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贄の王座と侍るもの  作者: 伊空 路地
第六章 神聖悲劇
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171 幸い中の不幸


 自身の胸元目掛けて口を伸ばし、跳びかかってくる奇怪極まる生き物。その動きは素早く、なんとも虫めいている。


 先ほど咄嗟に避けたのもこれだったに違いない、とシックは戦闘の勘に沈み行きながらそう思考した。頼りの愛剣が陽光にぎらりと反射して、敵を断つ自信を与えてくれる。


 まるで砲弾。――柔らかく曲げた膝を更に落として体重を足に投げ出す。傾く重心と体幹を捉え、真横へ地面を蹴りだす。ぐっ、と太ももとすね上の筋肉が硬直、伸長。砲を思わせる剛力が伝わり、シックの身体は彼の意識の完全なる制御の下、まさに砲弾のような速度で横へズレる。


 同時、押し出される片方の腰を後ろ側へ回転させる。その体重を押し出して尚あまりある脚力は腰を回してさらに上体へと流れる。回る腰に合わせ、腹回りの筋肉が鋼の如く硬直。伝わり上りくる力を更に押して上へ。ぐるんと回転する肩がシックの腕を引く。脱力していた腕は引かれるまま加速、最中において更に腕がその筋肉の塊としての役割を発揮、最低限の力で握られた剣への加速を加える。腕が開く。腕が伸びる。そしてその勢いが剣へと伝わる完全なタイミングで生み出されるのは、万力が如き握りの力。


 足、膝、腿、腰、腹、胸、腕、手。全てに蓄えられた筋力が一つの強大な流れとなってその鋼の剣、その切っ先を突き動かす。


切っ先に広がる音すら置き去りにした極限の世界、その軌跡に鋼のぎらつきを描き、鋼が空を断つ。空間すら両断するかのような斬撃。――その軌道にあった黒い生き物の細い足を二本、断ち斬った。




 たん、とその動きをもたらした剛力からは考えられない程に軽々しく、シックは着地した。柔らかな着地、僅かに身体を揺らすように、跳躍と回転の勢いを受け流し殺しきる。再び構えの姿勢を取ったとき、先の斬撃は残滓一つ残さず忘れ去られていた。


 その目の前では、足二本を斬り落とされた生き物がバタバタともがいていた。


 突如としてシックの鼻が甘ったるい匂いを嗅ぎ取る。


「――うっ……。なんだこの匂い……。」


 思わず顔を歪めるシック。酷い腐敗を思わせるような、あるいは毒花を連想させるような、とにかく醜悪な甘い匂いだった。咄嗟に袖で口と鼻を覆い、生き物から距離を取る。まさか毒じゃないだろうなと思ったのだ。


「しかし、気持ち悪いなぁこれ……。」


 シックはうへぇ、と顔を歪めた。


 体内から露出させたナメクジのような口を収めることも忘れ、無事な二本と中ほどで断たれた二本を必死で動かして地面をジタバタ這いずり回るその様は、まさしく足の欠けた虫だった。


 上手く動けないのだろう、不規則かつ不器用に移動している。いや、むしろ暴れる結果勝手に動いただけとも見える。少なくとも希望している動きでは無いだろう。


 シックの膝下くらいある大きさに比して身軽らしく、足の動きは非常に速い。その動き方といい、バタバタとした音といい、不快な虫が暴れている様そのままの姿に生理的嫌悪感を覚える。そしてこの甘ったるい匂いも合わさって、吐き気を催すほどの最低な気分だった。


 近づきたくない。そう思わずにはいられなかったシックは適当に距離を置くと、道端に落ちていた大きな瓶を拾うと、虫めいた生き物に向かって投擲。――外れ。もう一つあった大瓶を投擲。――命中、ぐちゃっ。


