156 代わりの“贄”
その日は、数日ぶりに西都の街並みから警らの騎士たちが消えた。しかし住民はそれこそただの一人すら外を出歩かず、街並みはさながら人類に忘れられたようである。西都の長い歴史の中でも、ここまで徹底して人が居ない光景は一度として無かったに違いない。
呪いは日を重ねたせいで更にその濃さを増し、無人の道を流れゆく風は酷く澱んで胸を悪くするような穢れを含んでいた。春の昼間にも関わらず陽光は暖かさを知らず、日陰の方がよほど居心地の良い有様。雲が少なく、本来ならば心地良いであろう快晴であることがかえってその気味悪さを強調する。
立って居るだけでじっとりと肌に毒でもまとわりつくような不快感。木々や草花も不自然に彩りを失い始め、そこから生命の息吹を感じる事は難しい。
家の中に居れば楽、という訳でも無かったが、薄ら寒さが粘りを持つような不気味極まる陽光を浴びるよりはマシなのかもしれない。とは言え、今日という因縁の日に限っては、誰一人外に出ようとしないのは当たり前かもしれなかった。
因縁の日、すなわち今日こそが再びの”贄捧げ“が執り行われる日である。
悪く言えば民衆への見世物の側面を持つ慣例的な儀式とは違う。教会より民は家から出ないよう警告され、儀式が執り行われる聖地シシリーアに観衆は一人として居ない。観衆が詰め込まれていた前回とは打って変わって、聖地の空気は緊張感に満ち満ちていた。
シシリーアはその広大な敷地全てに完全武装の騎士たちが展開していた。皆が手に銃と剣、あるいは槍を持ち、魔法使いは組みの者と連携して集団魔術の準備を終えている。所々には弾薬や装備の替え、救護品などが用意され、騎士たちの経戦能力を高めている。
鋼鉄の城門は閉め切られ、鈍色の砦と例えられる威容を強調している。屋上部には巨大な砲が空に向けられている。通常の砲では無い。魔導学の最新技術、魔術陣を攻撃転用したものの一つ。技術的最先進国、エルメアの軍が実用化にこぎつけた物である。あらかじめ大量の魔力を魔法使いが充填する必要があるという欠点はあるものの、砲の向きと距離から三次元的に空間座標を指定、攻撃点に魔力爆発を起こすという代物である。最大充填から二発だけ攻撃が可能である。その魔導砲が三門。聖地上空を睨みつけ、いつでも攻撃が可能な状態になっている。
儀式が行われるまさにその現場、シシリーア城内の聖堂部。前回“従者”が天井の暗闇に潜んでいた失敗から、無数の灯りで明るく照らし出されていた。本来の薄暗さが醸し出す神秘感は吹き飛んでしまったが、お陰で人間一人が潜めるような暗がりはどこにもない。当然、ここにも隈なく配置された騎士たちが厳戒態勢で控えている。
シシリーアに配置された数百を超え、千をも超える騎士たち。皆が各地から集い選別されたエリートであり、各人の武勇はもちろん、連携の練度も非常に高い。聖地をその手で悪から守るという、言わば聖なる戦いを前にして士気は高く維持されている。
数、士気、装備。練度、連携、準備。全て、万全。
聖地シシリーアを守る騎士たち、精強無比なら一つの軍隊は、たった一人の魔法使いを相手に全力の対策を立てていた。それほどまでに、教会がかの魔法使いを重大視しているという証左でもあり、何が起ころうとも“贄捧げ”を成し遂げ都の“呪い”を祓うという決意の表れでもあった。
まもなく儀式の予定時刻という頃になって、シシリーア城内のとある一室に教皇が訪れた。
それを迎えるのは、助祭サンダソニア。まだ若い女性の聖職者であり、教皇の孫娘でもある。
流石は教皇の孫娘、と概ね称賛されている人物でもある。信仰に誠実、人柄は温厚、神への忠誠は固く誓われている。権力闘争が盛んな教会内部において、祖父や家の足手まといにならぬようにと必死の努力が実を結んでいるかたちであった。
しかし、そんな涙ぐましい努力の日々も今日で終わる。彼女こそ、これより行われる儀式の主役。すなわち、“贄”となるのだから。
「助祭サンダソニア。もう間もなく、儀式が始まる刻限である。……不調などは、ありはしないか。」
孫娘に対し、祖父の口調は固く案じる言葉もひどく義務的である。しかしそれは仕方のないこと。この聖地シシリーア城において、二人は祖父と孫では無く、教皇と助祭に過ぎないのだから。
サンダソニアは深々とお辞儀をしてから微笑みを浮かべ、祖父たる男に答える。
「何も、問題はございません。お気遣いに感謝申し上げます、台下。」
揺れる黒髪は艶やかで、滑らかに光を浴びている。見た目が悪くては罵倒の種になってしまうと、日々努力をして育てた自慢の髪である。普段はまとめていたのだが、此度の儀式では下ろしたままの方が似合うと思って、そのままにしている。彼女の今の恰好は助祭の服では無く、“贄”のお役目に相応しく美しい衣装である。
