16 海の色
シックと別れてから数日後、サンの姿はエルメア第二の都、サレッジにあった。
エルメアの都から大陸を見て、海を挟んだ対岸にあるのがサレッジだ。エルメア議会が熱心に開発を進める大陸鉄道の始発駅がある街でもあり、エルメア本島とを繋ぐ大規模な港をも有する街でもある。
しかしエルメアが外海に広く出るようになって、外海を臨む第三の都に追い抜かれそうにもなっているのだった。
なぜサンがサレッジにいるかと言えば、人の街へ買い出しを願ったサンに対し、贄の王が「エルメアの都には飛べない」と言ったためだ。
エルメア本島とは海が隔てているとはいえ、晴れていれば難なく見える距離だ。なぜエルメアの都に飛べずサレッジなら飛べるのか。サンには見当がつかなかったが、その時の主の顔はどことなく深刻だったために、聞けずじまいだった。
――シックとの約束は果たせなくなってしまった。
果たそうと思えば何本もある船の一つに乗ればいい。だが人の街に来ているのは基本的に用事のため。
近いとはいえエルメア本島とを行き来していれば一日を使い切ってしまうだろう。嫌いでないとは言え、シックのためだけにそこまでする気は起きなかった。
サンはサレッジで案内を探さなかった。前回シックに案内されて購入した辞書でエルメアの言葉を勉強したのだ。
もちろんまだ話すにはたどたどしく、似ている字は読み違えるし、聞き取りは全く出来ると思っていない。数日間を使ったとはいえ、それだけで完璧に違う言葉を操れるとはサンも思っていなかった。
だが、折角なら新しい言語の勉強にもちょうどよい、と自力で用事を果たしてみることにしたのだ。
辞書を片手に、サレッジの街並みを歩く。
内陸の国ファーテル出身のサンは海を見たことが無かった。転移した直後、視界に広がる無限の水への驚きは大きく、主が去った後も一時間ほどは海を眺めていたりもした。
当初は慣れなかった海の匂いも慣れれば悪くないものだと思うようになり、現在も広大な海を片目に歩くのだった。
こうして歩いてみると、同じ国だと言うのに海を隔てただけで随分街並みに違いがあることが分かる。例えば石と鉄ばかりのエルメアの都に対し、サレッジは歴史を感じる石や木造りの建物が目立つ。
エルメアの都の花々は奇麗に人の手の入った花壇だったが、こちらでは道端に自然ままの花々が咲いている。
それから人々の姿もそうだ。大陸とエルメア本島の架け橋サレッジには大陸から多くの人々が集まる。着ている服や纏う空気も様々な人々が行き交う様子は、ファーテルの都から離れたことのなかったサンには初めての光景だった。
サンは市場で適当に食料を買いそろえると、教会を訪れてみた。
正直に言えば見るのも嫌なその建物にわざわざ探してまで近づいたのは、しばらく前に主が口にしていたことが何となく頭にあったからだ。
曰く、『教会は世間の知らぬことを知っている』。
通りの反対からじっと教会を眺めるサンの脳裏に主の言葉がこだまする。中にまでは入りたくなかったが、あそこにも何かしらの秘密が眠っているのだろうか、と思うとサンは気になってしょうがないのだった。
このまま見ていてもしょうがない、とサンは踵を返して通りを歩く。今日は城に帰ってやらねばならぬことも無いだけに、気になるものがあればふらふらと寄って行って眺めてみる。
サンが面白いと思ったのは、『コーヒー』なる飲み物だった。真っ黒で不思議な香りのするその飲み物はどうもお茶の仲間か何からしいが、全く飲んだことのない味わいで、思わず購入してしまう。
手にした小袋の中には『コーヒー』の匂いがする黒い粉が入っているのだが、これをどう飲むのかサンにはさっぱり分からなかった。取り敢えず色々と試してみようと思う。
ちなみに、サンは自覚していなかったものの、サンの様子はそのまま観光客だった。
名残惜しいがそろそろ帰ろうか、といったところでサンは最後に海へもっと近づいてみることにした。なんならちょっと触ってみようかな、毒性とかは無いはずだが、などと考えつつ港の外れで海のすぐそばまで来る。
石の港のすぐ横は砂浜になっている。何やら見たことの無いものがごろごろと転がっているのが気になり、つま先で突っついてみる。感触は硬いが石ではないらしい。
と、その時だった。後ろから、サンの名を呼ぶ声がする。
振り向けば、そこにいたのはエルメアの都の案内人、シックであった。
「シック……? どうしてここに」
「やっぱり、サン……! 驚いたんですよ。教会から出たら、あなたの姿を見た気がして、探してみたんです。俺は、ちょっと用があって、エルメアを離れたんですよ。まさかこんなところで会えるなんて」
「そうでしたか……。たしかに、奇遇ですね」
「良かった。急にエルメアを離れることにしたから、サンとの約束を破ってしまうと気がかりだったんです。これも主の思し召しでしょうか!」
「……えぇ、まぁ。そうだと良いですね」
「あぁ、ごめんなさい。つい……。怒らせたいわけではないんです」
