159 疾走、剣閃、血飛沫、悲鳴
サンの疾走が一度も止まらなかったこと。“従者”への恐怖が騎士たちの力量を鈍らせたこと。騎士たちの数が多いがゆえに、サンが視界に現れるまで彼我の距離を測り切れなかったこと。動揺する騎士たちがまだ完全に立ち直っていなかったこと。精神的な部分で、サンは完全な奇襲に成功、局地的な優勢を確保していた。
だが、その優勢が薄氷のように脆く泥濘のように不安定なものであると、サン自身には良く分かっていた。
現状を一言に言い直せば、不意を突いたこけおどしである。騎士たちがその本来の実力を発揮すれば、たちまちの内に弱々しい実態が明らかになってしまう。
魔導砲の直撃をもらったことによるダメージも無視出来る程度のものではなかった。肌を露出させていないが故に隠れていたが、サンの全身には小さな裂傷や打撲、内出血が出来ている。確認する事は出来ないが、完治していなかった左腕と左肩に強い痛みがある。傷が開いたのかもしれない。
体内魔力が未だ安定を取り戻していない事による不調もある。常に内蔵が揺らされているような不快感と胸のむかつき。魔力感覚は分厚いベール越しのように鈍感で、ほぼ無意識で使える筈の魔法に細やかな制御を意識せねばならない。
ついでに、さっきから頭が痛くて堪らない。後頭部の辺りに泥でも詰められたかのような違和感と、がんがんごんごんと主張する頭痛がある。落ちた時か、魔力爆発のせいか。さっきから、痛くて思考がまとまらない。
今分かる事は、考えるまでも無い事は、絶対に止まってはならない事!
ひとたび足を止めたなら、今の優勢は幻のように消えてしまう。騎士たちはすかさず指揮統制を取り戻し、体制を立て直してサンには高すぎる壁となる。サンの実力では、正攻法で越える事の出来ない高く分厚い壁。
壁を作らせない為にはどうするか。決まっている、作られる前に駆け抜ける事!
止まるな、止まるな、止まるな。ひたすら己にそう言い続け、痛む足を必死に動かす。
だが、その時。
一人の騎士がサンの足を止めんと、その身命を捨て去った。
男としても恵まれた体格を有するその騎士は、手に持った剣を構えなかった。その代わりに、サンの進路、その直上に大きく両手を広げて立ち塞がったのだ。
元々が女であるため小柄なサン。両者の体格差からすれば、サンの目にはまるで城壁の如くそびえたって見える。
深く腰を落とし、サンへの痛打を諦め、ただその行く手を遮るためだけに己の肉体を壁とした。
その騎士が攻撃を繰り出していたならば、不確実な姿勢からの全力ならぬ一撃となり、サンの動きを止める事は出来なかったであろう、他の騎士たちがそうであったように。
その騎士の名はどこにも残らず、シシリーア城防衛戦における戦死者の一人として無名のまま葬られ消えていった。
だが、この刹那。その騎士は確かに戦況を変える英雄であった。
脇をすり抜ける事は出来ない。歩幅が足りず、騎士が飛びついてくれば避けられない。
足下を潜る事も出来ない。後ろへ抜け切るより、騎士が地面に倒れ伏してサンを押しつぶす方が速い。
頭上を飛び越える事も出来ない。“飛翔”を使い、上へ飛び上がるには距離も時間も足りない。
結果――。
サンの足が、強く地面を踏みしめて、止まった。
同時に左手で取り出した“雷”の拳銃を正面に向け、まともに狙いを定める事もせずに発砲。尋常の銃であれば、その口径からは考えられぬ威力を持つその銃は、騎士の胸を抉り、傷ついてはならぬ臓器を吹き飛ばし、ほとんど一瞬の間にその命を奪った。