「……左様であるか。」
教皇は、わざわざサンダソニアが控える部屋までやってきたと言うのに言葉少なだった。そんな老人の心を読み取りでもしたのか、サンダソニアは仕方ないような笑みを浮かべる。
「……台下、これまでの日々。誠にありがとうございました。このサンダソニア、台下の血を受け継ぐ一人として、今日までの人生はとても幸福かつ光栄なものでありました。これも全ては、台下のお陰にございます。本当に、本当に……お世話になりました。」
それはまるで、揶揄するならば結婚に臨む娘から父への言葉のようであった。あながち間違いでも無い点は、サンダソニアにとってハリアドス二世という男は父同然であるという点だろう。サンダソニアの父は彼女が生まれる前に病で亡くなってしまっている。
教皇はちら、とサンダソニアの顔をみると、ふいに顔を背けた。
「……私は神に課せられた責務を果たしたに過ぎない。それも、今日この日の為であったのかと思うと……。何とも、感涙に溢れそうであるな。まこと、名誉なことだ。」
口調は実に淡々としていて、名誉に感動している様子は僅かほども無い。
この老人が今何を思っているのか、余人にはとても測りがたい。
だが――。
教皇としての立場が今脅かされていること。
危害が家族に向かおうとしたこと。
民衆を味方につけるため、無理を押して自ら“贄捧げ”を執り行うとしたこと。
“贄”の役目を決めたのが、教皇と敵対する枢機卿団であること――。
あるいはそれらの情報から、推定することくらいは出来るに違いない。
サンダソニアは今、この部屋での時間が最後に残された“人間”としての時間であることを理解していた。ならば、どうして立場などにこだわらねばならないだろう。
今まで、教皇の娘として、あんなに努力を重ねてきたのだ。最後くらい、我儘を許されても主はお見逃しになられるに違いないでは無いか。
さっきから自分の顔を見てくれない敬愛する祖父に近づくと、サンダソニアはそっとその身体を抱きしめた。
教皇、という立場からは少し外れた筋肉質な名残を持つ身体。それはかつて、この男が一介の神官騎士であったことを物語っている。そんな塵芥のような立場から教会の頂点に上り詰めるまで、どのような日々があったのか。本人以外には、きっと想像することも出来はしない。
教皇はその抱擁に対し、びくりと体を震わせると、硬直してしまう。
「……離れよ。……助祭、サンダソニア。神の代理人に対し、不敬、である……。」
「今は、他に誰もいません。おじいさま。」
隠れて監視している者たちならたくさん居るだろうが、知ったことか。
「おじいさま。ありがとう。私のために戦って下さって。私は幸せでした。おじいさまの孫で、娘で、本当に良かった。愛しております。おじいさま。」
「……。」
「私を手にかけること。どうか悔やまないで下さい。私は、どうせ死ぬのならおじいさまの手にかかることが嬉しいのです。おじいさま、今日が終わっても、きっと強く生きて下さいね。私は、先に神の御下でおじいさまをのんびり待っておりますから。」
「……。」
「焦ってこちらに来たりはしないで下さいね。お体を大事にして、病気やお怪我には気を付けて。おじいさまはお野菜が嫌いだから、私が出さなくてもちゃんと食べて下さいね。あんまり早くこちらに来たら、私、怒りますからね。」
「……。」
「……私、わたし……。あぁ、ダメですね。もっと、色々な事を言いたいのに。いっぱい、いっぱい、伝えなきゃいけない感謝があるのに……っ。全然、言葉に、ならない……っ。」
「……。」
「おじいさま。おじいさまっ……!長生き、してくださいね……っ。私を幸せに育ててくれたみたいに……っ。……たくさん、たくさんっ。みんなに幸せをあげて下さいね……っ。わたしっ、わたしっ……!楽しかった……っ!」
そこから先はもう言葉にならなかった。サンダソニアは祖父の胸に顔を埋めて、なるべく静かに、泣きじゃくった。
教皇は、一人の老いた男は、何も言わなかった。静かに娘を抱きしめ返すと、そっぽを向いたまま、静かに震えていた。
突然、きぃぃーーん……!!という甲高い音が轟いた。少し遅れて、びりびりとした振動が城を、大気を、全てを駆け巡って二人の身体を突き抜けていく。
俄かに騒がしさを増し始める聖地。それが何を示しているか、かつて戦場に身を置いた男の理解は実に早かった。
ちらりと聖地の広場、今まさに騒動の中心になっている筈の場所の方へ目線を向ける。壁の向こう、視界には移りようも無いその向こうの景色を、目では無く心に描く。
「……現れおったか。……今日は、今日だけは……。歓迎してやるとも。……“従者”よ。」