「うっわぁ……。やらなきゃ良かったよ……。」


 辺りに飛び散る黒く光沢ある体液。一気に強くなる甘ったるい毒のような匂い。


 どうやら虫っぽい生き物は耐久力も虫並らしく、大瓶がぶつかって体の半分くらいが嫌な音を立てて潰れた。足一本が落ち、それでも生き物の動きは僅かも変わらない。相変わらず、バタバタ音を立ててもがきまわっている。怯む様子がまるで無いので、痛みを感じないのかもしれない。


 辺りに体液のぬめぬめした跡を広げながら暴れる巨大虫はとにかく気持ち悪い。きもい。虫は平気な自分がキツイのだから、虫が苦手なサンのような人間なら卒倒ものだな、とシックは思った。


 とにかく気持ち悪いが、無力化は成功した。ジタバタもがく様に衰えは見られないので、生命力も虫並らしい。もう完全に大きい虫だな、とシックは思った。






「それで、コイツは一体何なんだ……?」


シックの知る限り、ターレルにこんな生物は居ない。生物に詳しくは無いが、これほど特徴的なら知っていてもおかしくない筈なのに、である。


 そして、この周囲から消えた人々。辺りに人気は僅かほども無く、足音一つ聞こえない。


暖かな陽光が取り戻され、穏やかだったはずの午後。それなのに人が完全に姿を消したこの光景は酷い欠落感を覚えさせ、まるでよく似た別世界に入り込んでしまったかのようである。


 そして目の前の巨大な虫――ようやく動きが鈍ってきたのでそのうち死ぬと思われる――の存在。


 シックはひと時、迷う。この異常の正体を探るか、このままサンが巻き込まれたかもしれない事件現場へ向かうか。


 そして、結局サンの安全を確かめに行くことにする。少なくとも、今この現場で誰かがどうこうなった訳では無い。それよりはサンの安全が気になる。万が一サンに何かあったら、と思うとシックは居ても立っても居られなくなってしまい、剣を収めると再度走り出した。






 この時、シックは判断を誤ったのだ、と後になれば人は言うかもしれない。この時、虫のような生き物の出所を探り、人の消えた異常の原因を断っていれば、と。


 確かに、シックはこの生き物の危険さを見誤った。自分が余りにもあっさりと撃退出来た上に、その生態がどう見ても大きいだけの虫であった事からすっかり『大した危険は無い』と思い込んでしまった。最初、自分は確かにこの生物に命を奪われそうな危機を感じていたのだという事実を忘れてしまった。その事実を忘れていなければ人が消えた事実の不幸な真実に思い至り、更なる被害を防ごうとした筈であった。


だが、結局のところそれは結果論であろう。過ぎた事なら何とでも言える。その時その時の知る術も無い最善など人間が選べるかは所詮、運である。シックを責めるのは酷というものだった。


 重ねて言えば、この時シックが最速で動けていたからと言って後の被害を防げたかは怪しいものである。


 なぜならば、既に落とし子たちは西都の人口を越える勢いで数を増やしていたし、”母“の準備も整っていたからだ。襲撃は既に始まっていたのだ。





















 シックは走り、やがて事件が起きたという現場まで辿り着いた。その頃には人の姿もすっかり戻っており、何とも賑やかだ。ロープが張られ、人の近づかないよう保存された建物の脇には、騎士たちの一部隊がたむろしていた。


