186 飢えた空
迫る、迫る、落ちてくる。
黒い空が、まるごと真っすぐ地上めがけて。
大地を全て平らにすべく、何もかもを呑み込むべく。
血肉に飢えた貪欲の群れ、骨も欠片も喰い尽くす暴食の軍勢が。
黒い空が、落ちてくる――。
「ふ、降って来てる、のか……。」
「ちくしょう、あんな数をどうしろと……。」
「ははは……。東都の、新しい名物にならねぇかな……。はは、は……。」
騎士たちが愕然として、ある者は武器を取り落して空を見上げる。だが、知能の無い落とし子たちはそんな隙を待ってなどくれない。迫る空に衝撃を受け、硬直した合間を落とし子に喰らいつかれ命を落としてしまう者が続出した。
そのとき。
「怯まないで!!騎士たちよ、奮い立ってッ!!神は我らを守りたもう!神は我らと共にあらんッ!!目を覚ませ、騎士たちよッ!!!」
声を張り上げるは英雄シック。まだ若く、重すぎる宿命と共にある少年。飾り気の無い剣を掲げ、騎士たちを奮い立たせんと叫ぶ。
「『神は我らに試練を与えん!試練は辛く、成り難し!しかして試練を越えたなら、神の恩寵賜らんッ!!今こそ人よ、艱難辛苦の試練の時なりッ!!』」
紡ぐ言葉は聖詩より。俗世を捨てて神に仕える神官騎士団の者にあって、その連なる言葉に聞き覚えの無い者など居ない。
「立てよ騎士たち!今こそ試練を越えるぞッ!!剣と銃を持て!神の敵を討つべき時だァーーーッ!!!」
故に、英雄の魂からの叫びは誰もの魂に届く。熱を与える。力を取り戻させる。
絶望に呑まれかけようとしていた騎士たちの瞳に、力が戻り始めた。
「前線部隊!歩兵の貴様らはそれぞれ離脱ッ!各部隊散開して船まで離脱せよーーッ!!」
続いて叫ぶは指揮官の騎士。老いてなお轟く声は力と威厳に溢れている。
「中央部隊!騎兵の我らは駆け抜けるッ!隊列を維持したまま目的地まで全力疾走だーーッ!!」
指揮官は知っている。騎士たちは本質的に軍人なのだ。軍人とは、命令を受けて動くもの。命令を受ければ動けるもの。
「いつまで震えているッ!!神に剣を捧げし者どもッ!!貴様らは何をしにここまで来たッ!!無駄死にする為ではあるまいッ!!動けッ!!!動くのだ者どもッ!!!」
英雄に力を授かり、指揮官に意思を与えられた。ならば、もう騎士たちが動かない理由などありはしない。
ひとり、またひとりと動き出し、瞬く間に全部隊の指揮が回復。再び落とし子たちは迎撃されるようになり、無駄な犠牲者は生まれなくなった。
それから前線部隊は大きく散開。中央部隊の道を開けた。開いた道を、騎馬の中央部隊が一気に駆け抜けていく。飛び掛かってくる落とし子も馬の突破力で無理やりに弾き飛ばし、強引に抜けていく。
それを見た歩兵の前線部隊は散り散りに離脱。部隊単位での撤退へ移行した。
落ちてくる空、その脅威に立ち向かうべく、あるいは逃れるべく、騎士たちは駆け抜けた。
当然、“聖女”本体がムッスル=ア城に居ると目されているのにはいくつかの理由がある。
ひとつ、有する戦力。
西都でも“聖女”は雌伏ののち真っ先に騎士団本部とシシリーア城を狙いに来た。恐らく、最も脅威となるのがそこだと分かっていたのだ。ならば東都でそれらに当たるところはどこかと言えば、大祈祷殿ムッスル=ア城に他ならない。
巨大な本殿――あるいは本丸――に加え、周囲をぐるりと囲む軍施設からなるムッスル=ア城。シシリーア城と騎士団本部を合わせたような場所だ。当然、東都の最大戦力はムッスル=ア城になる。
もちろん最も人が多いのもここであり、これを落とせれば“聖女”は大幅に力を得る事が出来るだろう。
ひとつ、見晴らし。
東都では伝統的に背の高い建物が多いが、ムッスル=ア城のそれは群を抜いている。東都全域を見渡そうと思ったならばムッスル=ア城の屋上階に立つのが最適だ。落とし子という軍勢を操る指揮官とも言える“聖女”本体ならば、この利点を無視は出来ない筈である。
