139 訪れる黄昏
斃れた敵兵の顔に突き刺さったままの“闇”の剣を回収すると、怪我に四苦八苦させられながら子供を背負いあげ、“飛翔”の力で飛び上がる。高空を飛んで敵に発見されては堪らないので、屋根の上を擦るように低空を飛び、目に付いた中で最も高い建物の屋根の上に身を潜める。高い建物の上ならば下からの発見は難しいし、登って来るのも一苦労だからだ。
サンが宙を飛べることを知っている騎士たちも同じような事を考える恐れはあるが、とにかく時間を稼ぎたい現状ならば最良の選択肢のはずだ。
子供を背から下ろし、自身も腰を下ろす。
すると子供がすかさずサンの背中に引っ付いてくる。どうも再会して以来サンから離れるのを嫌うようになったのだ。正直ちょっとだけ邪魔なのだが、不愉快というほどではない。それにふらふら歩かれて屋根から落下されても困るので、そのままにしておく。
サンはフードを下ろすと、怪我の様子を見るために外套を左側だけ脱いで肩と腕の怪我を露出させる。
ライフルの弾丸はサンの左上腕を貫通していた。正確には、凹型に肉を抉り飛ばしていた。幸いにして、今なお出血は続いているものの、太い血管の断裂は避けられたようで致命的ではないようである。
斬りつけられた左肩は鎖骨が折れ、鋭い刃に押しのけられた皮膚が赤い谷のような傷口を描いている。当然ながら纏う衣服は血で気味悪く染められているが、こちらも即座に失血死を招くような致命傷には至っていない。
不思議なもので、傷というのは目にすると途端に痛みを増したり気分が悪くなったりする。生温かい血液が己の内側からか細く流れ出ていく感覚が嫌にはっきりと分かってしまい、ひどく不愉快な気分にさせられる。
鞘に収まっている“闇”の剣の柄を右手で握り、そこに魔力を込めていく。剣にもたらされた魔力は、剣の核ともいうべき宝珠――そこに刻まれた魔術陣へと流れていき、特別な魔法が行使される。
それはすなわち、“治癒”。
傷の部分がぐつぐつと煮えるような熱を持ち、不快極まりない痒みと痺れに襲われる。サンは瞼をきつく閉じ歯を食いしばりその不快さに耐える。怪我の痛みは特に引いたりもせず、むしろ増しているような気さえする。
ついでにどれが要因か分からないが眩暈までし始める。それは徐々に酷くなり、座った姿勢から動いていない筈なのに世界がぐわんぐわんと揺れているような錯覚。吐き気を催す耳鳴りのような鈍痛が頭の中で鳴り響く。
しばらくの間そうしていたが、眩暈が我慢ならなくなった辺りでつい剣に込める魔力が途切れてしまう。
半ば投げやりにもういいや、と思ったサンは背中と後頭部に新しい衝撃を受けて、どうやら後ろ向きに倒れたらしいと認識する。
またしばらくの間、目を閉じて痛みやら吐き気やらに耐えていると、今度は急速にそれらが引いていく。
頭に泥でも詰まったような鈍い不愉快さと、傷の痛みだけが後に残る。ゆっくり目を開けると、微妙に狭い視界の端に灰色の頭が見える。視界の狭さが気になって目元に手を伸ばすと、硬質な感触に指がぶつかる。そこで、ああ仮面をつけていたんだっけ、と思い至り、右腕を放り下ろす。全身に酷い倦怠感がのしかかっていて、体を起こすのがひどく億劫だ。
もう一度右手を顔に伸ばして仮面を外すと、仰向けに転がったまま左腕と肩の傷を見やる。
瞬く間に元通り――とは、流石にいかないものの、血は止まり多少回復が進んでいる。2,3日くらいを安静に過ごしていたくらいの治り具合だろうか。医学の知識は余り無いが、これまでの経験から大雑把にそう判断する。
一応は塞がったが無理をするとまたすぐに開くだろうな、というくらいだ。
気怠げに起き上がると、サンは一番外に羽織っていたマントを脱いで右手にナイフを握り、器用に細く裁断していく。即席の包帯として傷の部分に使用するのだ。慣れないと右腕一本で包帯を巻くというのは苦労するのだろうが、“動作”の扱いに多少自信のあるサンには特に問題にならない。
無事に創傷や骨折を固定し保護する。苦痛が幾分和らぎ、特に骨折のあった肩周りはかなり楽になる。
応急処置については贄の王に習った。荒事の絶えないサンのためと手ずから教えてくれたのだが、怪我をしない――正確には出来ない――10年を過ごしていた筈の主がやけに手慣れていたのは謎である。とはいえ、サンはとうにその辺の謎には慣れっこだったので気にしていない。
治療を終えて一息つきつつ、“透視”を使用して周囲に他人が居ないか見回すが、もうしばらくは発見される危険は無さそうである。
サンは座ったまま身体ごと振り返り、子供の方を振り返る。治療中は邪魔を悟ったのか僅かだけ離れたところで大人しくしてくれていた。
