181 第二次“聖女”戦線
“聖女”は西都から去った。大きな大きな爪痕だけを残し、その巨体は何処かへと消え去った。
しかし“聖女”は闇の生命である。光の生命を傷つけずにはいられない、皮肉な因果の下に存在している。故に、“聖女”は再び現れる。光あるものの命を奪うためだけに。他にそれ自身の意志など持ち得ないかのように。
――東都。
ターレルの都、カンレンギ海峡を挟む東西の東側に位置する都であり、東方教会の聖地である大祈祷殿ムッスル=ア城が存在することで有名である。
エルメアやファーテルといった北土、砂漠のガリア、そして西都などからは単に“異教”と呼ばれる東方教会であるが、彼ら自身は自らの宗教を蒙教と呼んでいる。蒙教からすれば西方教会こそ異教であるが、蒙教側は西方の教えを頼教と呼び一定の経緯を払っている。もちろん、民心は蒙教こそ正しく優れていると思う部分がある事は否定出来ないが、少なくとも表面的には対等として扱っているのだ。
蒙教が奉じる神は頼教と同じ、天秤の神である。故に彼らもまた、天秤を神の偶像の如く敬い、大切にしている。
そもそも蒙教と頼教は出自を同じとする宗教であり、先にあったのは頼教である。両者の教えは多くの共通点を持ち、創世や死生観はほぼ同じである。蒙教がいつの時代に頼教から分離したかは定かで無いが、頼教の自堕落さと傲慢さに怒った英雄が広めたというのが定説である。蒙教とは“啓蒙された教え”という意味で、頼教とは“神頼りの教え”という意味から来ているのだ。
蒙教と頼教の違いは一言に言えば救済が自己に依るか他者に依るか、という点にある。蒙教は人間自らの意志こそ人間を救済すると教え、頼教は神の慈悲こそ人間を救済すると教えている。定説が正しいかはともかく、蒙教が頼教を“他力本願”と否定的に見ている事は事実であろう。
蒙教は祈祷殿という宗教施設を持つ。これは頼教で言う教会や聖堂であり、蒙教の信徒たちは毎日に一度は祈祷殿へ向かって祈祷を行うのだ。元は祈祷殿を訪れる事が徹底されていたが、人の街の拡大と共に困難になり緩和された部分である。
祈祷殿には教父と巫女という役職に就いた者が必ずおり、聖地でもある東都の大祈祷殿のそれぞれを大教父、大巫女と呼ぶ。大教父は頼教で言う教皇に当たり、蒙教の最高指導者である。大祈祷殿は別名ムッスル=ア城と呼ばれ、戦時には城としての機能を発揮するという予定の建築物である。しかし未だ戦争道具としての役割は一切発揮されておらず、その武骨な城壁には弾痕や矢痕の一つも無い。
蒙教と頼教、東都と西都、大教父と教皇。カンレンギ海峡を挟み睨み合う両者。長い歴史において時に対立、時に助け合ってきた二本の柱はそれぞれ、信徒たちの精神の安寧を支える主柱である。
そして、今。
一本の柱が失われようとする窮地にあった。
東都の高度に整備された下水道は都の誇るインフラであったが、この時ばかりは誰しもがその存在を呪っただろう。もちろん、わざわざその事実を呪うような余裕があればの話ではあったが。
東都中のありとあらゆる下水道を逆流し、黒い霧が噴き出した。ぶぉーん、という耳障りな音を立てるその霧は生きている。丸い胴体に糸のように細い4本足。蠅のような羽を持ち、宙を舞う体は真っ黒。手のひら程の大きさは飛ぶ虫にしては巨大である。
いや、当然それらは虫では無い。それは魔物。”母“より産み落とされた無数の落とし子たちである。
すなわち、“聖女”による襲撃開始であった。
突如として都中に出現した黒い霧。民たちは何事かと驚愕し、恐怖し、当惑した。だがそれらはまもなく恐怖の一色に塗りつぶされる事になる。
黒い霧が手近に居た人間に襲い掛かる。全身を覆い尽くされ、真っ黒に塗りつぶされた人影が踊り狂う。絶叫の音頭に合わせて、ばたばたもがく。やがて動きが緩慢になり、その場で崩れ落ちる。くちゃくちゃ、ばりばり、ぎちぎち。骨肉の齧られる異様な音が暫く鳴り続け、ふと黒い霧がぶわりと広がる。――人間がいた筈のその跡には、血だまりだけが残されていた。
