヴェーアドを北に通過したばかり。今追えば、ケツを見つけられるはずだ」
マルディンが封筒を差し出してくるので、受け取る。中身は連絡将校の情報らしい。
「いいか? お前はその連絡将校を見つけ、ケツを監視して、要人を特定。んで、要人の情報をとにかく、ひたすら、徹底的に集める。そして付け入る。その要人に『エルザ』という亡命貴族の身分を信用させるんだ」
「最終的にはその要人からザーツラント中央の情報を探る、と。分かりました。やりましょう」
「ようし。なかなか悪くない出来だな。見た目もいい。要人が男なら愛人役を勧めるぜ。男はベッドの中なら何でも喋るからな」
「……一応、考慮しましょう」
嘘である。考慮はしない。
「女なら少し気を付けろ。女の敵は女の勘だ。お前、男の取り合いになんかなるなよ」
「気を付けましょう」
嘘である。別に気を付けない。
「ようしよし。俺からは終わりだ。何かあるか?」
「いえ、特には」
「んなら、即行動あるのみ、だ。一刻も早くツィークフォンに向かって、連絡将校のケツを追っかけろ。穴が空くほど見つめてやれ」
「……私、下品なの嫌いなんですけど」
「そうか、俺ぁ好きだ」
下品おやじと別れ、サンはヴェーアドの街を歩き出す。
歩きながら、【欺瞞】を発動。そのまま路地を曲がる。
【欺瞞】とは周囲の人間の感覚を誤魔化す魔法だ。遠方からでは見えなくなるし、近くても見えにくい。触れ合う程の距離だと流石にどうしようもないが、居るかも知れない監視の目を撒くにはこれで十分だ。
そこで【転移】。一度安全な城に帰ってから、マルディンに渡された連絡将校の情報を頭に叩き込むつもりだ。
サンの身体から湧き上がる黒い揺らめきがサンを覆い尽くし、呑み込んで行く。
やがてその闇が霧散した後には、もう誰も居ないのだった。
数日後、ツィークフォン。
親アッサラ系が支配するザーツラント北東部において最大の街。そこに、サンの姿はあった。
フードと仮面で顔を隠したサンは、屋根の上にしゃがみ込み、【透視】の力で一人の男を監視している。
男は実にありふれた外見をしており、休日に街の散策をしているかのような気軽さで通りを歩いている。
だが、それが偽りであるとサンは知っていた。
そのありふれた外見の男こそ、サンが追っていた連絡将校だ。マルディンのくれた情報――ご丁寧に似顔絵まであった――と身体的特徴も一致する。
どうしてわざわざ偽装などしているのかと言うと、特に秘匿性の高い情報を運んでいるからだ。軍服に馬だと何かと目立つので、徒歩で軍の機密を運んでいるのだ。
そのお陰でサンが彼を発見するのにも苦労した。何せ南からツィークフォンに入る人間を片っ端から照合する必要があったからだ。とても地道な作業と努力の先に、この発見はあった。
一般人に偽装した連絡将校は何気ない風を装いながらも、着実にツィークフォンの軍基地まで向かっている。
サンは考える。どう襲撃をかけるか、だ。
男は一介の連絡役に過ぎず、機密に触れる権限は無い。つまり、手紙か何かを隠し持っているはずなのだ。適当な場所で襲撃をかけ、それを奪い取るつもりだった。
速度という大きな利点を捨ててまで秘匿性を高めて運ぶその情報が、件の『要人』に関連している可能性は高い。やや強引でも逃したくない好機だ。
連絡将校の方もそんな事は分かっているらしく、絶対に人目の無い場所へ入ろうとしない。
いっそ堂々と不意打ちをしてしまおうか――などと、サンが考え始めた頃。
唐突に銃声が鳴り響いた。
拳銃では無い。音からして、ライフルか何か。
そして撃たれたのは――サンの追っている連絡将校だ。
どうやら足に命中したらしく、ひっくり返って足を抑えている。
銃声に驚いた周囲の民がざわめき、苦悶の声を上げている連絡将校に注目が集まる。
連絡将校は周囲の人間になど構わず、物陰に隠れようと近くの路地裏に身を潜らせようとしている。
だが、【透視】で見通すサンには見えている。路地裏から男目掛けて走っている、3人の襲撃者の姿が。
「……ふぅ。どうしてこう、上手く行かないのかなぁっ」
愚痴を一つ零しながら、サンも屋根の上を連絡将校目掛けて走り出すのだった。




