170 次の獲物
騎士キリアンは走っていた。中隊長に言いつけられた伝令の命令を果たすためだ。
現場から騎士団本部は多少距離があるが、騎士として常日頃過酷な鍛錬を積んでいるキリアンの走力には問題にならない。命令完遂のために脇目も振らずに真っすぐ目的地へ向かう。
走る彼はたくさんの人々とすれ違い、追い越していく。皆が皆楽しそうに笑い合っており、道端で酒盛りをしている若者、店の外までテーブルを出して客をもてなす店主、行き交う馬車の間を駆け回って遊ぶ子供たち。……最後は少々危なっかしい。任務中でなければ騎士として注意すべき案件だ。
とにかく、今は西都中がこのような浮かれ気分なのである。本来は聖日まで喪に服さなければならないといのに、不真面目な人間が多くて全く困る。治安の低下、道徳の乱れ、全く良い事などどれほどあるというのか?
堅物の自覚があるキリアンでも”呪い“が祓われ久々に暖かい陽光を浴びた時は感激した。あぁ、そうだった。これが太陽だったのだ、と。だからといって守るべき規則を守らないと言うのは問題である。それとこれとは話が別、教会が聖日をわざわざ定めているのは何のためだと思っているのか。
微かな憤りを堪えつつ、キリアンは走る。真っすぐ、真っすぐ、騎士団本部まで。こういう場合、裏道などは通るべきでは無い。無頼の輩などが潜むことも多く、騎士に直接何かする者はまず居ないとしても、事故や事件に巻き込まれる可能性が上がるからだ。人通りのある道だけを選んで、キリアンは走る。
……だが、ふと気付くと周囲から人の姿が消えていることに気が付いた。とはいえ、案じるような事では無い。いくら外出が増えているとはいえ、たまたま人が居ない道がひとつふたつあってもおかしい事は無い。やけに先の方までずっと人が居ないのが少し違和感を覚えなくもないか。
「~~♪~~♪~~♪……。」
奇麗な歌声だな、と意識がそちらに傾いた。いやいや、自分は任務の真っ最中。他の事に気を取られていてはいけない。だが、それにしても奇麗な歌声だ。あんまりに奇麗だから、ついついキリアンも気分が良くなってくる。
気分は快調、体力は十全。快い気持ちでキリアンは歩いた。足取りは軽く、なんだか歩いているだけで楽しい気分になってくる。
突然、店の外までテーブルを広げて客をもてなす店主がキリアンに声をかけてくる。どうやら、祝いの酒だから一杯どうだ、とのこと。
いやいや自分は任務中だから、とキリアンは断る。だが、店主は重ねて勧めてくる。あんまり固辞するのも相手に悪い。何せこんなにいい気分なのだ、少しくらい悪い事をしても構いやしない。そんな風に大きくなった気分で、キリアンは差し出された杯を取ろうと――。
――――。
――。
「……ん、俺らはこれで一時退却、って感じかねぇ。」
中隊長カバスの呟きだ。事件現場の確保、状況の把握、被害者遺体の移送、その他諸々の任務は終わり、後は引き継ぎだ。
「しかし、遅くねぇか。あのバカ真面目野郎、どこほっつき歩いてる?」
先ほど騎士団本部への伝令に行かせた部下の事だ。消えた『お嬢様』の捜索はカバスの部隊だけで手が回る仕事では無い。事件の発生からそれなりの時間が経っているのに戻ってこない『お嬢様』が事件に巻き込まれている可能性は無視出来ない。色々と伝達する事があるのにすれ違っては困るので、引継ぎか応援の部隊が車でカバスは動けないのだ。
「だから、さっさと戻ってきて欲しいんだがねぇー……。」
騎士団本部は確かに多少距離があるが、騎士の体力を考えればそろそろ誰か現場についても良い頃合いだ。帰りはどうせ馬か馬車だろうし。というかもうそろそろやる事が無いのだ。突っ立っているのも疲れる。面倒くさい。早くしてくれ――。と一通りの愚痴がカバスの脳内で出そろったところで、他の部下が現場からぞろぞろ出てくる。