明るい青空を真っ黒に埋め尽くすほどの落とし子の大群が人々に次々襲い掛かっては喰らい尽くす。跡にはただの血だまりだけしか残らない。都中を支配する羽音。どこにも逃げ場は無い。屋外に居た人々はたちまちの内に食らい尽くされ消滅してしまった。男も女も、大人も子供も、人か獣かすら、ひたすらに無差別。何もかもを喰らい尽くす、悪夢のような黒い霧。
そして、すっかり人々が喰らい尽くされ、血だまりだけになった街並みに響き渡るのだ。
落とし子たちの羽音に混じって、“聖女”の歌声が。
「――魔法部隊!魔法部隊はどこだ!銃も剣も役には立たない!クソッ!!」
「畜生、やめろ、来るなっ、ぐぁっ、がぁぁっ、離れろ、離れろォォォォォォォ……ッ!!」
「火だ!火をぶちまけろ、焼き殺すんだよ!!」
「いやだ、死にたくねぇッ!!こ、こっちに来るんじゃねぇッ!!」
「おい逃げるな!敵前逃亡は死ざぁがぼっ――。」
「隊長ォ!隊長がやられたッ!副隊長はどこだッ!!」
「とっくに喰われたよ!指揮官なんぞ居やしないッ!」
「そんな馬鹿な話が!――あああぁ畜生畜生!」
東都の誇る兵たちは勇敢だった。数体を墜としたところで何にもなりはしないのに、それでも必死に武器を振るった。
だが足りない。落とし子の軍勢を相手にするには足りないのだ。一人二人と、次々霧に纏わりつかれて喰らわれていく。血だまりだけが跡に残って、そこに人が居たなど誰も信じられはしまい。
「『――“爆蓮花”!!』」
「死ねよ虫どもッ!『開け炎よ』!」
「『――“炎仙華”ァ!!』」
「そうだ!”炎“だけでいい!ひたすら焼け!焼き殺せ!!」
唯一落とし子の霧に抗しているのは魔法兵の部隊であった。統制の下に“炎”の魔法を撃ち続け、霧に近寄らせる事を許さなかった。
魔法部隊は元々、臨戦態勢で都中に散らされていたのだ。それは勿論、“聖女”の襲撃を警戒してのこと。西都より“聖女”生存と持てる情報の全てを受け取った大教父はすぐさま麾下の魔法部隊に指示。各地へ散り、襲撃開始の際には時間を稼ぎつつムッスル=ア城まで後退するよう命令を下していた。
魔法部隊に限ったのは、落とし子が地を這うものだけでは無く飛ぶ種類もいるようだと聞いていたからだ。強力な魔法部隊であれば、どの落とし子たちが現れても後退くらいは出来る筈だと。そしてそれは正解であった。
――“聖女”の知性がそれを上回っていただけである。
“聖女”は子らに指示を下した。『脅威は追い立てるに留めよ』と。初めから魔法部隊に襲い掛かる落とし子たちは全力では無かったのだ。結果、全ての魔法部隊はまんまとムッスル=ア城付近まで後退する事に成功する。そして耳にしてしまうのだ。美しき“聖女”の歌声を。
「~~♪~~♪~~♪……。」
その歌声に気付いた時には既に遅い。霧を焼き払い続けていた彼らは、途端に力の行使を取りやめるとその場に立ち止まった。そして理性の失われた瞳で、何かを待ち続ける。
“聖女”は学んだのだ。『落とし子だけでは勝てない』と。脅威たる存在は『喰わずに使役してしまえ』と。
それが“聖女”には出来た。人間の頭脳だけを喰い荒らして思うままにしてしまうその歌声で、東都の誇った魔法使いたちを皆支配してしまったのだ。
脅威にならない民や兵士は喰らい尽くし、脅威になる魔法使いたちは使役する。
それが恐るべき“聖女”の作戦だった。
東都を襲う黒い霧――海峡対岸の西都からはむしろ空に見えていた――は西都からも良く見えていた。教皇はこれを東都に対する魔物の襲撃と即座に断じると、可能な限りの戦力を船に乗せて東都へ向かわせた。
そこにはもちろん、彼らの英雄も乗っていた。
船は向かう。二度目の“聖女”の襲撃に抗うため。
あるいは、まんまと餌を与えるために。