ひとつ、城塞としての防衛力。
そもそもが戦時用の城塞であるムッスル=ア城。大量の落とし子と共に篭れば落城は容易でない。“聖女”は必ずシックを警戒してくる。人の身であるシックに出来ない事を把握していれば、守りに長けた防衛拠点に篭るのが常道だ。
ひとつ、内側に秘めた兵器の数々。
いくら知能が高くとも人間ではない“聖女”が兵器群を使用するのは難しいだろう。だが、それらを自分に向けて使われないという一点で、“聖女”は先んじた制圧を試みるだろう。
実際、大軍勢が多数の兵器を持って”聖女“と対決出来れば勝つことは決して難しくない。大型の大砲ならば”聖女“の硬い外表でも貫けると見て間違いないからだ。
逆に有効打を与えられる兵器を使わせまいとしたがれば収めてある拠点を制圧してしまうのが手っ取り早い。
その他、細かい利点も含め『“聖女”はムッスル=ア城に居る』と見られた。もし居ないとしても、城塞という防衛拠点が手に入れば東都を救う未来はぐっと近づく。どちらであれ最重要拠点であるのだ。
加えて、ムッスル=ア城は極めて複雑かつ広大な地下部分を有している。迫りくる空から騎士たちが逃れるには格好の逃げ場所なのだ。
走る。
東都の港に辿り着いた時と比べて半分の半分未満にまで減ってしまった騎士たち。ただし、残る騎士たちはみな騎馬であり、減った数も合わせて敏捷さという意味では大きく向上していた。
残る騎士たちが全力で馬を駆けさせて東都の大通りをひたすらに抜けていく。目的地たるムッスル=ア城目指して。
シックは空を見上げる。急速に迫りくる空も間近まで近づき、ぶぉーん……という重々しい羽音の大合奏が聞こえていた。もう、時間が無い。
だが全速で駆ける馬の走力により残る道のりは急速に消化され、ムッスル=ア城は目前にまで迫っている。このまま何事も無ければ十分に間に合うはずである。そう、何も無ければ。
――そりゃあ、そんなに上手くは行かせてくれないよな……ッ!
近づくにつれ分かる事は、ムッスル=ア城の城門が打ち砕かれ、代わりに黒い壁が気づかれている事。当然それは普通の壁などでは無い。またも鎧の落とし子の群れ。それがぎっちりと城門の代わりにひしめいており、道を塞いでいる。
向こうもこちらに気づき、ゆっくりと城門部分からにじり出でて来る。
――どうする。時間が無い。どうすればアレを抜けられる……ッ!?
鎧の落とし子は羽や普通のものと比べると数が圧倒的に少ない分、体が大きく強力だ。鉄に似る硬い外表と、何十発もの弾丸を正面から受けても倒れない頑丈さ。人間を一噛みで潰してしまえる剛力の大口。動きは遅いが、遅いゆえに誘導して避ける事も出来ない。
正面から打ち崩すには騎士たちの攻撃力が足りない。ただのライフルであの数を駆逐するのは無理だ。かといって避けられもしない。ムッスル=ア城の入り口はこの城門一つなのだ。
彼我の距離がどんどんと近づいていく。シックは焦るが、前方の指揮官は何の指示も出さずひたすら駆けている。まさかあの鎧の落とし子たちに気づいていない筈も無いが、一体どうするつもりなのか。
距離が近づく。遠く離れ小さかった鎧の落とし子たちがぐんぐん近くなり大きくなる。人の背丈ほどもある巨躯が迫ってくる。一方上空を見れば無数の羽の落とし子たちが形作る黒い空ももうすぐそこに来ている。
余裕が無い。時間が無い。シックはひどく焦り始める。
だが指揮官は、やはり真っすぐに駆け続ける。周りの騎士たちも困惑しながら指揮官の指示に従っている。戦闘を走る騎士が振り返り、酷く焦って助けを求めるような顔を見せる。彼と鎧の落とし子の距離はもういくらも無い。とっくに銃の射程内だし、あと数拍のうちに衝突してしまうだろう。
それでも指揮官は何の指示も下さず前を見続けている。まるで、他に何も見えていないかのようだ。
――……まさか?