その子供の灰色の瞳を見たサンはおや、と思う。振り返ったサンを迎えたのは例の如き虚無の表情では無く……まぁ、ただの無表情と言えるくらいの顔だったからだ。おまけによくよく見ればその瞳は不安げな色を宿しており、この子供が見せた初めての表情と言えた。
サンの口元に小さく笑みが浮かぶと、空色を閉じ込めた目が優し気に細められる。
子供は恐る恐ると僅かな距離を縮めると、サンの服をぎゅっと掴む。
やれやれ、と子供の頭を撫でる。ちょっと別れただけの間に随分感情が豊かになったようだ。人の頭など撫でた経験の無いサンの手つきはぎこちなかったが、不思議な事にその様子は、彼女の主が彼女の頭に触れる時とよく似ていた。
比較的安全とも言える場所だったが、いつまでも留まっていられる訳では無い。
事実、暫しの休息を享受していたサンの視界に屋根の上を渡り歩く捜索の追手が映り込む。恐らく、そう遠くないうちにサン達がいる場所にもやってくるだろう。一段高くなっているここは登るのにもやや厄介だが、無理というほどでは無い。
残念ながら休息は終わりらしい、と結論付けたサンは“欺瞞”を使う。子供を背中に背負い、“飛翔”の魔法を使う。屋根を足で軽く蹴って、ふわりと浮き上がる。
サンは“強化”をかけて地上を行くのは止めた。“飛翔”の力で西都の外を一直線に目指す事にしたのだ。
“欺瞞”を外す訳にはいかない現状、二つしか使えない魔法・権能は“飛翔”と“欺瞞”で埋まってしまう。貧弱な肉体の素の筋力で子供を抱え続けるのは不安だったが、迂闊に“強化”を使えば例の警告を発する道具に引っかかりかねない。権能による“闇”の魔法――つまり、“欺瞞”や“飛翔”、“透視”――は正確に言えば魔法では無い。魔力を用いないそれらが例の道具に反応されない事は既に確認済みだ。
その代わり、こまめに休息を取る必要が出てくるだろう。余計な時間をかけて捜索が手厚くなるのは避けたかったが、既に手遅れであろう。それよりは、急ぎ過ぎず夜を迎えて都の捜索が薄くなるのを待った方が賢明である。
空を見上げれば、大分夕暮れが近づいてきた頃合い。夜になってしまえば“欺瞞”が無くとも夜空がサンを隠してくれるかもしれない。高空でなら“強化”を使っても反応されない可能性も高い。闇に属する存在らしく、夜闇はサンの味方なのだ。
子供を取り落とさないようにだけ細心の注意を払いつつ、サンは西都の空を行く。
しかし“強化”の魔法無しに子供一人背負い続けるというのはかなり辛いものがあり、想像以上に細やかな休息を挟む必要があった。
というのもこの子供、重いのだ――では無く。
サンの少女らしい体力は戦闘を挟んだこともあって限界に近かったが、最大の問題はむしろ怪我の痛みの方だった。
サンが負った傷は左腕と左肩。腕は子供の体重を支えねばならないし、肩は子供の腕が乗る。背負っているだけで傷の部分に負担がかかり、長時間飛んではいられない。無理をすると怪我周りが痺れはじめ、それこそ子供を落としかねない。屋根より高いくらいの辺りを飛んでいるので、地上に叩きつけられれば子供の命が無い事は明白だ。そんな精神的な疲労も余計に加わり、早くも音を上げたくなる。
この調子だと夜を迎えるどころか朝すら迎えかねないな、などと新たな心配を迎えつつ、サンはひたすら一直線に飛んでいく。
とにかく発見される事を避ける。今のサンの最優先事項である。
別に戦うのなんて好きでも何でも無いのだ。必要が無ければ生涯武器なんて持ちたくない。サンが剣術やらの武術を修めているのは護身や保険と言った必要に駆られての意味合いが強く、間違っても強さの求道者では無い。
つまるところは『もう戦いたくない』である。安全が一番。平穏が最高。痛いし、疲れるし、いい事なんて一つも無い。
特にファーテルのような国ではひたすら強さと戦いを求めるような人種がチラホラ居るが、サンからすると異生物みたいなものである。戦いとは手段であって目的では無い……と思うのだが。全く人間とは複雑怪奇である。
またも適当な屋根の上に降り立って休息。子供を下ろして傷を労わる。
剣の“治癒”に頼りたい気持ちはあるが、著しく魔力効率が悪い上に体力も激しく消耗する。贄の王にもなるべくは自然治癒で傷を治すように言われている。
従来の魔法や魔導学から考えれば“傷が治る”というだけで途轍もない事だ。サンの理解の及ばない所で何かしらの代償がある可能性も否定は出来ない。正確には“闇”が云々権能が云々という事で純粋な魔法では無いらしいのだが説明されてもサンには理解不能であった。贄の王とサンでは土台の学術的知識が違い過ぎるのだ。