「いいえ、気にしませんよ。それにしても、何故エルメアを離れることに?」
サンのその問いに、シックは答えづらそうな顔をする。
「えっと、隠すつもりはないんですが、なんというか、説明が難しくて」
「そうですか。まぁ、構いませんよ」
「サンこそ、どうしてここに?」
「私は……、主様の都合です。今日は、買い出しに」
「なるほど、サンの立場ならそういうこともあるんでしょうね。……嫌じゃなければ、少し話しませんか」
まぁ、少しぐらいなら付き合ってもいいか、と了承する。二人は港の端の石段に並んで座った。
「俺、実は旅に出るんですよ。エルメアの都で両親とも別れました。このまま、鉄道に乗って内陸に行って、最初はファーテルを目指すです」
「旅、ですか。理由までは聞きませんが、急な話ですね」
「えぇ、まぁ……。サンとの約束だけが気がかりだったけど」
でも、こうして会えたから良かった、と笑いながらシックは繰り返す。
「だから、もしかしたらサンともこれで会えなくなるかもしれなくて……。サンは、エルメアから離れないでしょうし……」
サンの脳裏に、どことなく深刻だった主の様子が思い起こされる。なんとなく、だったが――予感、があった。
「……いいえ、もしかすると、私も移動するかもしれません」
「あれ、そうなんですか? すると、どこにですか?」
「私にも、まだ分かりません。主様の都合しだいですから……」
「そっか。じゃあ、もし。サンも内陸に来るんだったら、会えるかもしれませんね……?」
「そうですね。とは言っても、内陸も広いですが」
それもそうだ、とシックは笑う。
「――私、こういう場所には初めて来ました。砂が……細かい、んでしょうか。海とは、不思議ですね」
「そうか、サンはファーテルが出身なんですよね?ファーテルは海がありませんしね」
「えぇ……。これは、何でしょう?変わった石のような……」
「それは『貝がら』ですよ。シェル、ですね」
「『貝がら』……。へぇ……」
「結構きれいでしょう?ええと……」
そう言いながらシックは立ち上がると、なにやら『貝がら』を探しはじめたらしい。すぐに戻ってくると、その手には小ぶりな『貝がら』があった。青くてきれいな色をしている。
「サンは魔法使いですよね。この貝がらに魔力を流してみてください」
サンは受け取り、恐る恐る言われたとおりに魔力を流してみる。――すると。
ぽうっ……と、『貝がら』が模様に合わせて淡い光を放った。
「わ……。光った……?」
「それ、魔力を流すと光る貝なんです。たまに違う色もあって……。小さい頃、魔力を流せる友達と一緒に集めたりして……」
「不思議……」
「ふふ。サンもそんな顔するんですね。いつも無表情だから」
「……確かに、表情豊かな方ではありませんが……」
「それ、持って帰ると良いですよ。魔力を流せば、ずっと光りますから」
「そうですか……。ありがとうございます」
シックは再びサンの隣に座る。二人の間に沈黙が降りる。
サンは手元の『貝がら』をたまに光らせ、シックはそんなサンを眺めていた。
――ふと、サンが顔を上げると、空は赤くなりはじめていた。気づかない間に随分時間がたってしまったらしい。
サンは立ち上がりシックの方に振り向く。
「シック、私はそろそろ帰ろうと思います。遅くなってしまいますから」
「そっか。分かりました。――サン」
シックは僅かに改まって名前を呼ぶ。そして立ち上がり、サンの目を見て、それから海を見た。
「また会えるか、会えないか、分かりませんけど。――俺、ずっとこの海の色を覚えていようと思います。サンの事も、その貝がらの事も。この先何があっても、ずっと覚えています」
「シック……?」
「見て下さい。夕日に照らされて、奇麗な赤でしょう?――内陸に行ったら、多分見れないから」
「……帰ってこない、旅なのですか?」
「分かりません。もしかしたら、そうかも。そうならないかも。どっちにしても、海の色を見るのはずっと先のことです。――またここへ帰ってくるか、俺が神様の手に抱かれて、とても高い場所に行くまで」
「……」
「俺が覚えた海の色は、この赤です。それはずっと、ずっと変わりません。――だからサンも、この海の色を覚えておいてくれませんか」
「……分かりました。私も、きっと覚えていましょう。――この海の色を」
「ありがとう。サン。……まぁでも、また会えるような気がするんです。何となくだけど」
「そうですか。……そうかもしれませんね」
「それじゃ、サンはもう帰った方がいいですよ。引き止めてしまったけど、買い物だったんでしょう?」
「えぇ、そうします。――それでは、シック。きっとまた会いましょう」
「うん。また、会いましょう。サン」
サンはシックに背を向けて、歩き出す。
シックの真摯な瞳が何を意味するのか、サンにはまだ分かっていなかった。ただ、きっと自分も忘れることは無いと思った。
――夕日に染まる、赤い海の色を。