シックの脳裏をよぎるのは、先の襲撃時にどこからともなく聞こえてきた“聖女”の歌声。どうやら何か本来のものとは違い効力がかなり弱かったようだが、それでも集中を散漫にするなどとある程度の効果を見せていた。
襲撃の激戦や空が落ちてくるのを目撃した衝撃から意識の外に行っていたが、気づけば歌声などどこからも聞こえない。では、先の襲撃の際、一体歌声はどこから聞こえて来ていたのか。驚くほどに近く、驚くほどにはっきりと聞こえたあの歌声は。
シックの視線が、指揮官の背後に向けられる。
そこには、途中で保護された意識不明の女性。今は全速で馬を駆る指揮官の背中にへばりつくような形になっており、何とか振り下ろされていないといった感じである。
不穏さが突如シックの心を支配する。
あの女性は考えれば不自然だ。たまたま落とし子の牙から見逃され倒れていたのだろう程度に思っていたが、どうして外傷一つ無かったのか。どうして意識が戻らないのか。どうしてあそこに居たのか。どうして一人だけだったのか。
もし最初から――。
最初から、あの女性は罠だったとしたら。“聖女”がこちらを嵌める為に置いた布石だったとしたら。
理由は無い。だが直感した。
故に、シックは叫んだ。
「全員――ッ!!!散開しろォーーーッ!!突っ込んだらダメだァーーーーッ!!!」
だが、全ては遅かった。
先頭を走る騎士の忠誠心と精神力は恐るべきものだったと評すべきだ。眼前に死が迫り来ているのに、あくまで指揮官を信じ従った。先頭の彼がそういう選択をしたが故に、後ろに続く者たちも皆そうするしかなかった。
彼は勇敢だった。馬を全速で駆けさせて壁に突っ込むようなものだ。どんなに恐ろしかった事だろうか。それでも、彼はそうしたのだ。指揮官の指示に従って。
彼はそのまま鎧の落とし子と衝突した。馬ごとその四肢をバラバラに吹き飛ばしながら、血煙となってこの世から消えた。
すぐ後ろに続いていた騎士たちも同じだった。シックの指示は届いていたが、応じるには既に遅かったのだ。減速も転換も出来ず、勢いままに黒い壁へ突っ込む。バラバラになって、死ぬ。
鎧の落とし子は巨大で重い。馬と人間一人を合わせた質量が凄まじい速度でぶつかっても原型を留めながら潰れるに留まった。その一体は死んだが、すぐ後ろの一体はダメージを負うだけで済んだ。更に次の一体はもう何とも無かった。
騎士たちが、次々と”壁“に突っ込んでは血煙となって死んでいく。
もちろん全員では無い。シックの指示を聞き、刹那の間逡巡し、馬に指示をして方向を転換する事の出来た幸運な者たち。比較的時間の余裕を持っていた彼らは間に合った。
助かったのは全員のうちの半分ほど。彼らは城門前の広くなっている辺りでそれぞれに馬を回すと再集合を果たそうとする。
最後に鎧の落とし子へ突っ込んだのは指揮官だった。
まっすぐ、まっすぐ、ここでは無いどこかを見つめ続けながら、恐らくは夢に囚われたまま。
数多の騎士たちとシックをここまで導いた偉大な騎士は、粉々になって死んだ。
前の方に居た数体がぐちゃぐちゃに潰れ死にながらも、それを易々と踏み越えて来る鎧の落とし子たちの群れ。粉々の肉片と化した馬や騎士たちを啜りながらも、生き残ったシックたちへ向けて歩みを進めて来る。
そして上空では、もうムッスル=ア城の屋根を呑み込んですぐそこまで黒い空が迫っていた。あと僅かな時間で地上へ到達し、残る騎士たちを余さず喰らい尽くすだろう。
生き残った者たちは、誰もが呆然とその光景を見つめていた。
まるでこの世の光景では無いかのようだった。
書いててとても楽しかった。




