206 『八百屋』と『肉屋』
男が建物の陰に入っていくのを見送ってから、積み上げられた木の箱に指先を近づける。
魔力を指先に集め、練り上げてから、“かたち”を編み上げる。
魔力で編み上げられた“かたち”は、魔導の必然により事象となって発現する。
指先にぽっ、と現れたのは火である。”炎“の魔法、その無詠唱だ。
ぢりぢり、と火が木の箱を炙り、焦げ臭さが鼻をつく。箱の表面が丸く縦長に焦げていき、それがゆっくりと広がっていく。
しばらくそうしてから指先を離すと、木の表面に火が移って箱自体が小さく燃えだしている。
それを確認した後、何事も無かったかのよう表通りへ出ていく。決して振り返らず、怪しい挙動を一切取らない。
そして歩きながら、じわじわと【欺瞞】を発動させる。ゆっくり、ゆっくりと、周囲の人間の認識から抜け出ていく。
そのまま適当な脇道を曲がり、人目が無い事を確認してから【飛翔】で浮き上がる。
屋根の上に降り立って、先ほど火をつけた木の箱が置いてある物陰の方へ目を向ける。すると、既に細い煙が上がっている。
――火の勢いが強すぎたかな?
やがて細い煙が上がっているすぐ隣の建物からどたどたとやかましくガラの悪い男たちが飛び出てきて、小さな火元を見つけた。何事かと騒ぎながらも何とか火を消し止めたようだ。
大きな火事になっては困るところだったので、一安心である。
そのままばたばたと走り散っていく。怒声混じりの様子から察するに犯人捜しだろう。
もうしばらくここで見ていれば、火元の近くにおびき寄せた男が発見されて、犯人として引っ張られてくる場面まで見ていられるかもしれない。
しかしそこまで確認するつもりは無い。サンは作戦成功、と独り言を呟くと、【転移】を発動してアジトへ帰っていくのだった。
サンが【転移】で移動した先はベルナンデの街にある至って普通の民家の一階。もちろん、普通なのは建物だけで、生活しているのは普通の住民ではない。
「――お疲れ様です、姫!」
「あぁ、姫!お疲れ!」
【転移】で唐突に現れたサンに驚くこと無く、『姫』と呼んで労いの言葉をかけてくるのは至って普通の男女。こちらももちろん、普通なのは見た目だけだ。
「お疲れ様です。……姫はやめて下さいってば。」
やや困り気味にサンがそう言うが、二人は全く改める気は無いのだろう。このやり取り自体何度目か分からない。
「まぁまぁ。それで、『仕事』は?『お客』は気付いてくれた?」
話を振ってくるのは女の方。
「いいえ。残念ながら、誰にも気づかれませんでした。『お仕事』自体は上手くいったんですけど。」
「そうかぁ。ま、『今後に期待』だね。」
「えぇ。『おじさん』にも『相談』してみます。」
サンと女のやり取りは、誰かに聞かれても問題無いように簡単な暗号を用いている。例えば『お客』は標的の事だし、『相談』とは報告の事だ。
「それにしても、これで『八百屋』と『肉屋』が『仲良く』してくれればいいんですけどね。」
そう言うのは男。設定上はこの家に住む夫婦の夫だ。
「そうねぇ。いつまで『喧嘩』してるんだかねぇ。」
答えるのは女。同じく、設定上は夫婦の妻だ。
「でも、お互いに意識はしているようですよ。『仲直り』ももうすぐだと思います。」
サンの設定は夫婦の下に居候している少女。娘にするには外見が違い過ぎた。
三名の会話は王政派と中立派のチンピラたち同士の敵対に関して。サンの暗躍により、互いへの疑心と苛立ちを高め、衝突するまで秒読みの段階まで来ている。
今回の作戦の目的は、ベルナンデの街で抗争を煽ることで治安を悪化させ、ベルナンデに兵力を集めているカンパーナ卿が兵力を動かせないよう妨害するというもの。全兵力は治安維持に当てるには過剰だが、長引く抗争対策に兵力を分けてくれれば充分である。
カンパーナ卿の軍が動かない、あるいは弱体化すれば、ラヴェイラ派への武力鎮圧を防ぐ事が出来る。