そんな訳で“治癒”の魔術陣の起動はあくまで緊急用なのだ。一応、所持しているだけでごく僅かながら効果は発揮されているらしいので、その恩恵に預かれるだけ幸運と思う他無い。魔力を込めての起動時とは違い、発熱や不愉快さも無い事が有難い。
夕暮れが近づき、昼間に比べると辺りが暗くなり始めたのが分かる。冬から春に移り変わるこの時節、日が暮れ始めたら夜はもうすぐそこだ。気づけば、気温も下がり始めているように思う。
すぐ隣でサンに引っ付いている子供から伝わってくる体温が心地良い。人の体温って暖かいんだなぁ、とぼんやり考える。
ふと、冬になると薄い毛布に包まって震えながら眠っていた記憶が脳裏によぎる。去り行く冬の終わり、寒さを増していく夕暮れ前。どことなく物寂しさを呼び起こす風が、外套の隙間から冷気を忍び込ませる。
何となく傍らの子供の方に身を寄せつつ、近くの家から漏れる明かりに目を向ける。早くも明かりを灯したようだ。窓の向こう側は何とも言えず暖かそうで、遠い記憶の焦がれを刺激する。
意識しない憧憬が、“家”の暖かさに惹かれる記憶が、窓の向こうに安らぎを幻視させる。何度目かの誘惑がサンの心中に到来する。つまり、どこかの家に身を潜ませる、という案だ。
だがそれが現実的でも建設的でも無い夢想であると知っているから、サンは目を閉じる。
その案はありもしない安息を求める弱さの発露であり、肉体と精神の両面を支配している疲労からの逃避でしかない。冷静に考えれば、何一つ状況を改善するような事は無いとすぐに分かる。
それでもその家の明かりに、窓の向こうの暖かさに惹きつけられるのは、一体誰の渇望だっただろう。
――あるいは……“私”自身、とか……。
サンの手が顔を覆う仮面に触れる。硬質なその感触が思い起こさせるのは一人しかいない。
今になってみると、彼女へ抱いていた想いは“サン”のものだったのかも疑問だ。考えてみれば自分は最初から妙に彼女へ好意的というか、無警戒だった。その時は全く意識していなかったが、今になって振り返れば気づかない内に影響を受けていたらしい事は明白だ。
――まぁ、当然、なのかな……。
何せ彼女は“姉”だったのだ。全霊で自分の為に命を懸けた“姉”を敵だと思うには、“__”の信頼は強すぎた。
しかし、それは良いのだ。それ自体はむしろ美しいことだと思う。
ただ、その場合にサンにとって気がかりなのは、“姉”の方も“__”を見ていたのではないか、という点。いや、恐らくは“姉”にとって自分は“サン”では無かったのだと思っている。“姉”の方も、自分に対してやけに好意的だったのはその証左では無いだろうか。
まぁ、それ自体も良いのだ。素敵なことだと思える。
ただ、ただ――。
自分が“サンタンカ”でしか無いと気づいた今、自分が持つ彼女への親愛が行き場を失ってしまったような、“サンタンカ”という虚像を通した二人の絆に置いていかれてしまったような、そんな寂しさがあるだけなのだ。
「――ね。イキシアさん……。」
ぽつりとサンの口から名前が零れる。
――私がこの仮面を被っていること。何だか皮肉な運命を感じませんか……。
続く言葉は心の中だけで呟いた。
益体も無い感傷だな、と自嘲する。最近はどうもこういう事が多い気がする。
私ってこんなに感傷的だったんだなぁ、と新しい発見を精々歓迎する。いいではないか、何とも“人間”らしくて。
仮面の奥で浮かべた笑みは酷く無様で、滑稽だった。なるほど、確かに仮面というのは便利なものだ。彼女もかつて、こんな風に自分を嘲笑っていた事があったのだろうか?
少女は迷い、悩み、苦しみ、果てに“自分とは何者か”という問いに答えを見出した。
ただ、残念ながら。
その答えは迷いを晴らし、歩むべき道を定めると同時に――。
歩んできた筈の道を、不確かにさせるものでもあった。
過去とは、終わったこと。
もう戻れないこと。
二度と訪れないこと。
過ぎ去ったこと。
それゆえに、過去への迷いは時に未来へのそれよりも深い苦悩をもたらす。変えることも、確かめることさえ出来ない。だからこそ“人”は、決して失せぬ後悔に囚われてしまう。
結局、寄る辺は未来にしか無いのだと、気づき受け入れる事が出来ないのならば、人は過去という無限の牢獄の虜囚であり続けるだろう。
その牢獄には最初から鍵などかかってはいないのに、出ることが出来なくなってしまうのだ。開かないと扉を握りしめるその手こそが唯一の妨げになっている事に気付くことは難しい。
少女もまた、知らず自分の手で扉を閉ざした一人であった。