「中隊長殿。内部保存完了です。出入口は全て封鎖。後は引継ぎ待ちです。」
「おーぅ。ご苦労ご苦労。……しかし引継ぎも応援も来てねぇんだよ。どこでサボってるのやら。」
「この浮かれ騒ぎです。道中で酒場にでも乗り込んだんじゃないでしょうかね。」
「むしろ、二日酔いで寝てるなんてオチもありそうではありませんか?自分、実は今日二日酔いでして……。」
「ばぁーか。俺なんざ昨日から仕事仕事だよ。羨ましいねこのバカ野郎め。」
「中隊長殿は仕事熱心ですからね!いやはや、全く頭が下がります。……それと、二日酔いの時の治し方を教えてやってください。ほら、この間言っていたあれです。」
「誰が仕事熱心だか……。あぁ、二日酔いの時はな、二日酔いを忘れるまで飲み直すんだよ。迎え酒ってヤツだ。そんでもっかい潰れて来いこの野郎。」
「ご勘弁を……。もう一生酒なんて飲みませんよ自分は。もう御免です。見たくもありませんよ、頭が痛くてしょうがない……。」
「はっはっは!そう言うヤツは絶対にまた飲むんだよ!明日になったら酒を飲ませろって言いだすのさ!」
「間違いねぇなぁ。俺もいっつも同じこと言ってる気がするぜぇー……。酒はなぁ、ありゃぁ悪魔サマの手品だよなぁ。」
「全く、堕落の象徴ですな!騎士たるもの、もっと酒を鍛えて悪魔に勝たねば!」
「酒が飲みてぇだけだろーがよ、カッコつけんなバーカ。……しかし、本当におせぇな。マジで酒場にでも居るんじゃないだろうなぁー……?」
「誰か呼びに?……あぁ、キリアンですか。アイツは寄り道とかしないでしょうね。」
「アレが途中で酒の一滴でも飲んできたら俺ぁ財布全部空けてやるね。賭けようぜ、誰か乗らねぇか。」
「ご冗談を。賭けになりませんよ。……しかし、それだと本当に分からないですね。」
「あぁ。全く、さっさと帰らせろよなぁ。」
カバスたちがいくら愚痴を零そうと、他の部隊が現場に来る事は無かった。しかしそれも直に問題にはならなくなる。
まもなく西都全体が”現場“に変貌するからだ。
シックは一人、街を歩いていた。騎士団本部を訪れたところ、無視できない情報を耳に挟んだためだ。
曰く、ここ数日起きている猟奇事件の新たな現場が、『特殊貴人』の泊っている宿だった、と。
猟奇事件、とは“贄捧げ”の翌日から西都で起こっている謎の事件の事だ。心臓食らい、とも呼ばれている。被害者は皆胸か背中を食い破られ、内臓を奇麗に食い尽くされている状態で見つかっている。詳細は一切不明で、いたずらに民の不安を煽らないよう公には秘匿されている。
そしてその新たな現場が、『特殊貴人』の泊る宿だという。この西都において、『特殊貴人』とされているのは今、シックとサンしかいない。つまり、サンが事件に巻き込まれた可能性が高いのだ。
居ても立っても居られなくなったシックは、騎士団本部での用事を手早く終えて現場に向かう事にした。今は、その道中である。
今、シックがサンに対して抱いている想いは極めて複雑な物である。個人的な感情と、状況から生まれる疑念がせめぎ合っているのだ。
シックとしては、あの心優しい少女が悪に加担したとは思えない。一方で、この世に一つしか無いであろう少女の剣をあの”従者“が使っていたことも事実。
一つ、そもそもこの世に一つの剣というのが間違い。二つ、サンが“従者”に奪われた。三つ、サンが“従者”に貸し与えた。……四つ、サンが“従者”本人である。
シックは可能性として一つ目が高いと思っている。そもそも、サンの剣はサンの主人から与えられたものだという。見た目からして貴重なものには違いないが、一つしかないとは誰も言っていない。数本用意したとか、そもそも数本あるうちの一本だったとか、いくらでも話は考えられる。