むしろ、半分ほどの兵力で鎮圧に挑むが失敗、というのが最も理想的な展開だ。貴族に抑えつけられながら必死に戦うラヴェイラ派は、王政に不満を持つ民には英雄的に映るだろう。結果的にラヴェイラ派への追い風になるのだ。
かんかんかん! とノックの音が響いて、それから声が聞こえてくる。
「おーぅい! いるかーぁい!」
知った声だ。サンは小走りでぱたぱたと玄関に向かうと、返事をしながらドアを開ける。
「お! 姫ぇ。元気そうじゃぁんか!」
にこにこと人好きしそうな笑顔の農家風の男は、フランコの手下の一人で連絡役の人間だ。夫婦の友人であり、よく野菜を持ってきてくれる、という設定だ。今回も何やら大きな袋を担いでいる。
「えぇ、元気ですよ。どうぞ、上がって下さい。」
「や、すまねぇなぁ!」
どしどし、と重そうな足取りで入ってくる農家風の男は、夫婦役の二人の傍まで寄ってくると、担いでいた大きな袋をゆっくりと、音を立てないように床に下ろした。
「いやー、ここに来る前に『八百屋』んとこ覗いてきたんだけどなぁ。まさに『肉屋』と『仲直り』してるとこだったんだよ。お互い、まぁ気にしてたんだぁなぁ。」
「おや、そうかい! そりゃいい事だね。」
「吉報、という奴ですかね。そちらの袋は?」
「こいつぁまた『野菜』だよ。今回はちょっと多いか? ま、好きにしてくれなぁ!」
「それはまた、ありがとうございます。いつも悪いですね。」
「いいってことよぉ。」
農家風の男――連絡役が言うには、王政派と中立派のチンピラ同士が衝突したとのこと。どうやら、サン達の思い通りに動いてくれたようだ。
妻役の女が屈みこみ、大きな袋から何かを取り出すと、掲げる様にして眺める。
それは拳銃だ。光に当たって、鈍い輝きを反射している。
夫婦役が住んでいるこの民家はラヴェイラ派の拠点として、武器や金品を集めているのである。『野菜』とはそれらを指す暗号だ。後にベルナンデをラヴェイラ派に呑み込む際に役立てるつもりらしい。
らしい、と言うのは、その頃にはサンは都の方に戻っている予定なので、詳しい事を知らされていないのだ。また知る必要は無いし、知るつもりも無い。サンから情報が洩れる可能性はまず無いが、徹底するべきところだと思うからだ。
「『仲直り』の様子は如何でしたか? 順調でしたか?」
サンが連絡役の男に聞く。王政派と中立派の抗争はなるべく長引かせたい。あまり激しいと困るのだ。
「まぁなぁ。あの分ならいい感じだなぁ。あ、そうそう『八百屋』が、最近売り上げが低いって嘆いてたなぁ。適当に『買い物』してやったら助かるかもしれねぇなぁ。」
『買い物』とは資金や物資の横流しを指す。こっそりと『八百屋』、つまり中立派を支援してはどうか、という打診だ。
サンはその場で少し考え――ひとつ頷く。
「そうですね。いつもお世話になっていますし、『八百屋』さんで少し『買い物』をしてあげましょう。腹が膨れれば『肉屋』さんと『仲直り』もしやすいでしょうし。」
連絡役の男の打診を許可。指示さえしておけば彼らが上手くやってくれる。サンはいわば指揮官だ。
「やぁ、それなら『八百屋』も助かるだろ。流石は姫だなぁ。」
「もう。その姫って言うの、やめて下さいってば。」
「いいじゃねぇのぉ。『王子』様には『姫』がぴったりだしなぁ。」
「あっ……。そ、そういう意味ですか!? 余計ダメですよ!」
「はっはっはぁ! 聞こえんなぁー。」
ロッソもそうだったが、どうして皆サンをからかいたがるのか。それも、サンが……『王子』と良い仲だという風に。
「事実無根です! 全くの勘違いです!」
それが『王子』本人に届いたらどうするのか。そうなったらとてもでは無いが、サンは『王子』と顔を合わせられない。本当にやめて欲しい。
「いやぁ、もう定着しちまってるしなぁ。大丈夫だぁって。ちゃんとお似合いだからなぁ。」
「ダメですってば! もぉ!」
だが残念ながら、みな笑うばかりでサンの言葉を相手にはしてくれないのだった。
「もぉーー!」