前かがみの姿勢だったのに、後ろへ押されたように騎士の大きな身体が倒れていく。
そのすぐ脇を、再び駆けだしたサンが抜けていこうと――。
無名のまま殉死した英雄の稼いだ時間はほんの僅かであった。
だが、その僅かな時間を後背の騎士たちが繋いでいく。
サンへの致命傷では無く、行く手を遮るような大ぶりでやや遅いくらいの剣閃。その剣閃を避けるため、サンの足が再び速度を落とす。
腹立たしい程にゆっくりとした剣閃がようやく通り過ぎ、地面を蹴って前へ。すれ違いざま、剣の持ち主の首を“闇”の剣の鋭利な切っ先が抉り裂いていく。
再び速度を得ようと地面を踏み――。
すれ違った騎士の、既に亡骸と化した肉体の向こう。その死角から次の騎士の身体が飛び込んでくる。
サンは慌てて体重を後ろ側に引き戻すと、飛びかかってきた騎士の胸に剣を突き立て、回転するように斬り裂いて引き抜く。騎士の伸ばされた腕が虚空を掻き、地面へと落ちていく。
騎士の身体が地面へと墜落し、それを踏み越えて前に出たサンの視界に――。
そこに、万全の構えを取った二人組の騎士が居た。
油断なく、完璧な構えを取って、鋼鉄の剣先をサンに向けている。
連携しやすいよう、横並びながらやや前後にズレた立ち位置。無言の視線には互いへの信頼があり、二人組の連携が鍛錬を重ねた確かなものであることを如実に物語る。
その光景を理解したとき、サンは己の優勢が崩壊したことを知った。
熟練の騎士二人組。サンの白兵戦能力は低くない。低くはないが、鍛錬の日々で年月を重ねてきた屈強な騎士二人を圧倒出来るような、桁外れの強さでは無い。これがシックほどの才覚に恵まれた少年であれば、あるいは贄の王ほどの人智を越えた実力を持つ男ならば、目の前の二人は障害足り得なかったかもしれない。しかし、あぁ、その想定の何と無意味で無価値な事か。ここに居るのは、体格にも天稟の才にも恵まれぬ一人の少女なのだから。
迂闊に前へは出られない。だが、サンは考えるより先に前へ踏み出した。
何故か?それは彼女の敵は目の前の二人だけでは無いからだ。今、サンの周囲全方向に敵が居る。のんびり間合いの削り合いなどしていれば、背後から、側面から、文字通り無数の騎士たちが攻めかけてくる。
サンの腕は二本、足も二本。死角から次々と繰り出される攻撃を捌くには、あまりに足りない。
故に、サンは前へ飛び出す。それが断頭台の階段を上るかの如く死へ突っ込んでいく事と同義であると、そう知りながらも怯まない。何故ならば、そこに立ち止まる事こそ断頭台の刃が落ちてくることを意味すると理解していたから。
眼前の向かい合う騎士が、踏み込みと共に横薙ぎを放つ。完璧な姿勢、万全の構えから繰り出される、何百何千何万と繰り返してきた動き。それは見事にサンの体幹を軌道に捉え、刹那の後にはその身体を両断せん程の力を秘めていた。
しかし、サンとて並の少女では無い。人外の戦闘能力を誇る贄の王との稽古を重ねてきた彼女には、その見事な斬撃すらまだ足りない。
横薙ぎの軌道に、黒い切っ先を差し込むと同時、斜めに構えた黒剣の下に己の身体を収める。
騎士の剣とサンの剣がぶつかる瞬間、柄に伝わる剛力を認識するや、ほんの僅かの力で相手の剣を掬い上げる。すると、相手の横薙ぎが滑った。サンの肉体を斬る筈だった一撃は代わりに虚空を斬り、何も無いサンの頭上へと放り出される。
一手目、捌き終えた。
しかし、敵は二人。それも度重なる鍛錬から高い練度の連携を誇る相棒と呼ぶべき二人組。
サンが自分の剣を斜めに構え、横薙ぎを防ぐ姿勢を取った瞬間、二人目は既に動き出していた。