 走り近づいてくるシックに、騎士たちの一人が気づいた。


「……ん、誰か来ますよ中隊長。あれ、英雄様じゃないですか?」


「あん?……おぅ、マジじゃねぇか。なんだってこんなとこに?」


 騎士たちは向き直ると、最敬礼でもってシックを迎えた。


「皆さん、こんにちは。この現場の担当部隊の方々ですか?」


そこそこの距離を走ったが大して息の上がっていないシックはそのまま近づくと問いかけた。


 騎士たちを代表して答えるのは当然、部隊の長カバスである。


「はい。事件現場の維持保存、後続部隊への連携等を担当しております。自分は隊長のカバスという者であります。如何なされましたか、英雄殿。」


「英雄はやめてくれると……。あの、実は俺の友人がこの宿に泊まっていて。気になって、思わず駆けてきてしまったんですが……。状況をお聞かせ願えませんか。」


 シックがそういえば、騎士たちは得心したようである。彼らは行方不明の『特殊貴人』、サンという少女がシックの連れであることは知っていたからだ。


「なるほど、そういう事でしたら。しかし英雄殿、結論から言えば何とも言い難い返答になります。……建物内に生存者は無し。お探しの『特殊貴人』様ですが、行方が分かりません。建物内では発見されておりませんが、荷物は部屋に。事件発生の確認以後、ここに戻った様子はありません。……端的に言って、行方不明です。」


 カバスが答える。その言葉を聞く途中から、シックの顔は痛みを堪えるように歪み始める。それを見て、『英雄殿は腹芸が苦手らしい』とカバスは思考していた。


「サンが行方不明……。何か、他に情報はありませんか。何でも良いのです。」


 カバスは考える風も無く、すらすらと答える。最重要の『お嬢様』関連の情報なら頭に叩き込んである。


「事件発覚は今より一刻ほど前です。昼過ぎくらいですかね。発見者は通りがかりの酔っぱらい。家に帰して待機を命じてあります。事件自体の目撃者は無し。被害者は15人。遺体の様子は皆同じで、胸か腹を食い破られ心臓中心に内臓を喰らい尽くされております。抵抗の様子は全員無し。全て回収し、向こうに寄せてあります。……ここまでは、今までの猟奇事件と全く同じですね。


 で、ここからは『特殊貴人』と関わるような情報だけに絞りますが。先に申し上げた通り発見されていません。生死も所在も不明です。


 泊まっていた部屋ですが遺体などは無し。ですが、得体の知れない液体が飛び散っておりました。勢いは相当だったようで天井にまでぶちまけられております。液体の正体は不明。これと同じ状況が一階階段前にもありますが、関連は不明。部屋には荷物が残され鍵も開いていたのが気がかりですかね。


 その後当人は発見されておりません。野次馬どもに聞いて回りましたが成果無し。ハッキリ申して、消息は完全に不明で痕跡もありません。


 こんなところでしょうか。あぁ、騎士団本部に伝令を走らせました。『特殊貴人』の行方不明は重大と見て、捜索の応援などを伝言しています。……まだ帰っていないんですがね。一体どこで道草食ってるのやら。」


 シックは少し考え、僅かな疑問を口にした。


「液体、というのは?飛び散っていた、というのはどんな風でした?」


「黒くて粘性があります。飛び散った時は相当な勢いだったようで、天井にまで付着していました。部屋、一階階段前、共にです。勢いよく何かを破裂させたような具合ですね。既に採取した物を調査依頼済みです。……何ならご覧になりますか。ただ、コイツは酷い匂いですから覚悟が要ります。」


「匂い?というと、どんな?」


「とにかく甘ったるいんです。それも美味そうなヤツでは無く、悪臭です。ここは風上ですが、反対に行くと外でも分かりますよ。強烈な甘ったるい匂いが最悪です。」


「甘ったるい匂い……?」


 シックは何か思いついたような顔をして、視線を外した。思わぬ所からあの臭い液の正体が分かるか、とカバスは思った。何やら心当たりがありそうだったからだ。


 それから、シックは愕然とした表情を浮かべた。カバスが怪訝に思っていると、口を開いた。


「……猟奇事件の正体、分かったかもしれません。……アレは、もしかして……!サンは逃げたんだ!生きている!」


 騎士たちは顔を見合わせて困惑する。シックが何を言い出したのか全く分からなかったのだ。ただ一人、カバスだけが鋭い視線と共にシックへ問いかけた。


「……そのお話、詳しく聞かせてくれますか。英雄殿。」







ていうかね、私は虫が嫌いなんですよ。

虫描写の下り、書いてて自分が最低の気分ですよ。ぞわぞわする。あーやだやだ。

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