126 もう会うことは無いけれど
――夢が終わる。現実に回帰する。
がくり、とサンは膝をつく。見上げれば、そこには老いた男――ビウスの顔がある。その真っ黒に塗りつぶされた目はサンの顔を見つめている。表情は僅かほども変わらないままだ。
サンが見せられた夢――恐らくは遥か昔この場所で起こったこと――は、この魔物という存在の答えを示していた。
夢の中で”王“は言った。『取り残された想いは時として再び肉を得る』と。つまり、それがこの魔物の正体だ。”約束を果たす夢“を見続ける魔物。長い時、ここに取り残され続けたビウスの想いの成れの果て。
いったい、どれほどの時をここで待ち続けたのか。アーマナから人々が去り、砂漠の下に沈み、何もかもが忘れられて、それでもなお。
人の想いは、時とともに絶えるもの。喜びや怒り、悲しみや憎しみ、夢や愛でさえ。永遠の時を変わらずあり続けられはしない。だからこそ、人は変わらぬ何かに想いを託してきたではないか。
それでもこの魔物は、ビウスの想いは、ここにあり続けた。叶うはずなど無い約束を、帰る筈の無い人を、ひたすらここで待ち続けた。
サンはビウスの頬に手を伸ばす。指先に伝わるのは、体温の無い硬い肌の感触。
その時、サンの内側、その深いどこかから未知の熱量が膨れ上がった。
カッ――と、凄まじい勢いで生まれた熱量はサンの心を瞬く間に満たす。燃えるように、叫ぶように。
己の内側から生まれる全く知らない筈のその熱量に、しかしサンの心は恐怖を覚えない。むしろ“サン”は、きっと――“ずっとそれを待っていた”。
そして、それは涙となって零れ落ちる。
ぼろぼろ、ぼろぼろと、とめどなく溢れ続ける涙。サンの口は、“__”の口は、ようやく言葉を紡ぎ出す。
それはずっと、言いたかった言葉。
「『――ごめん。』」
「『――ごめんね。……ずっと、ずっと、待っていてくれたんだよね。』」
「『――あたしがここに帰ってくるって、ずっと……。』」
「『ごめん。ごめんね……。あたし、海の向こうで死んじゃったんだ。帰ってこれなくなっちゃったんだ。』」
「『だから、待っててくれなくても良かったんだよ。あたしの事なんて、忘れちゃって良かったのに。』」
「『そんなの忘れて、幸せになって良かったのに。』」
ビウスの顔が、困ったように笑う。――覚えているより、ずっと老けてしまった顔。しわだらけで、知らない傷もたくさんある。髪は全部白くなって、お爺ちゃんになったって感じだ。
でも、一目でビウスだって分かった。だって、その奇麗な緑の瞳が、あたしを見つめるその優しい目が、何も変わって無かったから。
「『……ばかだよ。ほんとに、ばか。』」
「『でも、でもね。……あたしも、忘れたことなんて無かったよ。一番最期まで、ちゃんと覚えてた。』」
「『だから、だから……。』」
「『ありがと、ビウス。……あたしを、忘れないでいてくれたんだよね。』」
ぼろぼろと涙が止まらない。止まってよ。ビウスの顔が、ちゃんと見れない。
そう思っていたら、ビウスの指があたしの涙を拭ってくれた。かさかさで、硬くて、優しい指。でも、不器用だよ。ぜんぜん、ちゃんと拭えてない。
ずっと、こうしていたい。たくさん話したいことがある。言いたいこともたくさんある。反対に、聞いてみたいことも。
でもダメだ。
やっと会えたけれど、もうお別れしなきゃ。
「『――ビウス。次に会えたら、言いたいって思ってたことがあるの。』」
「『でも、言わない。もう遅いもん。』」
「『だから……うん。もう、ここで、お別れ!』」
ビウスだって、分かってるはず。
「『……じゃあね。また、どこかでね。』」
知ってる。もう、会うことは無い。
あたしもビウスも、とっくの昔に死んじゃってるから。
あたしの前で、ビウスがゆっくり見えなくなる。思わず手を伸ばしかけるけど、我慢する。
そこで、一つ言い忘れてたことを思い出す。
あたしは慌てて声に出そうとした。ところが、もう言葉は出てこない。
残念。時間ぎれみたい。――あたしって、いつもこうだな。
せめて、心の中で言っておく。
――ただいま!ビウス!
――おかえり。“ソトナ”。