剣を腰だめに構える。サンが自分の剣に集中する瞬間をめがけて、大きく踏み込んでの刺突を放つ。
サンの目にはそれが見えていた。だが、剣及び右手は一人目の横薙ぎを防ぐために使っている最中。二人目の刺突には対応出来ない。剛力を受け流すために足は地面を踏みしめており、刺突の軌道から身体を逃す事も出来ない。むしろ、そこまでを読みきって二人目は刺突を放ったのだ。
サンは唯一動かせる左手に賭けた。握ったままの“雷”の拳銃、その銃床で刃を殴り落そうとしたのだ。
豪速で己の胴体へ迫る刺突。当たれば死ぬ。極限の緊張状態により、粘つくようなゆっくりとした時間の中、サンの左手が刺突へ向けて振り下ろされていく。
ガヂッ!と鋼と鋼?――“雷”の拳銃の素材は不明だが多分鉄だと思う――がぶつかりあう音がして、豪速の刺突、その軌道を強引にズラす。
サンの胴体、その中心を貫くはずだった刺突はその軌道を変え、サンの脇腹に1センチメートルくらいの深さで傷を作って抜けていく。外套も、下に来ている衣服も割かれ、その下でサンの白い肌に赤い線が描かれた。
腹の内側に鉄の冷たさを覚える気味の悪さに震えた直後、焼かれるような鋭い痛みが背中を伝って脳へと走る。
だがこれで二手目、捌き終えた。
命を絶つはずの二撃を捌き、迫っていた死がサンのすぐ脇を通り過ぎていく。――当然、命拾いと言うにはまだ早い。
刺突を放った二人目は一度剣を体に戻さねばならない。しかし一人目は違う。横薙ぎを滑らされて剣は空中へ放り出されたが、その程度の一撃で制御を手放してしまう程度の鍛え方はしていない。
むしろ、上にあるなら好都合とばかりに振り下ろす。刃の下の、サンに向かって。
鍛え上げられた男の膂力に鉄の重みが加わって、石も割りそうなほどの力強さで落ちてくる。サンの筋力でまともに受けることは出来ない。押しつぶされ、押し切られてしまうだろう。常に、正面からの防御は命取り。捌き、躱し、受け流さねば死があるのみ。
剣が頭上にあるのはサンも同じ。円を描くように右手を下ろし、黒い刀身を跳ね上げて騎士の振り下ろしに合わせる。
ギィィッ!と派手な音を立てて二つの鋼と鋼?――”闇“の剣の素材は不明だが多分鉄では無いと思う――がぶつかり合う。落ちてくる剣閃が半円の軌跡を描き、サンの横を通り過ぎる。――同時、サンは更に前へ踏み込んだ。
一人目の騎士の懐に潜り込む。円を描いたように下ろした右手を更に回転させながら、軌道の更に先を描いていく。優美な曲線を宙に描き、“闇”の剣のその刃が騎士の右脚を切断した。
脚を殺られた生き物は弱い。ずるり、と滑る脚の断面。
騎士は前のめりに身体を崩し、痛みで顔を歪めながら地面へと倒れていく。その脇をサンが駆け抜ける。二人目の騎士は、倒れゆく相棒が邪魔になってサンを追撃出来ない。ならば、わざわざ構う事も無い。
――勝った。よし!
格上の二人組を相手に勝利をもぎ取った。必死の攻防と疾走の最中、サンの胸中に確かな勝利の喜びが訪れる。
そしてそんな僅かな快い感情も、次なる敵が槍を振り下ろした光景に消えていく。
左手に纏った”闇“に物理的な硬度を持たせ、槍の軌道に斜めにした腕を差し込む。力学的必然性に基づき、槍は軌道を変えて地面を強かに打った。
“闇”越しに伝わってきたビリビリと痺れるような痛みを堪えつつ、左手の拳銃を前に向けて発砲。槍を持つ騎士の腰辺りに着弾し、騎士は片足を軸にした奇妙な回転をしながら地面に吸い込まれていく。
そして更に、次なる騎士が眼前に現れては――。