二つ目もあり得る話だ。シックの見たところ、あの剣は相当な業物。シックのあずかり知らぬところでサンと”従者“が戦い、奪われた。……その場合、残念ながらサンの安全は、難しいものになるだろう。
三つめは、少し考え難い。わざわざサンが“従者”に貸し与える理由が思いつかないからである。確かに優れた一品だろうが、他の剣でならないという理由がまず無い。次に、あの剣を大事にしていたサンが簡単に人に貸すとは思えない。更に、そもそもサンが“従者”の味方ならあの場で協力していてもおかしくない。
……四つ目は、あり得ない話だ。いや、可能性としては存在するが、現実的では無い。それは勿論シックの個人的感情から来る願望も混じっていたが、論理的にもおかしな部分が出てくるからだ。例えば、“従者”が呼んだと思しき魔物とサンが敵対していた、とか。“従者”が現れた地点とその時サンが居た場所が遠すぎる、とか。
確かに“従者”とサンの背格好は似ていた。戦い方も同じだった。振るう剣も一緒だった。これだけ考えるとまさに同一人物と言った様子だが、シックはそれがあり得ない話だという根拠を手にしている。“従者”は“贄の王”の配下だったのだ、魔物はそもそも味方の筈である、とか。
しかしサンと全く無関係の人物とも思い難いのもまた事実。そこで思い至るのは、サンが内緒にして明かさない旅の目的である。流石にシックもサンが語る旅の理由が本当のものではないらしいことに気が付いている。となれば、わざわざ嘘をついてまで隠さねばならない真実の目的とはなんであろうか。それが、どういう関係かは分からないが、あの”従者“に関連するなど、あり得ない話では無いでは無いか?
ともかく、サンと”従者“がどういった関係があるのか、そもそも無いのか。それ自体はサンに直接会いに行けば判明することだったが、シックがこれまで宿を訪れた時はいずれも留守だったのだ。今にして思えば、書置きや言伝を頼めばよかったと反省している。
そして今回、サンの泊る宿が事件に巻き込まれた。サンを案じるがためなのか、サンを疑うがためなのか、シックには自分でも分からないがとにかく放ってはおけない。だからこそ、こうして真っすぐ騎士団本部から件の宿まで向かっているのだ。
「~~♪~~♪~~♪……。」
おや、とシックは思う。ふと気が付くと、見事な歌声が聞こえてきたからだ。
とても伸びやかで、流れゆく水とでも例えられるような、美しい歌。それが、ふいに聞こえてきたのだ。
それは女性の声だ。随分歌の上手い人のようで、どこかからか聞こえてくる。
今の西都はどこもお祭り状態だ。歌を歌う人と出会うのも珍しい事では無いが、こうまで美しく、また音を独占している歌は初めてだ。
――……音を、独占?
そう、独占している。何故なら、その歌の他には『何の音も聞こえない』からだ。
そう気づいたとき、シックは戦慄した。これは、普通の事態じゃない。
周囲には見渡す限り誰も居ない。気配すら無い。まるで、都のこの場所だけが死んでしまっているかのよう。
シックは腰の剣に手をかけると、周囲を油断なく見回した。
「――ッ!!」
背後に危険を感じた瞬間、シックは真横に飛び込んでいた。それが命を救った。
愛剣を抜き放ちながら振り返り、構える。その刃の向こうに、酷く奇妙な黒い生き物がいた。
真っ黒な全身。丸い胴体に細い4本足。胴体からは巨大なナメクジのような部位が飛び出ていて、良く見ればその先は口になっている。円状に並んだ黒い牙は恐ろしく尖っていて、骨も砕けそうなほどに力強い。
目があるのか分からないが、その生き物はシックの方へ目線を向けた。
そして、驚くほど素早い動きで地面を駆けると、シック目掛けて飛び掛かってきたのだ。




